* 今年、最も面白かった映画とは…
 この半年で、シネマ館と自宅寝室で400〜500本の映画とドラマをみてきた。
シネマ館では24本見たが、最高評価は90点。それよりも、寝室のブルーレイに
録画をしてあった『ブレイブ ワン』の評価が95点だった。そこで、この批評を
書くため昨日、改めて見たが、面白いものは再度見た方が余裕を持てるから良い。
当時、私の勧めで、家内も見たが、本人も面白かったという評価。
 人気のラジオパーソナリティが、思わぬ被害者から、立派な?ギャング
殺戮ハンターに変身していく過程の筋書きが、スリリング、かつ惹きつけられる。
  
  〜まずは『ブレイブ ワン』のあらすじ〜
≪・エリカ(ジョディ・フォスター)はラジオパーソナリティーとして活躍中、
 婚約者のデイビットと結婚が決まっている幸せな生活を送っていた。
ある日セントラルパークをデイビットと散歩中、三人の暴漢に襲われてしまう。
デイビットは死亡、エリカは瀕死の重症をおった。しばらくしてようやくエリカが
目を覚ました。婚約者の死を知ったショックと事件の恐怖から外へ出られなくなる。
・護身用に銃を手にいれたエリカ。それを使う日は突然訪れた。コンビニで殺人
 事件を目撃してしまったエリカは強盗から殺されそうに。とっさに銃で相手を
撃ち殺してしまう。このことがきっかけで凶悪犯罪者を殺害していくことに…。
世間の人たちは犯罪者を殺害する謎の人物を、勇気ある行為だと尊敬の意から
『処刑人』と呼ぶ。
ラジオパーソナリティーとして復活したエリカもまた、番組内でそれに触れる。
 事件の捜査をしていたマーサー刑事は、エリカのファンでもあることから彼女
とコンタクトをとった。次第に友情を深めていく二人。
一方で自分達を襲った犯人が検挙されないことへの苛立ちを隠せなくなってきた
エリカは、自分で探し制裁することに。ついに3人を見つけたエリカは二人を銃殺。
最後の一人を殺そうとしたところへマーサー刑事が突入してきたのだった。≫
――
  ―ネットの感想より―
《 粗筋だけ見ると婚約者を殺された女性の復讐劇に見えるが、実はそんなに
 単純なものではない。 暴漢に襲われて恐怖心を持つ女性の心理状態が良く描けて
いるし、偶然とは言え凶悪犯罪者を殺害していくということへの葛藤が見ていて
苦しくなるくらい見事に描けている。 彼女の中の善悪が心の中で闘い、一人で
自問自答しながら迎えていくラスト。そこまでのスピード感もたまらない。
ジョディ・フォスターという演技力のある女優をキャスティングしたかとも絶妙。》

▼ 最後は、このギャングハンターに甘い結果になるが、それも良しという気に
 することで、後味の悪さを消している。<私の中に、ひとりストレンジャー
住みついてしまった>という彼女の独白が真に迫っている。
 私の中にも、この数年、想像上のストレンジャーサイコパス?想定者への
首を削ぎ落している。「何故か2〜3年で、事故か、病魔に陥るから、まか不思議
というストーリー」付き。それも結果が2〜3年後に現れ出る筋書のため、罪悪感が
残らない。人生の後半ともなれば、2〜3年内には当人の身辺に不幸はある。それを
物語とし編集すればよい。リアルで気味が少々悪くなることもあるが、それはそれ。 
全エネルギーを一瞬、オーラごと殺ぎ落とす快感がある上、内的消去効果に。
とすると隠れサイコか、私こそ。 サイコパスには、サイコで… 勿論、冗談。
 上記のような筋書きの映画、ドラマが特にストレス解消になる。ハリウッド
モノには、ストレス解消モノが多い。格差社会に対する鬱憤晴らしを映画で?… 
最近では、人間同士の殺戮では後味の悪さが残るため、大型ロボット、動物同士
の代行モノが多くなっている。
 YouTube上に、野生動物同士の死闘の実写が多く投稿されている。
ライオンと水牛の群れ同士の凄惨なドックファイトを大型TV上で見ると、我を
忘れ見入ってしまう。それと、闘牛、とりわけ、街中で放たれた闘牛を一般市民
が命をかけて一瞬かわす遊び。これが、数知れず次々と投稿されている。ストレス
が多々あるが故に、こういう面白い映像と向かい合えるから、ストレス善玉論が
頭を持ちあがってくる。閑なるが故だが…
 ―
熊:それにしても八つぁん、根こそぎ否定する上に、これでは浮かばれないよ。
寅:全てが引っくり返って、心に余裕が無くなったからさ。
八:この歪みの視点から見えてくる社会が、何せクリアで新鮮に思えるからさ。
 新たな切口の発見が、毎日毎日、目の前で新鮮に展開するからね。
大家:何か「偽悪趣味」が、これで全面的に露見したね。
八:今さらさ… それにしても、偶然だが去年の同月、同日の映画評も面白いね。
 
・・・・・・
5952,閑話小題 ーシネマ『22年目の告白』
2017年07月02日(日)
  * 『22年目の告白 私が殺人犯です』   〜映画評  
 一昨日みてきた邦画、『22の告白^私が殺人犯です』が、思いの外、
面白かった。ネタバラシになるが、名乗り出た得体のしれない殺人犯が、実は
被害者の親族が整形をした人物だったり。ライブで殺人犯と対峙し、追及して
いたキャスターが実は犯人だったり、なかなか面白い逆転が続く。評価・90点
  〜HPの説明より〜
【 2012年の韓国映画『殺人の告白』をリメイクしたスリラー映画。
 〜あらすじ〜 1995年。日本の東京で起きた5件の連続絞殺事件。警察の捜査
もむなしく時効を迎え、未解決事件となる。それから22年後、会見を開き自分が
犯人だと名乗り告白本を出版する。犯人の名前は曽根崎雅人。 彼の告白本は
ベストセラーとなり、表舞台へと現れた彼の行動は日本中を翻弄するが… 】
▼ 思っていたより、暗さ、残虐さ、凄惨さは抑えてあった。それより、仰け
 ぞるような、意外な展開に固唾をのむ場面が続く。ネット上で、韓国映画
リメイクと知り納得。 面白かったといえる映画にヒットするかしないかは、
見続ければこそ言えること。 何はともあれ、最近、当たりが多い。
 ――
   * 人は、置かれた状況に順応する生き物
 リタイア後の平々凡々の日々に、飽きもせず順応し、結構満足している。
この随想日記を16年以上書き続け、蓄積してきた心のベースがあるからだろう。
人間は状況に順応する生き物。肩の荷を下してしまえば、気張ってきた人生が
逆に何だった?と… 面白く、充実はしていたが、それは今でも同じこと。
 〜以前、ここで取上げた幸せに関する道理〜
《 一般的に考えられる「幸せと、不幸」を取上げ。幸せは、5〜10億の宝クジ
 に当たること、不幸は首から下の麻痺になる頸髄損傷になること。しかし、
アメリカだが、5年以内に95%の人が、その全てを失う。 逆に最悪に思える
頸髄損傷の場合、自殺すら出来ないため、諦めざるを得ないため、その運命を
直に受け入れ、周囲に生かされていることに感謝をするため、幸福感が増す。》
「使い果たす、どこが悪い」は、私の実感にあるが… 宝クジは、如何だろう?
似たようなものか。「状況」というより、「変化」だろうが。状況、環境
の外的変化には、内的な態度の変化が必要だが、前もった準備いかん。
 で、また偶然だが、以下につづく

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5587,幸福の条件とは 〜?
2016年07月02日(土)
           <「幸福の条件〜新道徳論」鹿島茂著>
   *「恒産なければ恒心なし」
 10年前までは、『幸福』という言葉は何故か、何処の場の会話、対話で
軽過ぎる言葉として避けられていた。ところが、長期の不景気などで、社会が
混沌としてきたためか、テーマとして扱われるようになってきた。
 幸福の条件とは、まず生活に支障のない最低限の収入がなければならない。
「貧すれば鈍す」「金持ち、喧嘩せず」「恒産なければ恒心なし」で、人は、
裏づけある豊かさがあってこそ幸せになれる。いかなる場合も、万一の備えが
「先立つもの」があればこそ。蓄えが無ければ、いざという時、何も出来ない。
花街の色男も、前提が金持ち。 〜ここで、まず、それを指摘する〜
≪ アダム・スミスは『道徳感情論』の中でこんなことを述べています。
「健康で、負債がなく、良心にやましいところのない人に対して何をつけ
加えることができようか。この境遇にある人に対しては、財産のそれ以上の
増加はすべて余分なものだというべきだろう」。 たしかに、その通りで、
人間は、健康で、負債がなく、良心にやましいところがなかったら、それで
充分なはずです。収入のさらなる増加は、増加した分に見合った幸せを
正比例的にもたらすというようなことは決してないのです。
 たとえば、健康で、負債がなく、良心にやましいところのない年収五百万円の
Aさんという人がいたとしましょう。このAさんと比べて同じ条件の年収五千万の
Bさんが10倍幸せかといえば、そんなことはないのです。幸せ度を測定する機械
があったとしたら、せいぜいのところ1・2倍くらいの数値を残すにちがいない。
物質的な豊かさのもたらす幸せが正比例的になるなどということは原理的にあり
えないのです。しかしながら、こうしたことが幸福の必要条件であるとしても、
それはあくまで一定以上の収入があった場合に限られます。
生活を維持するのに欠かせない最低限の収入がなければ、人は幸福と感じる
ことができないのです。「恒産なければ恒心なし」です。
 ところで、一昔前の日本人のアンケートに対する回答を見ますと、
「自分は中流である」と考える人の割合が90%近くに達していました。
これは、自分は健康で、負債がなく、良心にやましいところがないばかりか、
一定以上の収入があると考える「恒産あるゆえに恒心あり」の人が90%近く
いたことを意味しています。つまり、日本はかなりの程度まで理想的な社会に
近づいていたのです。
 それなのに、いまはどうでしょう。「健康で、負債がなく、良心にやましい
ところのない」のにもかかわらず、幸せを実感することのできない人々が、
社会の両方の端でどんどん増えてきているのです。片方は、当然、一定以上の
収入を持たない「恒産なし」の人、つまり、ワーキング・プアの人々の増加です。
これらの人々は、最初のうちこそ、健康で、負債がなく、良心にやましいところ
のない状態でいられても、収入が次第に減じていけば、そのうち負債が生まれ、
健康でなくなり、ついには良心に疚しいことまでするようになるかもしれません。
これは、大きな社会問題です。しかし、二十一世紀の社会にとってより解決困難
なのは、もう一方の端、つまり富裕層における不幸せな人々の増加です。≫
▼ 確かに、500万と5000万の収入で、10倍の幸せは得られないが、10倍で
 ないとしても、散在の行蔵は、その中に、何かを残してくれる。より稼ぎ、
より使ってこそ、お金(能力)である側面を持っている。小・中・高・大学と
進学するにつれ、幸せそうな人が格段に増えていく。両親の質?で、その前提が、
ある程度、決定される不条理がある。結婚相手も、つり合いで選ぶケースが多い。
結婚も、「悪貨が良貨を駆逐する」。いや、結婚そのものが、そういうものか。
・・・・・・
5222,閑話小題 〜中学校の古希会 〜?
2015年07月02日(木)
   * 中学校・古希での見聞とは
 卒業から古希の会まで半世紀以上、それ以来、初めて出会った人が何人かいた。
また、様々な日々を過ごしている人の話を聞いたが、それがユニークで面白い。
<月に一度、東京駅近くの居酒屋に大学時代の友人が集まり、13〜17時まで
酒を酌み交し、17時半の新幹線で帰ってくる。年に一度ぐらいは、それぞれの
地方の友人の所を訪ねて、地元を案内してもらう。>とか。
<去年、大病をして死線を彷徨い3ヶ月入院した。>とか、女性では、
小児麻痺で、片脚が少し短く、俗にいうビッコをひいていて、何時もオドオド
していた女性が、最近、手術で正常に戻り、見違えるほど明るく、嬉しそうに、
「正直に本当に嬉しい!」と言っていたり、少し暗く神経質だった男が、
明るい人格者風?な教師になって、<出世コースを登るか、教師として現場に
残るかの分かれ道で、現場に残った。それが良かった!> とか、様ざま。
 私のように地方で、肩肘を張っていたのが、9・11テロ、9・15のリーマン
ショック、3・11地震であえなくダウンしたのもいるし、田舎の成功者?として、
金を、これ見よがしにチラつかせていた人が、??で倒れ、死の恐怖に怯えて
いる人もいた・・  駅前を学校区にした中学校は、分類される直前のため、
「人生の事前事後」が漫画的に垣間見えてくる。たかが人生、されど人生である。
還暦より、古希の方が、様ざまな人生が色濃く出てくる。 とすると喜寿は?
   * つれづれに
 新幹線内の焼身自殺があったが、50年間、犯罪?による死者が無かったとは
奇跡的である。 際どい場面を、新幹線内で目撃をしてきたので、「半世紀」も
無かったこと自体が、不思議である。車内や、ホームには隠しカメラとか保安が
緻密になされていることを犯罪者は、知っているため、タブーなのだろう。
新幹線内で時々目にするのが、三国人のエゴ丸出しのマナー不足の振る舞い。
特に子供が酷いが・・親は見てみぬふり。それに対する、日本人の無視の冷やか
な態度と、それさえ分からない彼ら。 ヤクザが、私の前席の一番前に座り、
トイレの手洗所の獲物を狙い、カーテン内に引き込んで・・ 
助ける以前に、その迫力に、唖然と席から見ているだけだった・・ 
酔った労務者風の乗客が母と私に絡んできた時、脅し返したこともあった・・
ほぼ全席、サラリーマンが気に入らなかったか、甘くみたか、やはり労務者風
の男が大声で、「この虚勢犬どもめ」と喚き、悦にいっていたのが、車掌が
来ると、急に大人しく黙ってしまい、その後は、最後まで狸寝入りとか・・ 
その中で、一度も死者が無かったとは驚き。新幹線通勤30年には、色々ある。
・・・・・・
4857,閑話小題 ーつれづれに漠然と!
2014年07月02日(水)
   * ぼんやりと、考えてみると!
 時間とは何だろう? このところ、鳥瞰的に30数年前の時間を超えた
過去の語り直しをシリーズで書いているが、「遠き日は年とるごとに近くなり」
の感が、ますます強くなっている。 新しい気づき、切り口から見える当時が、
新鮮に思えてくる。死んでしまえば、全てが永遠の彼方に消えてしまう
のか?それとも、永遠に経験は刻印され残るのか? 
 私と行蔵の記憶の刻印から成立しているのか? その刻印も、後で書き換える
ことが可能なのか。世間の流説は、ほぼ嘘だが、それを疑わずに信じるものには、
それは真実の記憶になるのか? バカがバカと自覚できないのが世間様。
その彼らが作った妄想を真実がごとく信じ、まかり通るのが俗世界。
そこでしか生きることが出来ない私たち人間? それも小さな世界の中。
 過ぎ去った昔と現在。宇宙的時間からみれば、同じ様なものだが、
間違いなく、時間差の中で違う人が存在している。それが、自己と、自分の、
言葉の意味の違いになる? 刻々変化する世界と、自分の受け止め方の変化。
両者とも、儚い泡のようなものでしかない。なるほど、《ぼんやり》とは、
「闇」―蛍と星にある背景。「独」―独りでいること。
「閑」―逆茂木に囲まれ時空。「怠」―勤勉だけでなく、怠慢も善。
「懶」―心の余白。の様というが、
過去を覗き見ると、それが、ぼんやりと、解るような? 《ぼんやり》と、
《無我夢中》の言葉の対比が、何とも面白い。これからして、無我夢中は、光、
輝きになるが・・ 人生を取り囲んでいるのが、先の5つの一字の漢字。 
ぼちぼち、過ごすしかない。
   * 夢と現実の境目で
 一月ほど前に、久々に大学時代の友人に電話をしたところ、数日後に大腸検査
をすると浮かぬ声。知人で何人か死んでいるのと、検査も初体験で、そのことで
頭が一杯で、落ち込んでいるという。その後、その結果がどうか?は、大腸だけ
に電話を躊躇った。そこで、先日、思い切って携帯に電話を入れたが不在。 
その夜半の夢の内容が、《 居間でウトウトしていると、当人から電話。 
非通知だっが、私ではないか?と、折り返しの電話。そこで『検査の結果は、
どうだった?』と聞くと、『う〜ん』しか答えない。そこで『入院をしているの?』
と聞くと、曖昧な生返事。 まずかったかな?と後悔したが、時すでに遅し!》 
 ところが、朝起きて、暫くして、あの会話は、居間で転寝の現実の電話か、
夢だったか分からない。そこで携帯の着信記録を見て、夢と確認が、今度は、
あれが正夢では?と、気になって、性懲りなく、電話をしたところ、
『ああ、あれ! 単なる胃腸の疲れで、何ともなかったよ!』と、明るい声。
・・・・・・
4490, 怒らないって本当は恐い! ー5
2013年07月02日(火)
  * 哲学者と、ジェファーソンの教訓   『怒りの作法』小川仁志 著  
 ここで、哲学者は怒りについて、どのような教訓を残しているか取り上げている。
ギリシャの哲学者ピタゴラスが、「怒りは無謀をもって始まり、
 後悔をもって終わる」といっている。・・・
デカルトは『情念論』の中で「怒りによって真っ赤になる人は、怒りによって
 真っ青になる人より恐ろしくない」と表現している。赤くなる人は、頭に血が
 上っている人でラッパ型。青くなる人の方が余程怖い。最初は事態の深刻さに
 青くなる、しかし、その後、恐ろしいほど冷静に対処することができる実務型。
ストア派哲学者セネカは、「憤怒より己を抑えるには、他人の怒れるときに
 静かにそれを観察することなり」と提案。
アメリカ建国の父トーマス・ジェファーソンは、「腹が立ったら 何かを
 言ったりしたりする前に10まで数えよ! それでも怒りがおさまらなかったら
 100まで数えよ、それでも駄目なら 1000まで数えよ」というのがある。
  決して我慢をしろというのでなく、その間に冷静になって考えろ!考えた分、
 良い結果が生まれるということだ。ピタゴラスの教訓は、直情型の怒りに
 対するもの。怒ってばかりいては短い人生のロスだが、ボッとしているのも。
▼「腹が立ったら、10、100、1000まで数えよ!」は、その間に冷静に考えろ
 ということ。私の場合、「二年スパンもの」。正しい怒り方、すなわち問題
解決型怒り方とは、粘り強い思考を持って、正しいエネルギーを使うことになる。
怒りは、目を外らさないで中心点を見続けていると、時間の経過で殆んど収まる。
その鎮静に膨大のエネルギーを投入するが、そこで多くの認識が出来てくる。
この倒産劇の中で、多くの怒りを経験し教訓も得た。 怒りにも、私憤と義憤が
あること。救いようのない怒りと、救いのある怒りがあること。何事も実際に
自分が経験してみないと分からない。今回の一連の私憤はデカルトのいう、
「青くなる怒り」。世界は既に世界が恐慌に深く踏み込んでしまっている。
その直撃で青くなったのは、世界恐慌のウネリの到来を感じたからである。
それも、後に控えている歴史的大津波の到来が見えたからだ。地元も含め、
地方の中小・零細の8割以上はただ呆然と立ち竦んでいる。残る2割の多くも、
時間の問題でしかない。その中で、何処かの首相が、10年後の一人あたりの所得
を150万円増やすと曰わいている。耳を疑うより、怒りが込み上げて来たが、
これは公憤である。「腹が立ったら、10、100、1000まで数えよ!」というが、
挫折は、「二年(スパン)もの」。私の場合は、どうだろう? 自分も周囲に
対しても、腹の底から笑えたが! 「怒らないって本当は怖い!」は、
現在の自分にピッタリ。現在、もっと笑い、怒り、哀しみ、楽しめということ。 
・・・・・・
4116, 財政恐慌 −3
2012年07月02日(月)
「財政恐慌 ーついに金融と財政の死に至る無限ループに突入した」浜矩子(著)
英国の怪物的俳優で異様な喜劇俳優アトキンソンことミスター・ビーンの過って
の持ち役の一つがサー・ベンジャミンだった。サー・ベンジャミンは、ロンドン
市長主催の晩餐会の栄えある舞台で、「人生の不確実性」について語った内容が
新鮮である。この著書で、欧州危機について、この質問を、そのままに答えて
いる形式になっている。
  * ミスター・ビーンに聞こう
【・・ これを考えていくにあたって、皆さんにご紹介申し上げたい人物がいる。 
 その人の名は、サー・ベンジャミン・フレッチャー。イギリスの大物政治家で
自ら交通大臣や社会保障大臣を歴任・下院議長も務めた。彼は架空の人物である
彼を演じて大反響を得たのが、ローワン・アトキンソンである。イギリスの怪物
的俳優で異様な喜劇俳優だ。物言わぬドタバタ男キャラクター「ミスター・ビーン
としての彼をご存知の皆さんは多いだろう。ミスター・ビーンは何も言わない。
だが、アトキンソンは実は極めて多芸な俳優さん。七変化的な役柄の演じ分けが
得意だ。そんな彼のかっての持ち役の一つが、サー・ベンジャミンだった。 
サー・ベンジャミンは、ロンドン市長主催の晩餐会でスピーチに立つ。 
市長の晩餐会はイギリス恒例のビッグ・イベント。その栄えある舞台で、
サー・ベンジャミンは「人生の不確実性」について語る。 その中身は、
あたかも今日の日本を語っているがごとくだ。「今日、イギリスは一三八○年
以来最大の経済危機に直面している」と、サー.ベンジャミンは口火を切る。
なぜ一三八○年なのかはよくわからない。・・ここから、その「我々がみずから
に投げかけるべき質問群」が並べ立てられてた。この紙面上に再現してみよう。
 ー 我々がみずからに投げかけるべき質問群 ー 
● 我々は今どこにいるのか           
● いかにしてここにきたのか なぜ、ここにきたのか      
● 我々はどこに行きたいのか
● 行きたいところに、我々はいかにして行きたいのか 
  どれくらい遠くまで行かないと、行きたいところに行けないのか
● 行きたいところに行けた時、そこが行きたかったところであることを、
  我々はどうすればわかるのか
● 我々は地図を持っているのか                 
● 我々はなぜ元いたところから立ち去ったのか
● 我々はここで立ち止まりたいのか               
● それとも、我々は元に戻って最初からやり直したいのか 】
 ▼ これを現在の自分と書き換えて自問自答して考えると、面白い。
 ここで著者は、対象をユーロ危機に置き換え質問に答えている。
それぞれが個々のテーマとして成り立つ質問群。私たちは9・15ショック
という大地震直後の大津波来襲を目前にした茹で蛙。 遊びなされ!