つれづれに

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 さてと、今朝は今にも降りそうだったのでポタリングは中止。
で、これから出発である。自転車というのは、野球帽をかぶり、ジーンズに
ジャケットを着ていると、単なる風景の中の一人になってしまうからよい。


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2005年07月25日(月)
1574, 日本人の苗字ー2
 日本の苗字の多い順ランキングは、この本によると以下の通りである。
1位 佐藤 1914300人
2位 鈴木 1692300人
3位 高橋 1406000人
4位 田中 1324200人
5位 渡辺 1090400人
6位 伊藤 1072400人
7位 山本 1068200人
8位 中村 1041200人
9位 小林 1011900人
10位 加藤  853300人
田、藤、山、野、川、木、井、村、本、中などが名前によく使われる漢字ベスト10である。
これからみて、自然と土地の名前と関係の深い文字が多いことが分かる。
元々、苗字を持つことは特権階級のもの。江戸末期の苗字を持っていた人口は20~30万人、約1万姓だった。
明治初期の苗字の義務化により、29万の姓が増えてイッキに30万になった。それ以前より非公式に
使っていた例も多かったようだが、一般的には、苗字は100年しか経ってない新しいものなのである。
明治8年の平民苗字必称義務令が出たときに、慌てて作られた苗字が多くあった。そのため、
苗字を決めるときの悲喜こもごもが、そのまま現在でも残っている。笑うに笑えない実話が無数にある。
ーこの本の中の幾つかの実例を抜粋してみるとー
・喧嘩の耐えない夫婦に、庄屋の旦那が「円満」といわれて、そのままそれが、苗字になった。
・若い身空で後家になった女に、ご隠居に「口説かれたら『射矢』といいなさい」と言われて、
名前をそのままつけた。
・大学の前に住んでいたので『大学』
・大工だったので『大工』
・仙人のような顔をしていたので『仙人』
女道楽が過ぎるので『女楽』
愛媛県南宇和郡網代村の村民の名前が、
 株菜、大根、浜地、鱒、稗田など、魚と野菜の名前ばかりの村がある
・庄屋が、その男の顔が蛸に似ているので、面白がって 『太古』とつけられ、 
 教師になった後で「タコ、タコ」と馬鹿にされて辞職した。
 ーー
そういえば親戚の葬式に出たときの話、隣の席に「家老」という珍しい名前の人がいた。
「珍しい名前ですね!」というと、「実は『けら』という名前だったが、虫の名前で馬鹿にされるので、
今の名前に改名したのです」とのこと。
あるHPには、数学的計算から「日本人が27人以上いれば同姓者がいる可能性の方が高い」という。
5000種で、日本人の苗字の約80%をカバーしている。
世界で一番苗字の種類の多い国は、アメリカで、世界中からの移民で成り立った国の由来であろう。
自分の名前は、先祖からのメッセージという。更に自分の名前は、親からのストレートのメッセージになる。
父親から「八郎の八は末広がりで、中国ではお金という意味がある」と言われたことがある。
実際のところは、兄姉八番目に生まれたからだが。
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以下は幾つかの参考サイトである。みればみるほど、面白い!
・日本の苗字7000傑
http://www.myj7000.jp-biz.net/
この苗字はどの都道府県に多いか?
http://homepage1.nifty.com/forty-sixer/bunpu.htm
・ドイツの上位200姓やアメリカの上位200姓
http://www.ipc.shizuoka.ac.jp/~jjksiro/dtsjin.html

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2004年07月25日(日)
1209, ヘーゲル ー哲学について-20
ヘーゲル
マルクスの後になってしまったが、近代哲学でヘーゲルが基点になる。
ヘーゲルは、「現実世界とその歴史は精神的な発展していく姿ー現象と考え、
それは自己認識に到達するための歴史的プロセスである」と考えた。
心や精神は無機質の自然から生まれたのではなく、それ自身が存在の中心的な構成要素であり、
現実を構成する歴史的プロセスの主体と捉えた。この全プロセスを現におこっていると
認識しているもの(存在の究極的な本質)を、ドイツ語で「ガイスト」と呼んだ。
この意味は「精神」と「心」の中間のようなものであった。
ヘーゲルにとって、ガイストは、存在の核心、存在の究極の本質であった。
ガイストが自己認識を目指して発展する姿であった。
それが達成されると、全ての存在は調和をしてひとつのものになる。
それをヘーゲルは「絶対者」とよんだ。それが「絶対的観念論」である。
ヘーゲルには3つの理論がある。
1、さっき述べた現実とは歴史的なプロセスであるという考え方
2、二番目には、歴史は合理的な構造を持っており、その構造を理解するために
  必要なのは変化の法則、すなわち弁証法(正・反・合)であるという考え方
3、三番目には、疎外についての理論である。
  人間は、文明を築くプロセスの中で色いろな組織や規則や思想や宗教を生み出してきた。
  それが逆に人間を抑圧するようになって、自分で作ったものなのに自分のものでなくなってしまった。
  宗教が、その端的なものと考えた。神を自分の投影として作っておきながら
  それとは異なる存在、正反対の存在として考えてしまうようになった。
ヘーゲルの思想のいま一つの特徴は、「国家への崇拝」がある。
{人は全存在を国家に背負っている}と考えた。それがヒットラーなどに利用され
右翼的な民族主義者とみなされた。また共産主義者からもその国家観を利用された。
現在の哲学思想の四大潮流、ヘーゲル哲学・マルクス哲学・実存哲学・分析哲学は、
ヘーゲル以後、哲学史そのものといってよい。
[ヘーゲル弁証法]とは、
ー出発点の第一段階は、「テーゼ(正)」とよばれ、これに刺激をされて生まれる
対立的な反応が第二段階で「アンチテーゼ(反)」で、この二者の対立がやがて解消されてそのどちらも
のりこえた新しい状態が生まれる。それが第三段階の「ジンテーゼ(合)」になる。
しかし、この第三段階は新しい状態なので新しい対立を内包して、テーゼになる。そして、ふたたびテーゼ、
アンチテーゼ、ジンテーゼという三段階が始まる。この変化は途切れることなく変化し続ける。
これは宗教、科学、経済、社会などの内側からの変化として現れることになる。

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2003年07月25日(金)
842, エンドレスの巡礼

 先日、殺人未遂で逃げ回っていたお爺ちゃんが、エンドレスのお遍路さんでTVに出演をして、
たまたまTVを見ていた刑事に正体がばれて逮捕されてしまった。当地では「エンドレスお遍路」で
有名の人だった。TV出演を拒否すればと思ってしまうのだが、そこが人間の持つ浅ましさだ。
 実を言うとこのエンドレスの老人の存在を知っていた。
『到知』という月刊誌で、俳優のショーケン萩原健一の文章に登場していたのだ。
ショーケンは、お遍路を年中恒例にしており、その詳細を書いていたのだ。その文章でエンドレスの
お爺ちゃんの存在を知って「70歳を過ぎたら、こういう生き方も良いのかもしれない」と感心をした。
すべてを失い駅などでホームレスをしなくてはならない時が万一きたら、思い切ってエンドレスの
お遍路も良いじゃないかと考えた。絶望をして、死にたくなった時でもよい。
実際に、お遍路の道中に行き倒れて死ぬのも、病院で管に繋がれてのた打ち回って死ぬよりはずっと良い。
その最後のよりどころを、この老人は儚くも潰してしまった。
「歳とっての逃亡」でしかエンドレスの巡礼はできないのかもしれないが。
「巡礼は自分の過去に向かって歩いていくこと」と聞いたことがある。その行き先のまた先が神仏なのだろう。
まだ巡礼をしたいとは思わないが、いつか駆り立てられる日がくるかもしれない。
母が80歳を過ぎ痴呆症の現象が出始めの頃に面白い夢をみた。母が5~6歳の巡礼姿で玄関口にいる。
その姿をすでに亡くなっていた母の妹がじっと見つめているのだ。恐ろしい悲しい神秘的な夢であった。
人生はエンドレスの旅路なのかもしれない。

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2002年07月25日(木)
467,内山由蔵さんへの手紙
 葉書ありがとうございます。この春奥様がご逝去されたと、兄より五月の連休頃に
散歩の途中に会った時に聞きました。謹んでご愁傷申し上げます。
丁度私が西アフリカに行っていて留守、参列できなった非礼お詫びします。
今年の2月ごろ堀内トシさんより手紙で「見聞皆師そのご追加分を送ってもらいたい」との依頼されました。
去年の五月より個人のホームページを開設して、毎日「随想日記」を書いたのをコピーして送りました。
その時に2部コピーして、内山さんにもと思ったのですが、少し差出がましいかと、
そのまま手元にあるのを今回送ります。
その後の分もあるのですが、この秋頃に再び送りたいと思っています。
毎日文章を一文書くのは大変ですが、頭の活性化にはベストのようです。
自分でも色々のことを考えているのに驚きます。「書き出す」ことの重要さを改めて実感しています。
土曜日が一番都合が良いので、いつでも連絡をください。大手通りは何をしても無駄だと思います。
同じ努力をしても半分以下の効果しかないからです。同じ努力なら二倍の効果のある場所でやるのが
道理だと思います。
               -内山さんの手紙の下書きーより