「猫背の目線」横尾 忠則 (著)
    * コスプレの公開制作が面白い!
 コスプレとはアニメやゲームなどの登場人物やキャラクターに扮する行為を指す。画家が、自分の描く風景の登場人物の
コスプレで公開制作とは面白い。これまで色いろな職種を経験してきたが、制服を着た当初はコスプレのような感がした。
それも数日で同化するから不思議。それは事業も同じで、無我夢中で取り組んでいるうち、その機能になってしまうもの。
人生もコスプレのように、服装も心も身体も全身仮面で時節ごと付け替えているに過ぎないのではないか。 
化粧と服装も、自分が主役のTPOSに合わせたコスプレ? ギャルとか、キャバクラ嬢の美成は、その典型・・
  ーその辺りの箇所からー
《 1980年代にさしかかった頃、グラフィクデザインから画家に転向したが、当初アトリエがなかったため美術館のスペースで
 絵を書く事が多かった。それもただで場所を提供してくれるところはなく、「貸してあげるが公開制作にしてくれないか」
という条件が出された。絵は本来アトリに独り籠ってかく孤独な作業なのに人前で描くということは考えてもいなかったので、
果たして描けるかどうかに頭を痛めたが、やってみると意外と抵抗もなく、むしろスイスイ描けることに我ながら驚いたものだ。
 それ以来アトリエができるまであちこちの美術館で公開制作を行ってきた。人前で描くことは確かにプレッシャーになったり、
ストレスの原因を生むが慣れてしまえぱ平気である。背後の観客から、集中する僕に突き刺さってくるのがヒシヒシとわかる。
こんな想念がぼくの中でエネルギーに変換されてより創造的になることを発見した。この場合の創造というのは無私になること。
不思議なことに雑念が去来しなくなるのである。そう言う意味で座禅に近いのかもしれないが、座禅とて雑念に振り回される
場合が多い。その点、公開創作の方が「私」意識が薄れるのである。
 それはは考えるということと描くということが一体化されるからだ。おまけに描くスピードが早くなり、手と心が同化して
いくのがよくわかる。だから時には一日で150号大の作品が描き上がることさえある。観客がこちらの一挙手一投足を固唾を
飲んで見ているのが体に伝わるので、思わず手を休めるのを忘れて描き続けてしまう。このことが描きてであるぼくを解放する。
 公開制作の味を占めたぽくは最近また続づけるようになった。しかもコスプレによって制作する。 公面制作で描く絵は、
ぼくが近年描き続けている「Y字路」である。そこで道路で作業している現場の人たちと同じ格好で絵を描くことにした。
街でよく見かける ー幅の広いズボンにベスト着用、頭にはタオルを巻いてー とこんな風景をよく見かけるでしょう。
つまり鳶職スタイルである。他の学芸員も道路工事の関係者の役回りになってもらう。最初は観客は度肝を抜かれ、ギョッと
した顔になって、次はケラケラ笑う。それも一瞬、こちらが真剣に絵を描くものだから、あとは会場は水を打ったようになる。
 よく仮面の効用というが、コスプレはまさに全身仮面になり、人格も他者になるわけだから不思議な解放感に襲われ、
その結果、実に自由な気分になるのである。そして描く行為そのものも絵と同じように作品化されてしまう。だから観客は
パフォーマンスを鑑賞することになる。制作の休憩時間に美術館のレストランにこの格好で入っていくと、まずお客は
場違いなものを目にしたわけだから、なんとも当惑した顔をする。われわれに向ける視線には明らかな拒否反応の色が見える。
「作業着のままでよく、ソフィスティケイトされた美術館のレストランに入ってくるわね」という視線を投げてくると同時に
「レストランの人たちは何もいわないのか」と。 ぽくがコスプレしていることがわからないのだけど。そんな反応をぼくは
実は楽しんでいるのである。これも仮面の効用で、普段体験できない経験にほくは悦に入っているというわけだ。》
 ▼ それは、自分自身にも、人間そのものにも当てはまる。 両親合作の心身を「魂らしい自分の芯」が、コスプレ?
 として自分を見つめ続けている。 さすがに横尾忠則である。描き手の目線を、その環境の一人として、まず服装から
 当事者になってしまう。 そして観客も、その場の一人として引き込んで、作家のイメージの世界に誘導する。
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4185, 呪いの時代 ー4
2012年09月10日(月)
             「呪いの時代」内田樹
  * 脊髄反射的その場のつくろい       ー 第3章 「後手」に回る日本 ーより
 島国の閉鎖的社会では、問題を荒立てないために「その場のつくろい」も必要である。しかし、情報化社会では、
それは許されるものではない。現在の日本の政治は、毎年、首相を交換させることで、その場のつくろいをしているに過ぎない。
それを国民が求めているから首相は、問題解決の痛みを敢えて強いることをしない。そして一年もしないうちに引きずり下ろされる。
  ー以下の部分は、その理由を端的についている。
≪ 日本の政治家とアメリカの政治家の違いというのは、武道で言うと、アメリカは基本的に「先手」の人であり、
「日本は後手」の人ということ。欧米では、とりあえず国家が行くべき道というか、実現すべき国家像というビジョンがあり、
それが国民的規模で共有されている。日本には、そんなものはありません。終戦時に、それがなかった。とりあえず、
アメリカ人が日本がかくあるべしと考えていること」をもって国是とした。「自分で与えた憲法の理念と背馳する命令が
出せるほどの強大な国家には従属するしかない」という経験則が存在したということです。それが日本の国是です。
アメリカに従属する。 ・・・ 相手が次に打ってくる一手に最適対応すべく、全神経を集中すること。どれを武道では
「居着き」と言います。物理的には足の裏が地面に張りついて身動きならない状態ですが、構造的に「負ける」ことです。
日本の政治が三流であるということはそういうことです。政治家個々人の資質がどうこうでなく、構造的に負けているのです。
国家像が描けない、統治原理が語れない、外交戦略が起案できないというのは個別的な知性の問題でなく、日本人全員が
罹患している国民的な病です。・・・ ≫
 ▼ 現在、日本が直面している問題は、まさに上記のことによる。数十年に渡って、間接的米国隷属国家として、当然、
 と言えば当然で、これしか出来なかった。上司と部下の関係である。アメリカには建国の精神がある。独立宣言書である。
 何かあると、ここに立ち戻って、立て直す。問題があるのは、それから軌道がそれたと理屈づけ軌道修正をしてきた。
 明治維新も、太平洋戦争の敗戦も、アメリカの圧力で変化を余儀なくされた。それに日本人の特質もあり、後手という
 守りしか手が打てなかった。現在の領土問題も、これから起因して周辺各国から遊ばれている状態。  つづく
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3820, 哲学人 ー�
2011年09月10日(土)
   * 現実と経験と言語は一緒ではない       ー「哲学人」ブライアン・マギー著より
  ー まずは、「現実把握は、言語的分類次第で決まる」という部分から ー
【 言語が経験を構成するというのである。この見解についてジョーン・サールが、明快に述べている。
≪ 私は言語が現実をつくると言っているのではありません。とんでもない。むしろ、私が言おうとしているのはこういうことです。
 何を現実とみなすか ーどういうものをグラス一杯の水として、一冊の本として、一脚のテープルとしてみなすか、どういうものを
 同じグラスとか違う本とか二脚のテープルとみなすかー は、私たちが世界に押しつけるカテゴリーしだいなのです。
 そして、こうしたカテゴリーはたいてい言語的なものです。それだけではありません。世界を経験するとき、私たちは経験そのものを
 形成する際に役立つ、言語的なカテゴリーを通じて世界を経験しているのです。 世界はもとから物体と経験に分かれて存在している
 わけではありません。何を物体とみなすかは、もともと私たちの表象体系の一機能の結果であり、経験のなかから世界をどう知覚するかは、
 その表象体系に影響を受けているのです。 言語を世界に適用することを、いわばみずから独立自存する物体にラベルをつけることだと
 想定するのは間違いです。私の考えでは、世界は私たちが分類するとおりに分類されるのであり、事物を分類する主な方法は言語に
 よるものなのです。 現実の把握は、言語的なカテゴリーしだいなのです。≫
  この考え方はいまなお、哲学者ばかりか、文学や言語学をはじめとする他分野の専門家たちによって、さらには、一部の社会学者や
 人類学者たちによって唱えられている。「何を物体とみなすかは、もともと私たちの表象体系の一機能の結果であり、経験のなかから
 世界をどう知覚するかは、その表象体系に影響を受けている」という点については、私もサールに賛成したいし、誰もが同意しなくては
 ならないだろうが、私としてはこれをカント哲学的な意昧に解釈したいと思う。 ただし、その表象体系に含まれるカテゴリーが
 基本的に、もしくは第一に言語という性質をもつとする点は認められない。考え方としてはわかる。 わからないのは、そしてこれまで
 一度として理解できたためしがないのは、どうしてそんな考えを抱けるのかということだ。というのも、それは私の直接の経験によって
 真っ向から否定されるように感じるからである(この点に関して私が特殊であるとは思えない)。】
 ▼ 事業が、この結果(倒産)で終わった。総括は頭を冷やした来年早々にするつもりだが、それが、この30年の構成の提示になる。
  創業10年、中間期10年、最後の10年、そして最後に、どのような終わり方をしたか?、その時の断面は、どうだったか。
  それを、どういう切口で分類し、評価するかである。 30年、人生の事業生活の大部分を注ぎ込んだ、この結果は? 
   要は、倒産で終わったということ。その視点を失うと、総括は不可能になる。 炎上している世界経済と、ネット社会の
  移行の中で日常が音を立てて変化している。その中で、言語的分類の枠組みを立て直すことが、まず求められる。
  「3つの震災が何もかも飲み込んだように見えるが、実は情報化の潮流に飲み込まれたのが真の理由だったのか?」これも言語的分類。
   分類は分析の第一歩。そのプロセスが総括。そこで価値(意味)を自ら下げることもない。今までの価値観のコペルニクス的転換の時。
  ここの小テーマが「現実と経験と言語は一緒ではない」である。 当然、この小テーマが問題になる。「言語は、それを構成する」だけ。
  消滅してしまった事業の総括。ただ、それだけだが・・あと講釈でしかない、だから冷静に見つめないと。意思決定から45年である。
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3455, 渥美俊一氏死去
 2010年09月10日(金)
 ペガサスクラブの主催者で、日本リテイリングセンターの渥美俊一氏が亡くなった。チャーンストア時代の大きな転換期の目安になる。
そこには、桜井たえ子という渥美先生の片腕の女史がいるが、彼女がペガサスを支えることができるかどうか?  昭和30年半ば、
大手スーパーや専門チェーンの創業経営者のほとんどが渥美先生の元に終結、成長・拡大し、そして消えていった。現在でも流通界における
カリスマ的指導者で、亡くなる直前まで講義を続けていた。氏が主宰していた「ペガサスクラブ」の指導は厳しいのは衆知のこと。
日本の高度成長を流通面から支えた貢献は多大である。 バブル崩壊後は、ダイエー・マイカル・西武流通グループの倒産が象徴するように、
チェーンストア理論が必ずしも有効に機能しない側面が表面化し、これまでの勢い失っていった。最近ではユニクロのように、ペガサスに
創業当初から属さない成長チェーンも出現してきている。 学生時代、大学の近くの書店で月刊誌の「販売革新」を手に取り、渥美俊一
「ペガサスクラブ」を立ち上げ、ダイエーヨーカ堂などのチェーン店のコンサルタントをしていることを知った。
そして、「チェーンストアへの道」という10巻シリーズのチェーンストアつくりの戦略、手法が書かれている理論を貪り読んだ。
そして、それをベースに卒論「流通革命」を書いた。 それもあってジャスコの創業一期生として入社をした。そうこうあって渥美先生には、
大きな影響を受けた。そして現事業の立ち上げでは、その裏づけとしての理論的背景にチェーン理論があった。 
セミナーだけで、50〜60回は出続けた。 その費用は、長岡市郊外の二つの土地転がしで直ぐに元は取れた。 
立地論から、バイパス沿いの若い土地の短期転売で利益を得て、その理論の正しさを確認した。 しかし20年前にバブルが弾けた瞬間、
彼の理論は、時代とはかけ離れたものとなってしまった。「バランスシートの右と左を拡大しながら店数を増やしなさい。
それも町のバイパス沿いのヘソ(要所)を見つけ、自店舗を建てることで価値をあげ、それを担保に拡大出店を続けなさい」という理屈である。
 またアメリカの流通事例を見せるため店舗見学ツアーを組んで、2、300人と連れて行くのである。私も二度、参加したことがある。
大量生産、大量消費の時代、流通システムが全く旧態だった日本に、新しいバイパスとして、スーパーや、総合量販店、専門店を、
チェーン化で、販売経路の拡大戦略を指導してきたのである。彼は死ぬ直前まで、「日本の流通は未完である」と、その指導の手を
緩めることがなかったのは、やはり経営コンサルタントとしては、超一級だった証である。 ご苦労様。 ご冥福を! 
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3080,再び死について考えてみる
 2009年09月10日(木)
 一昨日、従姉妹の通夜に参列をしてきた。 地元の米屋に嫁に行ったが、小姑が多くいて難儀をしていると聞いていた。
「この世に、今時にこんな厳しい嫁の環境があるのだろうか」と思われるほどの重荷を背負っていたようだ。その10日ほど前に、
長岡のグリーン・ホテルの先代社長が先月27日に亡くなったと死亡広告にあった。一度、当方の事務所に来たことがあったが、
創業時にホテル業についての話を聞きに行った事があった。暗い顔をした気難しそうな人だった。「自分の兄弟二人が、新潟駅前で
ホテルをしているのを知らないね」と言われ、それさえ知らない無知を恥じた記憶がある。 三条、柏崎、長岡三棟、東京の上野近くで
6棟を建て、子供たちに一棟ずつ与えるのが夢だったというから、それはそれで・・。  ところで、身近な知り合いと、
三者の中間の立ち位置の「二・五人称の人」が死を考えるに最適という。第三者と第二者=知人と中間の立場の立場の死から
多くのことが見えてくる。知っている程度の人である。「死ぬ=無になる」、という論理の矛盾(無になる〜無には成りようがない
ー無いものに何故なる?)という池田晶子の言葉の通りに、死という言葉のイメージが刷り込まれる立ち位置にあるのが2・5人称の人。
10歳の頃、親戚の葬式に親と出席した時に思った、「何で人は周囲の眼を気にして好き放題生きないのだろうか?」と。
子供ながら凄い疑問を持ったのである。そのうちに、その疑問を忘れてしまったが、次の疑問は父親の死に接した時である。 
 死の瀬戸際から、逆に「生きる輝き」を逆噴射して見つめた視点である。 死に際で、「あと、せめて三年、生きたい」という生への
渇望の言葉を聞いた。それが日々強くなっていった。その時に「人間は生きているそのことだけでベストである」ことを肌で感じ取った。
そのためか、父親が亡くなってから人生観が変わってしまった。「一日一日を生ききること」が人生から与えられた責務と!。
知人の死だけでなく、身近な人の死も多く教えてくれる。 生老病死 苦集滅道 とは よくいったものだ。 
般若心経をパソコン画面に貼り付けておこうか! 
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2715, 「要素還元論」と「二元論」
2008年09月10日(水)
 島田雅彦・対談集「無敵の一般教養」の松井孝典の対談で
松井孝典が、考える方法として「要素還元論」と「二元論」を解りやすく手短にまとめていた。
  ーまずは、その箇所である。
【物事を深く理解しようと思うと、考える枠組みをよりシャープに細かくとっていかないと、解くべき問題を設定することすらできない。
それがわれわれの脳の仕組みと合っているのかもしれない。だから、時代とともに、より細かく対象を分け、より細かい領域で物事を
明らかにしてきた。 それが要素還元論です。しかも自然と人間とを分ける。考える主体と認識される客体を、とりあえず分けなければ
思考はスタートしないわけで、それが二元論でしょう。 現代を生きる人は、これまでの教育でそれを徹底的にたたきこまれているわけ。
「わかる」とは何なのかについて、それ以外の「わかる」ということは考えられないわけです。ぼくは今、地球学とか
アストロバイオロジーとかで、二元論と要素還元主義の枠を超えて、昔のようにとりあえず現代の知の体系のすべてを認識しましょう
ということを主張しています。何か新しい方法論が出てこないと、「生命の起源と進化」という問題は解けないと思うからです。
そういう過激な認識を持っているわけです。 とりあえず、二元論と要素還元主義に対抗する方法論として、「システムと歴史」
という見方で、もう一回すべてを見直そうとしています。宇宙も地球も生命も人類も文明も全部一緒に論じようとしています。
数学は言葉です。経験しない現象を語れることばが数学なんです。宇宙の始まりは過去のことで我々は経験しえない。 
そういう現象を語るためには数学以外に語ることばがない。いわゆる言語はすべて経験によって意味が裏付けられている。
そういう種類の以外のことばを持たない限り語れないでしょう。】
  〜〜以上である。
 なるほど、こういう思考の捉え方があるのには驚いた。「帰納法演繹法」発想法として「KJ法」「テーゼ、アンチ・テーゼ、ジンテーゼ
とか、情報収集の中での発火(発想)方式などあるが、「要素還元法」「二元法」も、上記の中でしていたことである。
この年齢になって初めて初歩的な知識を得ることの、何か恥ずかしいような、無知の再確認をさせられているようである。
それに加えて、松井教授は、「システムと歴史」という考え方を提示している。これは宇宙、地球システム、人間の歴史、個人の歴史、
全てに当てはめて考えることができる。要素還元法、二元法の限界を、一度「システムと歴史」という視座に入れて考えると、限界を
超えることができるという。「システムと歴史」の意味が理解できなかったが人間の歴史、個人の歴史に置き換えて考えてみたら理解できた。
「システムと、これまでの始まりとプロセス」ということ。「数学は言葉です。経験しない現象を語れることばが数学なんです。
  (字数の関係でカット11年09月10日)
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2007年09月10日
べナレスー7
3、 多くの化身を持つヴィシュヌ神
インドには石造りの壮大な寺院から路傍の祠にいたるまで、様々な神様が祀られている。
それらの中で現在最も信仰を集めているのが、ヴィシュヌ神シヴァ神である。
 (字数の関係でカット08年09月10日)
 ーーー
解)ユダヤ教キリスト教の関係と、ヒンドゥー教の関係が似ている。
 何でもそうだが、必ずその母体があるものである。特に、厳格なものから、弱者の立場に立ったものが・・・
 ーー
4、破壊と再生をもたらすシヴァ紳
ヴイシュヌ神と勢力を二分するシヴァ神は、もともと暴風の神であったものが民間信仰と融合し、
次第に破壊と再生を司どる最高神となつた。
  (字数の関係でカット08年09月10日)
・・・・・・・
2006年09月10日(日)
 1986, 事業百訓・・・?
H0901 事業百訓  
 480 準備!そこから魔法がはじまる。 準備とは創造する喜びだ!。
   準備とは人生を苦労して前進する事、悩みながら生きていく事。
   ...並はずれたIQを持っているが、準備をするほど賢明ではない人よりも、
   力強い議論の準備をととのえている普通の人になりたい。準備とはあくまで“心の底”の栄養だ!。
    (ゲ−リ−・スペンス=議論に負けない法)
     (字数の関係でカット11年09月10日)
 H0903 只今・戦闘中!
母が痴呆症になり丸三年が過ぎた。 安っぽいヒューマニズムや一時的な情愛など
“今の現実・現状の前に吹き飛ばされる!。家庭内は子どもを含めて毎日、毎晩が戦闘である。
週に一度は一晩に十数回起こされる。朝起きると寝る前より疲労している状態である。
親と子といえども正常人と異常人の戦いである。異常と正常が蛍光灯のように混合するから更に問題が深く複雑になる。
母自身も正常なときに“今の私の齢になりこの経験をしてみなくては、この辛さをわかってもらえない!”
というのも身にしみるから歯がゆい。遠くにいる姉達が時々きて、忠告、助言をしてくれる、
それが一面しかとらえてもらえず心臓を貫く位、一言一言が痛い!
でも口先介入だけの甘さが“中途半端な傍観者”として“怒りの嵐の対象になる。
でもこの行き違いは痴呆看護の大部分に生ずるトラブルで、ごく普遍的な事という!
年齢的風景の為か知人、取引先の人にも七人も同体験者がいる。”母を十年介護・見送った。
近親者のトラブルは当然あった。……そして娘が介護士になった。この苦痛は同居介護した人間でなくては絶対わからない。
“実父を十年介護。自分の中にこんな優しさがあるとは…自分がうれしかった。”
“自分の近くに住む実姉が姑を完璧に看ておくった! 今自分の家庭に来て、看護について口を出す!
 おそらく貴方の場合よりつらいのでは?” 等等、まだまだあるが書けない位すざましい!
こんな事表現していいのか憚るが、心の中である姉に対してナイフを突き刺すイメージを持ったり、
妻に対しても“絶対に亡くなったら離婚してやる?”等・思ってしまう。
それだけ追いつめられてしまうものだ。今まで帰宅拒否症候群というのが私には理解できなかった。
本当はうれしいはずの金曜日の夜、帰宅するのが本当につらい!月曜日は朝、会社に飛び出ていけるのが救いである。
妻にはそれがないだけ辛いはずだ! でも、すばらしい事も当然ある!家の中が暖かい!
赤ちゃん、幼児がいる家のそれである。 本人は天使そのものである。家より火が吹き出しているようだ。
それと子供達が何も言わずに私達以上に母の介護をしてくれる!子供に教えられるとはこの事である。
 (ボツにしていた原稿だが母が亡くなり半年、供養も含めてあえてだしてみた)