閑話小題 ~電動アシスト自転車を乗り始めて10年

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   * 電動アシスト自転車を乗り始めて10年
 今日の随想日記を書きあげて、過去の同月同日分を読み返したところ、
4年前の内容に出くわした。とすると、電動アシスト自転車に乗り始めて、
まる10年になる。 …で、急遽、このテーマに変更することで、上奏が遅れる
ことに。 15年程前に知人の帆立カヌーに、数回、同上させてもらった経験が
あったから。それも忘れはしない台風直後の増水の阿賀野川・河口で対岸まで
渡ったり、魚市場のある通称「魚のアメ横」近くで… 。私に勧められたが、
私向きでないと、判断した。 そこで考えたのが海を道路とみたてたチャリ。
 である機会に電動アシスト自転車の試乗をしてみて、これは正しく「道路を
車輪で走るヨット」と直感し、ネット上でみつけて買うことに。以来、10年、
早朝のポタリング習慣が続いている。10年経過した現在、街中で、あまり
見かけないのは? まして、クロス自転車は皆無。 疎らな土手を独り、快走
する気分は、何ものにも替えられない。 特に、これを書上げた直後なれば、
尚のこと。 これも、あと一月足らずで冬休み(11/20~3/30)。
4ヶ月の冬期間の休止は、毒素が溜まってしまいそうな。春先の1ヶ月は、
一回ごとに、毒素が身体から抜けていくのが実感できるほど。
 ――
 ところで、過去文を読み返して、数年間の当時の自分と出会っている感覚が
我ながら面白い。ほぼ毎日、こんなことを、繰り返し、ぼこぼこと脳の底から
沸き上がってきている。 人間なれば、多かれ少なかれ、事象が少し違えども
似たようなものか? 過去に垂直に立ち上がった自分との邂逅も書き残す
秘儀ということ。 残るのは垂直に立ち上がった永遠の純粋の「わたし」。

・・・・・
2015年10月31日(土)
5343,閑話小題 ~電動アシスト自転車を乗り始めて6年
  * 電動アシスト自転車を乗り始めて6年
 6年前の、この31日分の文章をみると電動自転車のことが書いてあった。
まる6年間乗ったことになる。年間200日×6年=1200日。さらに一回15キロ
として1万8千キロ走ったことになる。地球半周近くになる。2年前に、4年間
乗ったマウンテンバイクから、現在のクロスバイクの乗り換えたが、今では
早朝の日常生活の一部になっている。それまで、殆ど、自転車に乗ることは
なかった。しかし、これを乗りつけると便利な代物。 しかし、何故か街中で
見かけることが思ったより少ない。買換えの時期に来ているママチャリに
電動アシストを家内に勧めても、「近くだから必要ない!」の一言!
試乗を1~2度しても、いま一つピンとこないようだ。あくまで、スーパー
の買い物の手段としてしか見てないため。乗っていること自体を楽しむ、
着想が持てないため。こうした感動を書き残していると、当時の光景が、
そのまま伝わってくるからよい。
 
――――
2006/07/31
1945, 満水の阿賀野川河口でカヌーに乗る
                    (。^0^。)オッ

 豪雨で満水の阿賀野川河口でヨットカヌーに乗った。
大学時代のゼミの後輩Mさんが、最近ヨットカヌーに凝っていて、
「今度、是非カヌーを乗ってみませんか」と誘われていた。
先日行われた「新潟県活性化の会」を仕掛けている人だ。

 来県の前日の27日に電話があり、
「車の上にカヌーを乗せて東京の自宅から来たい」という。
天気予報では豪雨注意報が出ていたので、「カヌーなど絶対に無理」と
言ったが、それでも車の上にカヌーを乗せてやってきた。
「出来ないとしても、帰りの道すがら何処かの河で浮かばせるから!」
という。好きな人はそういうものだ。

 天気予報では豪雨、絶対にこんな時にカヌーなど不可能と、
服装などの準備は全くしていなかった。
一昨日の29日の朝、どういうわけか打って変わった穏やかな天候になった。
(前夜半はかなり降ったようだが)

 前回にMさんが来て、一緒に飛行場周辺を見て回った時に、
阿賀野川の河口がカヌーの最適の場所と目を付けていた。
当日そこに行ってみると、数日の豪雨のため河は溢れていた。
しかし、Mさん「平気で大丈夫です、乗りましょう」という。
    
 この玩具みたいなカヌーでこの河口を乗りまわるなど、とんでもないと
思ったが、本人は「平気、平気、何でもないですよ」という。
そして、ドンドンカヌーを組み立て始めた。    (o_o ;)

 岸沿いを漕ぐのかと思いきや、どんどん河の真ん中の主流に出て、
そして対岸まで行ったしまった。         \(゜ロ\)
当然この満水の中、他のボートは1隻も見当たらない。
沿岸にはモーター・ボートが20艘ほどあったが、この洪水一歩手前
の中、誰も乗るはずがない。      ヽ(///>_<;////)ノ

 始めは少し恐怖があったが乗っているうちに、恐ろしさが全くなく
なってきた。地元の人からみたらとんでもことであろうが・・
それにしても、面白い!
豪雨のため大きな流木が彼方此方流れてくるが、それを避けながらボート
を操るのだ。 ふと気づくと2時間近くたっていた。

 そして、午後は寺泊の海岸に移動、再びカヌーを浮かべた。
また河とは違ったスリルがある。風が不意に舞うのと、海流の動きを
みながら操る。河とは全く違う面白さがある。

 Mさん、「このカヌーあげましょうか」というが、
私が乗りこなせるものではない。 丁重にお断りをした。

Mさん、ヨット歴をいれると30年は舟に乗っているという。そりゃそうだ。
あの川幅のある阿賀野川の満水の中、流木を避けながらヨットカヌーを乗り
こなすには長年の経験が必要だ。
    
 Mさん、その日は遅くなったので急遽、長岡に宿泊。
殿町を深夜まで飲み歩いた。( ^^)/▽☆▽\(^^ )  
そして、翌日の15時過ぎまで午前・午後カヌーをして16時に東京に
ある自宅に帰っていった。やってくる前日、知人の通夜があり、数時間しか
寝ないで新潟にきたというから、凄いエネルギーである
 こういうのも、能力というのだろう。
    
   ー阿賀野川の満水の河渡りは、一生ものの思い出になった!ー
                (@´∀`p★)゜*。
――――
2006/08/01
1946, 満水の阿賀野川河口でカヌーに乗る-2 
            Good☆':.*^ヾ('c_'ヽ,,)*.:'☆Morning

 その日(7月29日)の夜、松下さんと長岡市の駅近くの「一心堂」という
スナックで飲んだ。そこで、「阿賀野川の河口で帆付きのカヌーで向う岸に
渡ってきた」と、酔っ払いの自慢話。ところが、マスターとスタッフが、
そこをよく知っていて、「大きな川の河口は恐ろしいところで、あそこでは
エンジン付きの舟以外は誰も乗らない。知らないだけで、とんでもないこと。
何も知らない子供が、寝ている虎の背中に乗って遊んでいるようなもの。
少しでも川の流れが変化したら、どうなったことか・・・」と、呆れていた。

 翌日、会社で近くに住む人に話たところ、もっと厳しい指摘。
「あそこは海の波と川の波がぶつかり合っていて、いつどういう波が来る
か分らないところ。毎年何人か人が死んでいる。そのため誰も泳ぐ人もいない
危険地帯。この豪雨の翌日にカヌー遊びなど危険とかいう問題ではない。」
流木が多く流れていて危なそうだと思ったが。
誰も泳いだり、ボートなどに乗ってないはずである。
松下さんは海が主流で川では乗らないといっていた。
さらに大きな川や、その河口も初めてと言っていた。
知らぬが仏だったのか。たまたま、そのような幸運なTPOSを遭遇したのか。

 カヌーも経験すればするほど深い世界であり、のめり込んでしまうという。
一人でカヌーを持って川に行き、組み立て、そこで遊び、また解体して車に積み
込み、一人で帰ってくるのが良いという。こういう趣味を持っているのは羨ましい
限りである。おまけに、河口湖に別荘を持っていて、そこでカヌー遊びなど・・・
人は人、我は我だが・・・ こういう羨ましいと思った時、自分の趣味を持って
いると、余裕を持てるからよい・・・
「趣味は、その人をそのまま現す」というが、そのとおりである。
永年かけて一人で自分の世界を作り上げていくプロセスを楽しむもの・・
人がとやかくいう世界とは別物。

 ――
(ところで、一心堂というスナック開業70年という店。
私の母とマスターの母が同級生。その上、私の兄とマスターも同級生ときている。
こういう老舗が地方都市には多いが、最近どんどん廃業している。
このテーマと関係ないが)
                 バイヾ( ̄ー ̄ヾ))))
 
・・・・・・
2018年10月31日(水)
6440,読書日記 ~やさしさね
           「やさしさ」という技術 2015/12/3
                   ステファン・アインホルン (著),
   * やさしさは、気づかいから… 
 10年前に、人生の終止符の目安にしてきた75歳まで、あと2年3ヵ月。
この年齢で、ガンで余命2~3年か、脳梗塞で寝たきり状態のはずだが、腰痛が
少し辛いぐらいでいたって元気。事業の新潟駅前シリーズで縁あった営業関係者
たちが、この10年で次々と亡くなっている。そろそろ順番が来そうだが…
全く、その兆候がない。 75歳が男にとって大きな節目。そこで心の底から
〔 いや面白かった! やり残し、言い残しはないし、後悔は多々あっても、
 抱えて逝くに丁度良い質量。『自分の人生、これで結構気にいっている!』 〕
と、言えるかどうか。自分への「やさしさ」は、実に良かったといえる行蔵を
蓄積してきたかどうか。この本の副題が「賢い利己主義者になるための7講」。
<賢い利己主義者> 利己主義には、何やら賢くないの意味が含まれるが、
少なくとも集団第一主義より遥かに良い。賢いに「考えている」の意味が
含まれるため。
 
  <20歳で起業を目指す>と決心した時から、利己主義、個人主義の傾向が強く
なったが、当然といえば当然。当時の時代の趨勢からしたら、個人主義
なるということ。 これは我が道を行く孤独業でもある。自分の周囲に垣根を
つくり門を構えて、出入りを制限。そして家の奥間で、自問自答。
それが慣れるほど社会が面白く見えるが、嫌な奴と誤解される。嫌な奴そのもの
になる。常に森の上から、自分と、環境を観る視線があるからである。それが
現在まで続き、このブログの17年半の継続に繋がっている。 
 それは、まず自分の立ち位置をはっきりさせる、まず自分に優しくなることに
他ならない。自分への優しさは、他人へ直につながる。
「内が白で、外側が黄色の日系ハワイ?、?をバナナと」いうが、大都会なら受け
入れられても、個人主義は、まだまだ拒否反応が強い。
それが現在ではスマートフォンなどの情報化で、内側は白基調の混濁色に… 
 面白くなってきている。

―― 
内容紹介(Amazon
 北欧で社会現象となった世界初の「やさしさ学」講義。

なぜ、見返りを求めない行為があなたの得になるのか?
なぜ、「高い収入」や「名声」を求める人ほど幸福度がダウンするのか?
なぜ、多くの動物が「思いやり」や「やさしさ」を持っているのか?
ノーベル賞の選考委員会を擁する世界トップ医大・カロリンスカ医科大学
「学生が選ぶ最優秀教授」に輝やいた名医が、わかりやすく、感動的に語る!
「死ぬ前に後悔しない人生」を確実に手に入れるための名講義、日本上陸。

◎やさしさは誰でも身につけることができる「技術」である
◎「高収入」「名声」を求める人ほど幸福度が低い
◎銀メダル選手より銅メダル選手のほうが満足度が高い
◎他人に目をかけられることは心身の健康に不可欠
◎他人を褒める人ほど出世する
◎衝突は百害あって一利なし
◎やさしさは個人にとっても社会にとっても大きな「得」をもたらす


▼ 先日、学生時代からの酒友と10数年ぶりに地元の長岡駅周辺で酒席を共に
 した。73歳になろうとした現在でも、1年2ヶ月ぶりに、社長交代で現場に
呼戻されて今も現役という。社長直属のコントローラ役の便利屋的存在か。
20~50歳代が占める中で大変だろうと思うが…。声は小さく、掠れ気味だが、
絶対肯定的なオーラが出ていた。 一軒目の居酒屋では、出てくる料理に
箸をつけると、次々と「美味い!」と。特別サービスセットもあり、値段から
みて好感が持てた、そのまま、「良い店を紹介して貰ってありがとうと…」と。
そして二軒目のスナックでは、隣の客と、直ぐに馴染んで… そして、何気なく
褒めたおす。地元の否定的空気に慣らされて馴化してしまった自分と比べ?
早々のリタイア肯定派の見方が、ここで軽く躱されてしまった。
 群れるのも、人によって、必要条件、絶対条件も、あるのでは! 
家のスペースが小さい為、居心地が悪いこともあるというが。
卓上の大型犬が、再度、働き出た直後、夫婦して働きに出て散歩時間が
激変をしたためかストレスで亡くなってしまったというから、犬が逝くか、
当人かだったと、ブラックジョークも忘れない。
 
 やさしさ~ 人生で一番足りなかったのかも。
末っ子はやさしさを受けて当然と思いがちで、与え方が苦手。
何やら褒めることが第一歩は分かってはいるが…

・・・・・・
5318, そもそも教養とは何だろう
2015年10月06日(火)
            ~『世界の哲学・思想』小須賀健著より
  * もっともっと本を読んでおけば良かった
 学生時代の卒業まじかに、「もっと読書量をこなしておくべきだった!」と
気づいたが時が既に遅し、ノイローゼ気味になり留年さえ考えた。しかし、
まず一度社会に出てから考えることにし、その代わり、一日2~3時間の読書を
自分に課すと決心、それが現在まで40数年続いている。それが学生時代の一番
の収穫だった。 今から振返って、学生時代の砂場には数知れない経験が
詰まっていた。 ~哲学入門的な本の冒頭に以下の内容があった~
≪ なぜ私たちは、一人前の大人になってから「もう少しまじめに学校の勉強
 をやっておけばよかった…」と反省したりするのでしょうか。 じっさいに
学校にいたときには、「こんな勉強がなんの役に立つのかさっぱりわからず、
まじめにやる気になどなれなかった」という人が(私も含め)ほとんどでしょう。
 では、大人になってから、もう少しまじめにやっておけばと反省するのは、
社会に出て勉強の必要性が身にしみてわかったからなのでしょうか。
どうもそのようには思えません。どんな職業であれ、「自分の仕事に学校の
勉強が役立った」と確信した、などという話はあまり聞いたことがありません。
義務教育で学ぶ勉強が実社会で役に立つはずだ、という思いこみがまったく
幻想であることは、みんな分かっています。社会で要求されるのは、効率よく
仕事をこなすこと、あるいは無駄なく目の前の課題を片づけていくこと。
こうした日々を送っていると、逆に学校時代における学習という行為が、
そのような効率や目的から自由であったことが理解できるはずです。
 古代ギリシアの人々は、人口の二倍にもおよぶ奴隷に基本的な生産労働を
行なわせることで、少なからぬ時間的余裕を謳歌していました。
ただ、彼らはこの余暇の時間を、漫然と過ごしていたわけではありません。
こうした時間を使って、自分を磨く、あるいは教養を高めるといった活動に
励んでいたのです。この「余暇」をギリシア語で「スコレー」といいますが、
この語が英語のスクールの語源であることはなかなか示唆的です。
 おそらく、もともと学ぶという行為は、生産性とか利便性といった功利目的
からは隔絶されたものだったのです。今私たちが、学校時代を振りかえって
ちゃんとやっておけばよかったのにと後悔を覚えるとき、そこでイメージされて
いる勉強もおそらくそのようなもの、つまり功利性とは無縁に過ごせた時間
への郷愁なのではないでしょうか。
 しかし、じつさいの学校における教育はどうでしょう。学校は、社会とは
区別される領域でありながらも、社会への通路でもあるために、社会一般の
価値観がその中に侵入してしまいます。そのため勉強するのはいい大学に入る
ため、あるいは楽な人生を送るためといった功利的な発想がすでに蔓延して
います。私たちが外から夢想するほど、学校での勉強はうらやましいものでは
ありません。たぶん学生のころにもっとちゃんとしていればよかったと振り
かえって後悔する人は、仮に今それが可能になったとしても、同じことを
繰りかえして漫然とときを過ごすだけでしょう。そのときにできなかった人は
今もできないままなのです。それなら振りかえるのはやめて、今からしたい
ように勉強すればいいのです。逆に後悔しても、そのときは勉強できるような
余裕も環境ももてなかったという人もおられるでしょう。そういった人たちも
含めて、何かの役に立つとか、なにかのためにやるとかといった一切の功利性
から離れて、学問(ここでは哲学に限定ざれますが)と向きあってみたいと
思われる方に、すこしでも参考になればと思って書いたのが、この本です。≫
▼ リタイア後から、私レベルだが、読書の質が少しだがアップした感がする。
 学生時代に読んだ本で、社会に出てから自分を支えてくれたのは、効率とか、
創造工学とかいう内容のものより、何かに迷い、吹っ切るために、孫子や、
諸子百家、聖書、仏教書、漱石、鴎外、川端全集などが、面白く没頭して
読んだ本だった。 確かに、ドラッガーの『集中、得手に帆を張れ、内部より
市場に焦点を!』などの知識も、役にたったが・・ で、このザマ。 
 何にも社会経験のない純真なまっさらな時節に、何も捉われることなく
読んだ本こそ、独り彷徨う中で、強い指標になっていた。「逆境に根を、
順境に枝を張れ」というが、その栄養分の元は実体験と培った知識である。
人生の晩秋に枝の葉は枯れても、枝として残る。この年齢で、たわわな
葉っぱを求め、枝を張ることしか知らない人を無知の人という。 
要するに、あのケモノの臭いの強い『世間人』。

・・・・・・
2017年10月31日(火)
6075,閑話小題 ~珍獣と珍ころ ―1
   * 珍獣と珍ころ
 珍獣とは姉の一人が私につけた嫌みの名称。もう30年になる。数ヶ月前に亡く
なった連合いが元専売公社の事務方だったこともあり、転職、転業のキャリア?
を繰返してきた私を揶揄したあだ名。まあ、面白いと感心し、納得したが、軽蔑
のニュアンスが含まれていた。ジャングルの獣の餌は自前。そこには、命をかけた
スリルとサスペンスが日常になる。考えてみれば人間の本質は、「獣」と「神」
のロープ上を右に左に揺られながら渡るようなもの。そこで「珍獣」の言葉を
逆照射した言葉と、思い浮んだのが「珍ころ」。「コロ」は犬とすると、適当。
 そこに、「珍獣」と「珍ころ」の対話が自然と生じる。
珍ころ: あんたよ、「変わってるな」と皆が言ってるよ。
珍獣: あんたは、家畜の群れと何ら変わらない! 温むには良いだろけど。
珍ころ: 何時も、がつがつ餌探し。それもこれも、群れに適応できないため。
    少し尻尾の振り方を身につければ良いだけなのに。
珍獣: 餌が暫く穫れずに、久しぶりに穫れた時の喜びと味を知らないだろう。
珍ころ: あんたが、何で珍獣と言われるか、知っとるか。雑食だからさ。
珍獣: 雑食も何も、ありゃしない。とにかく群れたくないと心に決めて、直接、
    自然界に触れて、活きた感覚を得たいと、20歳頃に決心したためさ。
    尤も、父親に誘導されたところもあったがね。
珍ころ: お前のような奴が、庭先や、近所でウロウロするのが目障りそのもの。
    見ていると、潮流に流され、成行きでしか生きていないんじゃないか。
珍獣: 何を言いなさる。それだから面白いんじゃないか。だから、あんた達が、
    仲間内に気を使っている分、外界に全神経を使うしかない自分を楽しめる
    じゃないか。
珍ころ: 右上がりでは、その好きなことが出来るのが羨ましかったが、右下がり
    で、時代変化の激しい時代に、己だけの感覚で生きるは長い目でみて、
    リスクが大きすぎるのではないか、それで、弾け出されたじゃないか。
珍獣: だから、長年かけてリスクヘッジを人知れず、したきたんだ。そんなのは、
    幼児の頃から両親に教えらた当然の知恵と体質。とはいえ、脇が甘いのも
    自覚している? 
珍ころ: これ、志村けん加藤茶のコント「ぼけ老人」のような内容じゃないか。
珍獣: そう、コントだよ。要するに理解しようがない2人が、ひたすら聞いている
    ふうをして、自分の話を垂流しているだけのこと。それが娑婆じゃないか。
珍ころ: なるほど、「馬鹿ちがうねん。アホやんねん」ですか、二人とも。
    ところで、珍獣にみえたオマエさん、行方不明だった、あの珍ころ?

・・・・・・
2016年10月31日(月)
5708,閑話小題 ~今どきの冷凍食品
   * 今どきの冷凍食品
 何度か取上げたテーマだが、最近の冷凍食品が‘妙に’生々しく、美味しい
ので、再び取り上げる。不景気もあるが、ファミレスやサイゼリアなどに卸して
きた冷食メーカーが、コンビニやスーパーに販路を求めた図式である。
これが、今ではメーカーがネット直販が本格化を始めている。
当然、本格的味であり、それが進化している。TVのワイドショーも、最近、
その幾つかを紹介を始めている。このところ、外食の機会が少なくなったのは、
冷蔵庫に買貯めの冷凍食品のため。
 スぺゲッティ、ピラフ、ドリア、ラーメン、ヤキソバ、炒飯、惣菜など、
そのままレンジにかければよい。問題は、完成品がそのまま冷凍してあること。
特にスぺゲッティとピラフの種類が多く、味はイタ飯<サエゼリア>と遜色ない?
最近、目につくのがジャンボサイズ。これが夫婦二人で丁度よい量になる。
これまで、食品売場の片隅に追いやられていたコーナーが、今では大スペースに
なって多くの種類を置くようになっている。共働き家庭の家事の削減に、レンジ
に入れるだけで済むのも良いのだろう。思い立って、「やき上げたステーキ」が
ないか調べたが、ローストビーフはあれど、焼きあげステーキは見当たらなかった。 
 瞬間冷凍の技術とマシーンの小型化がすすめば、料理屋が手作り料理を冷凍
をした直接販売が可能になる。面白いところではリンガーハットのメイン料理の
長崎チャンポン麺」が店頭に並んでいるし、ネット上で直販されている。
これがけっこう美味い。新聞広告で、一週間分の冷凍宅配弁当をみて、何か不味
そうなイメージだが、これなら大丈夫。『冷凍食品など、不味いに決まってる』
の思い込みを捨てて、頭を軽くしておかないと・・ 何か面白い時代である。
 苦節10年の料理の修行が、むしろ必要としない時代でもある。それは、どんな
に積上げても、次善の味でしかないためである。恐らく、ある料理のタレを、
スマフォのアプリで、その場で、一番近いか、それ以上の、メーカーの供給先に
辿りつける時代が、来ているのかもしれない。それより、『これ不味い!』と?
情報化の時代、『与太郎』を決め込む生き方もある。怠け者はは寝ていた方が?