* 誰だろう、過去の不思議な自分は
 現在乗っている二代目の電動アシスト自転車。既に5年も乗っていたことに
驚いている。3月末から11月末まで8ヶ月間、雨が降らない限り、連日、一時間、
信濃川の二つの大橋を一周して帰ってくる。前の自転車は5年。これが5年になる
から、10年になる。前のは、5年でボロボロ。しかし現在のは、ブレーキ修理と、
パンクが一度。タイヤ交換の時期に来ているが、あと数年は持ちそうだ。
以前のは、小型の『マウンテンバイク』。現在のはクロスバイク。マウンテンと、
シティバイクがクロスした中間。シティバイクを、通称『ママチャリ』という
のに対し、『パパチャリ』という。道路で見かける本格的アマチュアが乗ってる
のが、『ロードバイク』。競技用のバイクが『トラックレーサー』という。
 ロードバイクに乗っていた男が、猛スピードで道路の真中を、電動アシストを
乗っていた男を怒鳴りつけたくなるのも分からないでもないが… 
自転車は、確かに危険な乗り物。その対策として、コースを土手と、バイパスの
側道を9割以上にして、原則7時までに限定。一度だけ、雨道で転倒した以外は、
ほぼない。自転車とはいえ、乗ってしまうと、危険に対するギアが切り替わる。
一つ間違えれば死の危険が伴う。だから、面白いのだが。
 毎朝、一テーマで、一文章を書上げ、過去の文章を書上げていると、
<何だろう、誰だろう。この過去の不思議な自分は?>と思うことしきり。
この文章も、書上げた後に、過去文を読返して、5年前の同日の内容を読んで、
急遽、変更して書いたテーマ。

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4599, 閑話小題 ー二代目・電動アシスト自転車
2013年10月19日(土)
   * 二代目・電動アシスト自転車
 ブレーキが前後とも壊れ、来春予定していた電動アシスト自転車を購入して
から、一ヶ月足らずになる。これまではマウンテンバイク(MTB)だったが、
今度ものはクロスバイク。値段は4年間で電動アシストの普及もあり、全体的
にみて3〜4割は値下がりをした。MTBはスポーツチェーン店の通販で買った
中国製。やはり故障続きであった。しかし、電動アシストの楽しさは十二分に
味わうことができ、既に1万キロは走った。冬期を除いた毎朝、一時間、年間
200日は乗るので、一回百円とすると、償却は済んだことになる。
実感としての価値は、300円〜500円はある。で、新しいクロスバイクは、
値段が二倍、一日200円になるが、価値は充分にある。雨の日にスリップして、
転倒したが、車さえ気をつけ注意をすれば、それほど危険でない。毎朝、
10キロ以上は乗って5日に一回の充電で済んでいる。クラッチを最大の重さ
にして、電力を使うパワーにして乗っているが、ロードレーサー並みの速さ。
少しオーバーに表現すると、地上を走る車輪付きのグライダーか、水上を走る
ミニエンジン付きヨットという感覚である。で、兼用して乗るつもりだったが、
一度MTBに乗ったが、もう乗る気がなくなり、昨日、知人に引取って貰った。
  
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5696,‘我慢内燃説’
2016年10月19日(水)
           <20歳からの人生の考え方ー外山滋比古著>
  * 我慢の善用活用、‘我慢内燃説’
 他の著書の中に、「キズをのり越える努力が、人を大きくする」がある。
<青森で朝市に寄ってリンゴを買った。私が、「キズのあるリンゴの方が甘いん
 ですよね」と言うと、おばあさんが「東京の人のようだけど、よく御存じで。
みんなに 嫌われているキズのついたリンゴ。傷をかばおうとして、力を出す
のであろう。無キズのリンゴよりうまくなる。キズのないリンゴがなまけて
いるわけではないが、少しいたんだ方が、おいしい。>
 人間も似ている。秀才は、傷なしの特上のリンゴ。天才は傷だらけだが、
特質の能力がある。このリンゴから例えると、よく理解が出来る。 
 ここで、「我慢の善用活用、‘我慢内燃説’」を述べる。 〜p-139
≪ 我慢を通せば、病気になるし、我慢をしないと無作法で反社会的になる。
どうしたら、悪玉我慢を善玉我慢に転化できるか考えどこ。長い間、考えた末、
ひとつの解決法を得た。 それを‘我慢内燃説’と勝手に命名した。
我慢のストレスは、ガソリンのようなもの。そのままで不用意に火を近づければ、
引火する恐れがある。我慢をガソリンとすると、そのまま発散すれば、その場限り
になる。じっと我慢すれば、内圧が高まって、ストレス化する。その内圧を燃焼
すれば、恐ろしいほどの力が生まれる。いつまでもストレスをためておくのは
愚かなこと。充分に高まったら、目的のため噴出させる。発噴とは、その内燃
を元に大きなことをうごかせる心的活動だと考えることが出来る。 ≫
▼ リンゴの自然治癒力と、我慢の善用活用、の作用は似ている。
 人生の節目時は、破壊から創造への変化への我慢時。それまでのプラス、
マイナスが、同時に覆い被さってくる『真実の時』。 その時、溜まった
エネルギーが新たな変化を生む。創造にはなくてはならない条件である。
既存の自分を一度、ゼロにして、新たな目標にむかう節目時である。
<順境には枝を、逆境には根を張れ!>という諺がある。リタイア時期を
過ぎても、枝にしがみついて人、例えば森元首相や、石原慎太郎のような人を
みるにつけ、人生の不条理を見る思いになる。人生も見切り万両である。
 でないと、人生にとっての「死に損ない」になる。

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4966,閑話小題 〜ある男の動揺
2014年10月19日(日)
   * 80までは生きれると思っていたけど!
 ある飲み会で一年ぶりに出会った男が出会いがしらに、
「最近、切腹をした。もう長生き出来そうもない。片足、いや両足を
棺おけに入った。80歳までは生きると思っていたけど!」と悲鳴。やり手?
だが、人の弱点を見ると見境なく攻撃をする性格で、三年半前の私の倒産劇
以来、三度の会で、続けて露骨な嫌味を言っていた。三度目の会で、目前の座席。
早速、私への攻撃が始まった。「俺は学が無いので、哲学などは分からないが〜」
と、薄笑い。その言葉には(その様は何だ)との皮肉が込められていた。
それまでの二度は、聞き流していたが、この言葉にはカチッときた。 
 5年程前の話になるが、本人の趣味の茶器づくりが認められ、銀行のロビー
に飾られ本人が有頂天だった頃、その人と親しい知人から、「あの男、私生活も、
茶器づくりりも、仕事もスランプらしい」と聞いていた。たまたまポタリング
をしていると、車が停まり、当人が話しかけてきた。それが偶然、本人の会社前。
「まあ、お茶でも飲んでいけや!」と誘われるまま、事務所に行ったところ、
応接室に茶器が並んでいて、素人としてはナカナカの出来栄え。
「何でもよいから一つくれないか」というと、快諾。その数日後、自慢の豪邸?
に家内と行くことになった。その時の茶器の御礼に何かと考えた時思い出した
のが彼のスランプ。 初心者用に噛み砕いた哲学を説く池田昌子
「14歳からの哲学ー考えるための教科書」を持っていった。それを逆手に
とって、皮肉を言ってきたのである。酒の勢いもあって「茶器は、作者の魂の
顕現そのもの。 あなたが茶器づくりなどでスランプというから、ヒントにと
本をあげたのだ!スランプ解消には『魂そのものが何か』が分からなくては
ならないはず・・ 『魂を叩き込むとは、自分の持っている全てを作品に
叩きつけることだろう。』」と、怒鳴りつけていた。 其処にいた、
ほかの何人かも、私の言葉に同調。その直後、幹事が会の予算が足りないと
当人に資金補助を頼みに来たところ、内ポケットの数万を私の前に投げつけた。
もし金に貧していたら深く傷ついただろうが・・ あまり経験出来ない面白い
遣り取り。それから一年ぶりの再会で、これ。 余命数ヶ月?に感じられた
深刻な様相だったが、それは恐ろしいだろう! 哲学の最大の問題は「死」。 
 余命を突然告げられ、まず考えるのが、 
☆死ぬとは、如何いうこと?
☆自分が本当に消え去るなど有得ない!
☆自分の生き様は、これで良かった? 等々、心は七転八倒。 
 最後の最後は当人の心奥の問題だが。 去年の5月の随想日記、
4429,ー「死ぬのが怖い」とはどういうことか?ー前野 隆司著の
「死の恐怖を克服する七つの登山道とは」を読めば、少し気が休まるだろうに。 
 こういう類は予習しておくしかない。他人事でないのが、この内なるブラック
スワンの死の問題。 先日、ある30人位のツアーでのデナーの席で、三年前に
旦那を亡くした還暦過ぎの女性と、70歳過ぎのアマチュアカメラマンと、家内と
同席をした時の話。 還暦過ぎの女性が旦那を見送った具体的話題をして、
本人もガン持ちと告白した。その女性が私に「変な話をして御免なさいね!」
というから、「別に全く問題はないです。この年齢になら言葉として表現するか、
しないかですよ」と、答えた。 70過ぎのカメラマンも奥さんを最近見送り、
自分も何時、再発するか分からない、と達観?した様子だったが、内面は
穏やかではなさそう。 即興になるが、「男は黙って、サッ、コロ、キエル」。 
そして誰も居なくなる。 死の問題、一に準備、二に準備!である。
こういう話は、語りだせばキリがない!

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4224, 閑話小題 ー地軸様 
2012年10月19日(金)
   * 地軸様
 何度か書いたことがあるが、30年来、近くの土手を散歩しているうちに橋の
上で呼吸法を取入れた深呼吸をするようになった。大きく息を吐き出しながら
シャガミコム。その時に地球の芯に気を落とすイメージを持つ。
そして、そこから大きな息を吸い上げながら立ち上がり、今度は空に向かって
気を吐き出すイメージで息を出す。それを一回につき7〜8回、続けていた
ところ、擬人化した地球軸に話しかけるようになった。「おはよう!」
「久しぶり!」とか。 ところが何回かするうちに、逆に地軸の方が、
「よう、昨日は散歩に来なかったな!」「より深く呼吸しろよ!」と思いも
よらない切口で呼びかけてくる。 サルトル的にいえば、「対自」と「即自」
の掛け合いになる。ところが何時もの散歩道のコースに、大規模な道路拡張
工事が始まり通行止。そこで違うコースを迂回して歩いているうち、電動
アシスト自転車を購入した。試しに信濃川の土手を長岡大橋から大手大橋を
一周したところ、この景色と空気に魅されてしまった。三年前のことである。
それをキッカケに早朝ウォーキングがミニ・サイクリングへ変わってしまった。
ところがチャリだけでは、物足りなくなり、大手大橋を渡る時にヒキチャリを
しながら歩くようになった。 暫くすると、その地球軸が再び話しかけてきた。
「久しぶりだね、まあ、下世話なことなど考えてないで、ここを歩いている時
 は360度のパノラマを味わえよ!」、
「もっと深い呼吸をしな!」
「自分にせっかく出会えたのだから、エネルギーを、もっと吸い上げろ!」、
「何か考える時や、音楽を聞く時には、わたしが同一になったイメージを持つと、
 感覚が鋭敏になる!」(ワシにも聴かせろ)とか、なかなか面白い。 

スポーツセンターで、ウォーキングマシーン上でiPodの音楽を聞きながら
運動している時などイメージすると、音楽に集中できる。で、この擬人化した
地球軸に何か名前をつけてやろうと、この数日で考えた名前が、「地軸様」。
知らない人が、これを読んだら、「この男、ついに頭にきたか」と思うだろうが、
私にとっては、20年以上の対話の過程がある。自分の魂を擬人化した「真魂様」
でもよい。常に話相手として擬人化して対話すれば、それで深い自己対話になる。
問題は意識してやるかどうか。アブラハム、キリスト、釈迦などは、
このエネルギーの大元と繋がっていたのでは? 魂とは、内的宇宙=地軸様。

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6063,閑話小題 〜「真理とは何?」
2017年10月19日(木)
   * 「真理」? 所詮は「?理」だろうに
「真理とは、事実の中の真実と瞬時に思う言葉」という冗談とも思える言葉が
印象に残っている。 〜ネット検索によると
【真理とは、確実な根拠によって本当であると認められたこと。ありのまま誤り
 なく認識されたことのあり方。真実とも。
真理は、現実や事実と異なり、妨害・障害としての虚偽・誤謬を対義語として
おり、露わさ、明らかさ、隠れなさに重点がある。そのものありのままであり、
あらわであり、その本質が覆われていない、という意義に関しては、哲学的には
本質主義や同一性とも関わりが深い。
西欧哲学において真理論は論理学や認識論においてとりわけ主題化される。
 真理論の歴史は、古代ギリシアに始まる。人間を尺度とする相対的なものの
見方に反論する形で、永遠性・普遍性を有する真理の概念が生まれた。
このような絶対性を内実とする真理概念は独断主義を生み、これに対する防衛・
反抗が懐疑主義を生んだ。 そのどちらにも陥らず、確実な知識の基礎付けを
求めて近代の認識論が始まり、その後、真理の担い手が思惟・観念・判断、命題、
「事物」等のいずれであるか、について議論がなされてきた。
・現代論理学では真理の担い手は命題であるとされ、真と偽を合わせて真理値
 という。
・論理学で、「Pは○か○でないかのいずれかである(○であり、かつ○でない、
 ということはない)」という形をした文は○の内容に関係なく正しいので、
 これは「形式的真理」と呼ばれ、思惟と思惟自身の一致と定義される。
・このような形式的な形相についてではなく、質料について真理が語られるとき
 は「実体的真理」という。
・判断について真理が語られるときを「認識論的真理」といい、
・存在について真理が語られるときを「存在論的真理」という。
現代の真理概念は様々な形で修正を受け、相対的な傾向を強めている。】

▼ ニーチェ『事実というものは存在しない。存在するのは解釈だけである 』
 現象、事実、真実、真理と掘下げていっても、いずれも解釈だけでしかない。
とはいえ、事実、現象の世界だけにとどまれば、その世界だけの住人になり、
現象に右往左往するしかない。ステップをして右往左往する手もあるか?
哲学の命題の一つの「真理」なんぞ、ここで語り尽くせるものでない。 
 脳の奥から、< お前らのは、「珍理」だろうに! >の声。

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5331,ノンセンス辞典 ー?
2015年10月19日(月)

 BRUTUSの「谷川俊太郎」の中の、ノンセンス辞典〜
 の、言葉の解説が面白い。 (▼は、私の意見)
≪ 【生ぎざま】= <生きかた>の商品名。
 <生きかた>を販売する場合には、この商標をつける方がよく売れる。
 但し、最近は投げ売りする者が多いので、先行き不安。 
 ▼「生きざま」というと、「生きかた」を少し生くさくしたもので、
  経験が加味された響きを持つ。
・【偽善】= 二十世紀後半においては、誠実の同意語とみなされているが、
  次のような古典的定義に固執する学者もいる。
  すなわち、偽善ーうそをついていると気づかずにうそをつくこと。
 【誠実】=うそをついていると知っていてうそをつくこと。
 ▼「誠実な人」という言葉に何やら欺瞞が隠されている。
  「偽悪」という私の好きな言葉もある。「露悪と偽悪」の区別も
  つかない連中に、目くらましにするにうってつけ。 
・【土着 】= 自分で自分を鉢植えにしている状態。肥料として人糞を
  用いることは稀。民族的肥料、文化人類学肥料を混用することが多い。
 ▼ 地元から一歩も出ないで、その社会を全世界と信じて疑いを持たず、
  鉢の中で良しとしている人。島国の日本も、鉢とすると、土着国家の
  住民が日本人ということになる。大陸の中国人からしたら日本は
 「小国民」と蔑視をしたくなる。その鉢が城下町となると?
・【知識人】= 知識についてはあらゆる知識をもっているが、知識でない
 ものについては、なんの知識ももっていない人。
 ▼ 境目は、その自覚が出来ているかどうか。知識でないものの一つに、
  「未経験」がある。それに対する姿勢、考え方が大きく、左右する。
・【情報】= 人間が本心をかくすために、まわりに煙幕の如くはりめぐらす
 膨大な量の知識。その量が余りに大きいので、当の人間すらその奥に
 かくされている本心を見失ってしまう。ほんとうの〈知〉と異り、しばしば
 売買や盗難の対象となるところから、商品の一種と推定される。
 ▼ 奥に隠されている本心すら、自分自身が知らないから始末が
  悪い上に、情報を知識化出来ないため始末が悪い。
 ―――
 今度、皮肉たっぷりの「私のノンセンス辞典」でも作ろうか。

 当日分を書き終えて、過去文を流し読みをしたところ、5年前の
<二代目・電動アシスト自転車>に出くわした。