つれづれに

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今日のYoutube
http://www.youtube.com/watch?v=vYlqmvKYUjM

 今日の「随想日記」と、「公開制作」と、「Y路地」の絵画のコピーです。
作家や画家の集中力は、周囲の雑音を全て消すだけの力がある。
公開といえば、ブログも似ている。 文章にするとは、絵に描きだすとは、
集中と段取りが無ければ出来やしない。 まして、世に認められる芸術家は、
常人に計り知れない力がある。 
http://www.1101.com/cgi-bin/photolive.cgi?p=090123_machikadoteki&dt=20090123105049&ob


・・・・・・
横尾 忠則の老人論 ー3 
                          「猫背の目線」横尾 忠則 (著)
   * コスプレの公開制作が面白い!
 コスプレとはアニメやゲームなどの登場人物やキャラクターに扮する行為を指す。
画家が、自分の描く風景の登場人物のコスプレで公開制作とは面白い。これまで色いろな職種を経験してきたが、
制服を着た当初はコスプレのような感がした。
それも数日で同化するから不思議。それは事業も同じで、無我夢中で取り組んでいるうち、
その機能になってしまうもの。人生もコスプレのように、服装も心も身体も全身仮面で時節ごと
付け替えているに過ぎないのではないか。 化粧と服装も、自分が主役のTPOSに合わせたコスプレ?
 ギャルとか、キャバクラ嬢の美成は、その典型・・
  ーその辺りの箇所からー
《 1980年代にさしかかった頃、グラフィクデザインから画家に転向したが、当初アトリエがなかったため
美術館のスペースで 絵を書く事が多かった。それもただで場所を提供してくれるところはなく、
「貸してあげるが公開制作にしてくれないか」という条件が出された。
絵は本来アトリに独り籠ってかく孤独な作業なのに人前で描くということは考えてもいなかったので、
果たして描けるかどうかに頭を痛めたが、やってみると意外と抵抗もなく、むしろスイスイ描けることに
我ながら驚いたものだ。
 それ以来アトリエができるまであちこちの美術館で公開制作を行ってきた。人前で描くことは確かにプ
レッシャーになったり、ストレスの原因を生むが慣れてしまえぱ平気である。背後の観客から、
集中する僕に突き刺さってくるのがヒシヒシとわかる。こんな想念がぼくの中でエネルギーに変換されて
より創造的になることを発見した。この場合の創造というのは無私になること。
不思議なことに雑念が去来しなくなるのである。そう言う意味で座禅に近いのかもしれないが、
座禅とて雑念に振り回される場合が多い。その点、公開創作の方が「私」意識が薄れるのである。
 それはは考えるということと描くということが一体化されるからだ。おまけに描くスピードが早くなり、
手と心が同化していくのがよくわかる。だから時には一日で150号大の作品が描き上がることさえある。
観客がこちらの一挙手一投足を固唾を飲んで見ているのが体に伝わるので、思わず手を休めるのを
忘れて描き続けてしまう。このことが描きてであるぼくを解放する。
 公開制作の味を占めたぽくは最近また続づけるようになった。しかもコスプレによって制作する。
 公面制作で描く絵は、ぼくが近年描き続けている「Y字路」である。そこで道路で作業している
現場の人たちと同じ格好で絵を描くことにした。街でよく見かける ー幅の広いズボンにベスト着用、
頭にはタオルを巻いてー とこんな風景をよく見かけるでしょう。つまり鳶職スタイルである。
他の学芸員も道路工事の関係者の役回りになってもらう。最初は観客は度肝を抜かれ、ギョッとした顔に
なって、次はケラケラ笑う。それも一瞬、こちらが真剣に絵を描くものだから、あとは会場は水を打ったようになる。
 よく仮面の効用というが、コスプレはまさに全身仮面になり、人格も他者になるわけだから不思議な解放感に襲われ、
その結果、実に自由な気分になるのである。そして描く行為そのものも絵と同じように作品化されてしまう。
だから観客はパフォーマンスを鑑賞することになる。
 制作の休憩時間に美術館のレストランにこの格好で入っていくと、まずお客は場違いなものを目にしたわけだから、
なんとも当惑した顔をする。われわれに向ける視線には明らかな拒否反応の色が見える。
「作業着のままでよく、ソフィスティケイトされた美術館のレストランに入ってくるわね」という視線を投げてくる
と同時に「レストランの人たちは何もいわないのか」と。 ぽくがコスプレしていることがわからないのだけど。
そんな反応をぼくは実は楽しんでいるのである。これも仮面の効用で、普段体験できない経験に
ほくは悦に入っているというわけだ。》
 ▼ それは、自分自身にも、人間そのものにも当てはまる。 両親合作の心身を「魂らしい自分の芯」が、
コスプレ? として自分を見つめ続けている。 さすがに横尾忠則である。描き手の目線を、その環境の
一人として、まず服装から当事者になってしまう。 そして観客も、その場の一人として引き込んで、
作家のイメージの世界に誘導する。
・・・・・・・・

2006年09月10日(日)
 H0903 只今・戦闘中!
母が痴呆症になり丸三年が過ぎた。 安っぽいヒューマニズムや一時的な情愛など
“今の現実・現状の前に吹き飛ばされる!。家庭内は子どもを含めて毎日、毎晩が戦闘である。
週に一度は一晩に十数回起こされる。朝起きると寝る前より疲労している状態である。
親と子といえども正常人と異常人の戦いである。異常と正常が蛍光灯のように混合するから更に
問題が深く複雑になる。
 母自身も正常なときに“今の私の齢になりこの経験をしてみなくては、この辛さをわかってもらえない!”
というのも身にしみるから歯がゆい。遠くにいる姉達が時々きて、忠告、助言をしてくれる、
それが一面しかとらえてもらえず心臓を貫く位、一言一言が痛い!
でも口先介入だけの甘さが“中途半端な傍観者”として“怒りの嵐の対象になる。
でもこの行き違いは痴呆看護の大部分に生ずるトラブルで、ごく普遍的な事という!
年齢的風景の為か知人、取引先の人にも七人も同体験者がいる。”母を十年介護・見送った。
近親者のトラブルは当然あった。……そして娘が介護士になった。この苦痛は同居介護した人間でなくては
絶対わからない。“実父を十年介護。自分の中にこんな優しさがあるとは…自分がうれしかった。”
“自分の近くに住む実姉が姑を完璧に看ておくった! 今自分の家庭に来て、看護について口を出す!
 おそらく貴方の場合よりつらいのでは?” 等等、まだまだあるが書けない位すざましい!
こんな事表現していいのか憚るが、心の中である姉に対してナイフを突き刺すイメージを持ったり、
妻に対しても“絶対に亡くなったら離婚してやる?”等・思ってしまう。
それだけ追いつめられてしまうものだ。今まで帰宅拒否症候群というのが私には理解できなかった。
本当はうれしいはずの金曜日の夜、帰宅するのが本当につらい!月曜日は朝、会社に飛び出ていけるのが救い。
妻にはそれがないだけ辛いはずだ! でも、すばらしい事も当然ある!家の中が暖かい!
赤ちゃん、幼児がいる家のそれである。 本人は天使そのものである。家より火が吹き出しているようだ。
それと子供達が何も言わずに私達以上に母の介護をしてくれる!子供に教えられるとはこの事である。
 (ボツにしていた原稿だが母が亡くなり半年、供養も含めてあえてだしてみた)