閑話小題 ~デフォルメとは

 

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    * デフォルメの意味とは
  ~ネット検索によると~
≪「デフォルメ」という言葉の意味を聞いたことはあっても、何となくでしか
 理解していない。その意味は、絵画などで対象物を変形させて表現する行為。
フランス語。  本来は単に「形を変える」という意味だが、芸術の分野で
「意図的に対象を変形させて表現すること」を指して使われようになった。
自然の形態の忠実な模倣を離れて強調,変形して表現することをいう。 ≫

 

 ―
▼ 何処にも存在する、あれら内幕情報屋について、
 <デフォルメの事例を上げると、『具体と抽象』細谷功著>で、何処の小さな
社会の中で、時のニュース性のある対象に言葉巧みに近づき、具体的内幕を調べ
上げ、それを餌として触れ回ることを本分とする輩。 「悪魔の代弁者」を捩り、
『悪魔の大便』とも言う。 誰も持っている群衆の心理。その傾向の強い人物を、
以前から「子狐」として、頻繁に非難してきた。俗にいう「世間教」の伝道師。
 500m以内しか生きることが出来ないため、具体的な噂話が内容が主となる。 
抽象的表現方法を持たないため、触れ回った対象者の反応も、世間教徒の物語の
材料になる。娑婆には、更に古狸や、呆け貉が加わるため、物語がねじまわり、
変容する。これが「世間様」の正体であり、彼らには現実として通用する。
面白いといえば面白いが… ドップリ浸かると、それは自身の生き辛さになる。
 彼らをデフォルメし、揶揄している御前は、何だというのか? 
‘地域社会は、この子きつねをペットして飼っておくが、シラミが… 

~で、‘子ぎつね’で検索すると、アルアル… ‘毒消し’ということ?
 ――――
2018/11/14
つれづれに哲学 ~アドラーから学ぶ -3                
             <「生きづらさからの脱却」岸見一郎著>
   * 「価値低減傾向」と虐め
 本書で、虚栄心に満ちた人に見られる「価値低減傾向」について取上げている。
誰でも持っている内幕情報など覗き込み願望も、これ。‘子ぎつね’‘腹グロ’
と敬遠され、その場の空気が汚れる為、名前を出すことすらしない。自分に甘く、
他人に厳しくが、もっとも端的に現れるから始末が悪い。特に、これを営業ネタ
と活用をしているコテコテの小悪党。その毒は、対象の人間を自殺に追いやる程、
効果がある。当人が、どれ程、怨まれているか、全く気づかない。
人は短所の特徴で他人を呼ぶ傾向がある。 子供の頃から『アダナ』など、
自然と「価値低減傾向」をしているのである。
  ~この言葉をネット辞書で検索すると
≪ 優越感を持とうとするあまり、他人の価値を貶める発言や行為をする… 
 …いわゆるマウンティング。相手をケナすことで自分の価値を上げようとする
ものの、実際には相手をケナしたところでその人本人の価値が上がるわけでない。
ところが本人はそのことに気づいていないため、必死にそれを繰り返す。
優越感を持ちたい人は、家族や知人間で価値ある人間だと思われたい。
そして自分に価値が無ければ家族や仲間が離れてしまう恐怖を抱えている。
そのため家族や仲間が離れていかないよう、自分にそれだけの価値があると
思わせたい。しかし自分にそれほどの価値があると証明できないなら、家族や
仲間の価値を下げればいい…というNot-Self(自分らしくない状態)に陥る。≫
 ―
▼ 娑婆には、このコテコテの小キツネが面白いほど存在する。
 他人の不幸は蜜の味と、蜜を振りまいている輩たち。
『メシウマ』=「他人の不幸で今日も飯がうまい!」。
『メシマズ』=「人の不幸でメシが不味い!」と、粗探しを酒のツマミにする。
それが、「生きづらさを自ら生産していることに自ら気づかない。
アドラーは、この性を「価値低減傾向」と名づけ戒める。 
 ところで、私たちは、これを自分の過去に対してしているのでは? 
青少年期頃の若気の至りのフラッシュからウジウジして… 酷いのになると、
痴呆症の悪例として、身近な人に、遥か昔の妄想に脚色をつけた窃盗などを
ぶつける。『価値低減傾向』より性質が悪い話を聞く。日本社会の特徴の一つに
同調圧力」の強さと「自尊意識の低さ」がある。自尊心が無いため、他者に
対する異質を取上げ、攻撃にまわる。 それは、歪んだ自虐でもある。
 淀んだ社会では、仕方がないのか。
 
――――
2016/12/04
つれづれに哲学 ~嘆きの谷
               「生きづらさからの脱却」岸見一郎著
   * アドラーの「嘆きの谷」
 私がみるに、悲観的傾向が強い人が、女性で3人に1人、男性が4人に1人
の割にいる。その中で更に強い人は1割ぐらいか。知人にも数人、非常に悲観的
思考の強い人がいる。連れ合いとの不適性があるが、何もかもを悲観的に捉える。
ある婦人、目を見張るほど美人だが、いや、だった?が、常時、ウツ状態。
誰も躁鬱の波を乗越えて生きているが、問題はマイナスの程度。アドラーはカント
同様、クル病だが、そのハンデを乗越え、フロイトユングにつづく三大心理学者
の一人になっている。根には、「その程度のことで、何で落ち込んでいるのか!」
があるため、説得力が強い。 
  ~その一節から~
≪ 世界を「嘆きの谷」と見ようとし、いつも苦しんでいる人がいる。
 アドラーはそのような人は「途方もない重荷を担って人生を歩もうと不断に
努力をする」と言っている。些細な困難をも誇張し、将来についても悲観的に
しか見ない。身のまわりで喜ばしいことが起ると不安になり、どんな対人関係
にも「影の面」を持ち込む。
 「嘆きの谷」という言葉は元もと旧約聖書の『詩編』に出てくる。
エルサレムに巡礼する人は、乾燥のため枯れ果てた谷底の道を歩まなければ
ならなかった。このような人が、世界を「嘆きの谷」と見ようとするのはどう
いうことか。アドラーの解釈と違って、『詩編』では、神によって勇気を出し、
広い道を見ている人は「嘆きの谷を通る時でも、そこを泉とするだろう」と
言われている。生きている限り、「嘆きの谷」を避けては通れないが、勇気
ある人はそれを「泉」と見るのである。ところが、この世界の嘆きの谷とみて、
どんな喜べる機会にも、「カッサドラの叫び」しかあげない人がいるとアドラー
はいう。ギリシャ神話に出てくるカッサドラはアポロンに愛された。アポロン
カッサドラに愛を得るために彼女に予言能力を与えた。しかし彼女は、アポロン
の求愛を断った。そのため、アポロンは誰も彼女の予言を信じないようにした。
カッサンドラはトロイアの滅亡を予言されたが、無視された。
アドラーは、<この世界を嘆きの谷とみて、「カッサンドラの叫びしかあげない」
というのは、不吉なことしか言わないという意味だが、決して、トロイアの滅亡
を望んでいた訳でない。
 ~ネット検索に、「嘆きの谷」で調べると、
≪・アドラーは仕事の課題、交友の課題、愛の課題という人生には避けては通る
 ことができない課題がある、という。これらの課題を解決する能力がないと
 考える人は、なんとか理由を考えて、人生の課題から逃れようとする。
アドラーが「劣等コンプレックス」という言葉を使う時、次のような意味と
 して使っている。すなわち、「Aであるから(あるいは、Aでないから)、
 Bできない」という論理を日常のコミュニケーションの中で多用するという
 意味である。このAとして他の人がしかたがないと納得しないわけにはいか
 ない理由を持ち出すのである。
神経症はこの劣等コンプレックスに他ならない。人生の課題を前に直面しよう
 としなかったり、「ためらいの態度」を取って立ち止まる。「はい~します、
 でも、(yes...but)といって、結局課題に取り組まない。神経症に限らず、
 人は意識しなければ、すぐに「でも」といってしまう。
 <何かをしようと思う、しなければならない、「でも」と…>
・カウンセリングの時、あまりに頻繁に「でも」という人があって僕はその人が
 「でも」というたびにカウントすることにした。本人はそのことを意識して
 いなかったからである。やがてこんなふうにいわれるようになり、次第に
 この言葉が用いられる回数が減っていった。「まだ今日は一度も『でも』と
 いってませんから、一度だけ『でも』といわせてください」
・人生の課題に挑戦する時、失敗すること、敗北することを恐れる人は、課題
 から退却しようとする。何をする時にも必ず成功しなければならない、と考え、
 成功するという保証があれば挑戦する。しかし失敗が少しでも予想され、
 成功することが確信できなければ最初から挑戦しようとしないか、失敗しても
 そのことによって致命的な打撃を受けることがないように、いわば綱渡りをする
 人が転落することを予想して下にあらかじめ網を張っておくようなことをする。
 症状はこのような目的のために創り出される。
・人生の課題を前にして敗北を恐れる人は、課題に挑戦することを回避する
 ために時に神経症になって、「足踏みしたい(時間を止めたい)」と思う、
 とアドラーはいう(『人はなぜ神経症になるのか』)。
――
▼ 上記の「カッサドラの叫び」しか上げない人に、マイナーな視点の話題を
 ふると、大きく首を振り、どんどん話が進む。何処にも、『内幕情報屋』が
存在して、ネタを探し出して人の懐に飛び込む。それが、万引き、置き引きと、
同じくらい、いや、それ以上の犯罪行為でしかないことを知らない。
で、その毒は、喜んで聞いてしまう方にも、同様に罪になる。誰もが持って
いる要素だから始末が悪い。

――――
2003/11/25
965, 悪口についての一考察
 悪口については、随想日記の中では何回も書いている。
しかしテーマにしたことは無い、一番イヤなテーマであるからだ。
昨日、新聞を見ていたら‘メジャー’ヤンキ-スの松井は中学校二年生以来、
悪口を言ったことがないという。(所詮は勝ち組が言っているから注目
している部分もあるが)
それでは「私の場合は如何だろうか?」と考えてみた。
本音でいうと
 可能な限り言わないようにしている。その為には嫌いな人のいる場には
 極力行かないようにしている。例えば、ライオンズとか商工会議所などである。
 痴呆名士志向の子狐的人間である。  地方で頑張っている人はこういう
 傾向が強いから始末が悪い。自分より肩書きや収入が多い人間には媚び
へつらい、下の人間には尊大な人だ。 仕方ないのは解っているが。
「お前の姿でもある」といえば、そうかもしれない。
  人間にとって自分は善人であり他人は悪人なのである。
 自分を理解しろと必死になるが、嫌な人を理解しようとはしない。
 それは、怠惰という無精者に過ぎないことに気づいていないからだ。
  ~辞典には
 ー悪口は「他人について、劣っていると(事実に反し、また実際以上に)
 いう言葉」とある。
 ー陰口は「その人のいないところで、いう悪口」と書いている。
 悪口とは事実に反してと書いている。
 
 週刊誌などは、それで持っているいるようなものだ。
 大衆の一番弱いところを狙っているのだ。
 辞書のとおりならば、悪口の経験のある人は虚言罪で天国の門は間違っても
 叩かれないことになる。
  ☆ 思いつくまま「悪口」について頭に浮かんだことを書いてみる。
・「悪口はドロボーより悪い!」と曽野綾子の本にあったが、まったく
 曽野(その)とおりである。ドロボーは人を殺さない、しかし悪口は時に
 人を殺す。
・悪口は結局は、自分の事をいっているに過ぎない。
 したがって根は深い。ただ自分で気がついてないのだ。
 悪口はその人の歪んだ心象風景といってよい。
・悪口にも色いろある。
 本人に面と向かっていう悪口と
 陰でいう悪口がある。
・宗親(居酒屋おやじ)「馬鹿野郎!これで俺等居酒屋が、
 商売でもっているんだ!でも酷いもんだよ!
 サラリーマンの悪口は耳を塞ぎたくなるより、
 『その対象の奴より、言っている本人を張り倒したくなるよ!! 
 まあ、そうでもしなくては精神のバランスが保てないのだろうがね』            
                         ー続く
ーーーー
2003/11/26
966, 悪口についての一考察 -2
 どんなに憎んでも、面と向かって言ってはいけない言葉があると。
しかし、悪口は楽しいのである。これが人間の悲しい性である。
4~5年前にある泥酔の高校の同級生二人に呼び出されたことがあった。
片っ端から知人の悪口を言っていたが、私を呼び出す前までは私の悪口を
言っていたのがミエミエであった。そして「人の悪口は楽しい!」といって
いる姿に唖然とした。そう、こう書いているこの文章も、彼らの悪口だが。
 私の場合、こと人間の真髄に関しては何を話しても悪口になってしまう。
虚飾などどうでもよい?見えるのは裸の猿の狂った姿である。
大学のたまたま入った学部が社会学部であった。早くいえば人間学である。
人間関係の網の構造を瞬時に洞察する訓練を受けているから始末が悪い。
さらに、こういう社会学的な本が好きで40年近く読み続けているから
知らないうちに外部化しているのだろう。
表面的な付き合いの人間には、全てが悪口に聞こえるはずだ。
同級生のスナックのママに説教をされたが、その道の専門家いやアマチュア
ということは知らないようだ。
 ところで悪口という概念は、なんの思想も持ち得ない。
ー怒れば、ストレス解消・精神衛生などという隠れみので、自己のプライド
 など微塵もみせず?に罵詈雑言をいい続ける。
ー気分の良い時は調子よく聖句などを持ち出してきて、
「悪口はいけません」とのたまう。
この二面性を持っているのが人間の姿である。
悪口の後で「仕方ないさ、人間だもの」と繰りかえす。
ー悪口をいま思い出せる言葉を羅列してみるとー
「服のセンスが悪い」「だらしがない」「カスが人間をまとっていうような奴」
「子狐のような奴」「屑どもめ」「仕事が出来ない」「気がきかない」
「痴呆迷死」「ミス何々ー失敗ばかりする女」「ダニ」「自民党のような奴」
「たかり」「くそったれ」「共同便所のような女」「東京ガス
 悪口はまるで無尽蔵である。
嫉妬心・怒り・敵意・ねたみ・憎しみ・優越感・軽薄など心の底に
渦巻いているドブから発するガスである。
 
 ー インターネットで調べた内容をコピー ー
  「悪口をやめよ 」
 ヤコブ4:11~12
 箴言26:17~28
 マタイ5:21~24
  ー皆川尚一牧師ー
 悪口をやめよ!
兄弟たちよ。互に悪口を言い合ってはならない。兄弟の悪口を言ったり、
自分の兄弟をさばいたりする者は、律法をそしり、律法をさばくやからである。
もしあなたが律法をさばくなら、律法の実行者ではなくて、その審判者である。
しかし、立法者であり審判者であるかたは、ただひとりであって、
救うことも滅ぼすこともできるのである。しかるに、隣り人をさばくあなたは、
いったい、何者であるか(ヤコブ4章11~12節)。
 「兄弟たちよ。互に悪口を言い合ってはならない」(11節)。
 ここで「悪口を言う」(カタラロー)というギリシャ語は「逆らう」(カタ)
という語と「言う」(ラロー)という語が合わさって出来た合成語で、
「逆らって言う」とか「反対して言う」という意味です。
しかし、この語の使い方は、面と向かって相手に逆らって言うのではなくて、
今そこにいない人の悪口を言う場合に使われます。
だから日本語では「陰口をきく」とか「中傷する」とか「ざんげんする」とか
言います。顔と顔を合わせて相手に反対したり、悪口を言ったりする場合には、
相手の人は自分の考えを説明したり、自分のやり方を弁明したり、相手に
反論したりできますから、ある程度公平だと言えるでしょう。しかし、今そこ
にいない人のことを悪く言う場合には、言われる人は弁明できず、反論も
出来ませんから、悪いうわさは毒ガスのように人から人へと伝わります。
二、三人のヒソヒソばなしやいわゆる井戸端会議からゴシップが流され、
話に尾ひれがついて、あること無いことが発展して人の名誉が汚され、信用が
失われ、せっかく築かれかけた良い人間関係が壊れていくのです。だから陰口
ほど質(たち)の悪いものはありません。
  しかし、クリスチャンになってもこの悪い行いは、なかなか改まらない
人が多く、このために教会の親しい交わりが汚されるので、使徒ヤコブは、
特にクリスチャンお互い同士が陰口をきかないで、愛の交わりを育てるのに
心を配って行こうと呼びかけているのです。そこで大切なことは陰口をきく
のは恐ろしい罪だということを認識する必要があります。
それは「神の律法に違反する罪」と「神の大権を犯す罪」の二つです。

・・・・・・
2018/05/21
閑話小題 ~老いるに従い、サイコパス化する?

   * 陰口好きは軽いサイコパス
 先日読んだ本に「内幕情報屋は、軽度のサイコという精神病」とあった。
そこで直に思い浮ぶのが、何人かの面々。特に営業屋のトップセールスへの
前フリネタの有効なエサとして最も有効なればこそ、知らずに自らが毒されて
いることに気づかない。成るほど、あの人がサイコと思うと合点がいく。
人の不幸は蜜の味だが、悪口、噂話は気をつけるべし。問題は程度になるが… 
男の風上に置けない腐った女のような一群の人たち。 そう書いている私も? 
「老いるとは、サイコパス化していく。変化出来なくなるからだ」とすると、
先々が恐ろしい。
 
  ~ウィキペデアによるサイコを特徴とは~
【 犯罪心理学者のロバート・D・ヘアは以下のように定義している。
 ・良心が異常に欠如している
 ・他者に冷淡で共感しない
 ・慢性的に平然と嘘をつく
 ・行動に対する責任が全く取れない
 ・罪悪感が皆無
 ・自尊心が過大で自己中心的
 ・口が達者で表面は魅力的
 極端な冷酷さ・無慈悲・エゴイズム・感情の欠如・結果至上主義である。】

▼ 5人に1人に、この傾向が強いという。
 株屋、商品取引など金融系の末端?の人たちに端的に現れ出る軽い職業病。
それが今ではトップの金融庁事務次官国税庁長官がコテコテのサイコ?。
 ところで、最もサイコパス的なのが、政治家じゃないですか!
陰口を陰口で書くなど、自虐そのものじゃないですかい。 ったく!
 「自分は違うって?」 
「魂のシリアルキラーじゃないですか?」 ただし、すべからく、だが。

● シリアルキラーとは、快楽殺人鬼のこと。大部分の人達が、日ごと
 万引きより遥かに重い、快楽殺人のミニ版を行ってるの。 
なら以下のことが分かるはず。馬鹿にバカというのが、一番バカか。
何かサイコの独り言のような。 老いるに従いサイコ化する?というが、
 …成るほど。

――――
5544,閑話小題 ~悪口は泥棒より悪いって知っていた?
2016年05月20日(金)
      
      ー「泥棒と悪口と、どちらが悪いか」三浦 綾子(作家)
                  『人間学入門』(致知出版社)より
  * 軽度のサイコパスだとさ
 以前、この道理を知ったとき、そこまで悪口が罪悪とは思ってなかったこと
もあって、驚いてしまった。大家族の中で育ったためか、本能的に、悪口や、
他人の誹謗中傷を言うことがタブーか知っていた。一番立場の弱い末っ子が、
まず身につけるしかない自己防御のなせる業である。それが、進級、進学に
つれて、育った環境などにより、弱者に対する虐めや、悪口を言う人の比率が
増えていった。 学校、職場、一般社会も、階層があって、そのコントロール
として、誹謗中傷と悪口が、大きな働きをしていた。 それを筆者がズバリ、
泥棒より悪口が、悪いと断じるから・・  ~その辺から
≪・時折、講演で話すんですが、「泥棒と悪口を言うのと、どちらが悪いか」。
私の教会の牧師は「悪口のほうが罪が深い」と言われました。
大事にしていたものや、高価なものを取られても、生活を根底から覆される
ような被害でない限り、いつかは忘れます。少しは傷つくかもしれませんが、
泥棒に入られたために自殺した話はあまり聞かない。だけど、人に悪口を
言われて死んだ老人の話や少年少女の話は、時折、聞きます。
「うちのおばあさんたら、食いしんぼうで、あんな年をしてても三杯も食べる
のよ」と陰で言った嫁の悪口に憤慨し、その後一切、食べ物を拒否して死んだ、
という話があります。
・それと、精神薄弱児の三割は妊婦が三か月以内に強烈なショックを受けた時
に生れる確率が高いと聞いたことがありますが、ある妻は小姑に夫の独身時代
の素行を聞き、 さらに現在愛人のいることを知らされた。
それは幸せいっぱいの兄嫁への嫉妬から、そういうことを言ったのです。
この小姑の話にちょうど妊娠したばかりの妻は大きなショックを受け、
生まれたのは精神薄弱児だったそうです。 恐ろしい話です。私たちの何気なく
言う悪口は人を死に追いやり、生まれてくる子を精神薄弱児にする力がある。
泥棒のような単純な罪とは違うんです。 それなのに、私たちはいとも楽しげに
人の悪口を言い、 また、聞いています。 そしてああきょうは楽しかった、
と帰っていく。 人の悪口が楽しい。これが人間の悲しい性です。
・もし自分が悪口を言われたら夜も眠れないくらい、怒ったり、くやしがったり、
泣いたりする。 自分の陰口をきいた人を憎み、顔を合わせても口をきかなくなる
のではないでしょうか。 自分がそれほど腹が立つことなら、他の人も同様に腹が
立つはずです。そのはずなのに、それほど人を傷つける噂話をいとも楽しげに語る。
私たちは自分を罪人だとは思っていない。 罪深いなどと考えたりしない。
「私は、人さまに指一本さされることもしていません」。 私たちはたいてい
そう思っています。 それは私たちは常に、二つの尺度を持っているからです。≫
▼ これを読んだのは、20年前になる。元もと、噂話や、他人の中傷誹謗に
 興味がなかったが、大家族の中では、第三者の話題はタブーに近かった。
学生時代も、殆ど、批評はすれど、批判をしないのが通り相場。いい大人が、
悪口など、男が廃るという空気があった。しかし、自分が人を使う立場になると、
飴と鞭のムチを、知らず知らず使いだしていた。知人に噂話を売りにした人が
何人か存在するが、耳を塞ぎたくなるほど聞くに堪えない。長年、かかって顔が
暗く澱み、声まで変質している。あれ、万引き常習者になるが、これも悪口か・・