つれづれに

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  今日のYoutube

 今年の夏は格別に暑そうだ。
越後は、まだ梅雨はあけてないが…
暑い夏は、ジッと部屋で夏籠りが一番。 


・・・・・・・
・・・・・・・

4490, 怒らないって本当は恐い! ー5
2013年07月02日(火)
  * 哲学者と、ジェファーソンの教訓   『怒りの作法』小川仁志 著  
 ここで、哲学者は怒りについて、どのような教訓を残しているか取り上げている。
ギリシャの哲学者ピタゴラスが、「怒りは無謀をもって始まり、
 後悔をもって終わる」といっている。・・・
デカルトは『情念論』の中で「怒りによって真っ赤になる人は、怒りによって
 真っ青になる人より恐ろしくない」と表現している。赤くなる人は、頭に血が
 上っている人でラッパ型。青くなる人の方が余程怖い。最初は事態の深刻さに
 青くなる、しかし、その後、恐ろしいほど冷静に対処することができる実務型。
ストア派哲学者セネカは、「憤怒より己を抑えるには、他人の怒れるときに
 静かにそれを観察することなり」と提案。
アメリカ建国の父トーマス・ジェファーソンは、「腹が立ったら 何かを
 言ったりしたりする前に10まで数えよ! それでも怒りがおさまらなかったら
 100まで数えよ、それでも駄目なら 1000まで数えよ」というのがある。
  決して我慢をしろというのでなく、その間に冷静になって考えろ!考えた分、
 良い結果が生まれるということだ。ピタゴラスの教訓は、直情型の怒りに
 対するもの。怒ってばかりいては短い人生のロスだが、ボッとしているのも。
▼「腹が立ったら、10、100、1000まで数えよ!」は、その間に冷静に考えろ
 ということ。私の場合、「二年スパンもの」。正しい怒り方、すなわち問題
解決型怒り方とは、粘り強い思考を持って、正しいエネルギーを使うことになる。
怒りは、目を外らさないで中心点を見続けていると、時間の経過で殆んど収まる。
その鎮静に膨大のエネルギーを投入するが、そこで多くの認識が出来てくる。
この倒産劇の中で、多くの怒りを経験し教訓も得た。 怒りにも、私憤と義憤が
あること。救いようのない怒りと、救いのある怒りがあること。何事も実際に
自分が経験してみないと分からない。今回の一連の私憤はデカルトのいう、
「青くなる怒り」。世界は既に世界が恐慌に深く踏み込んでしまっている。
その直撃で青くなったのは、世界恐慌のウネリの到来を感じたからである。
それも、後に控えている歴史的大津波の到来が見えたからだ。地元も含め、
地方の中小・零細の8割以上はただ呆然と立ち竦んでいる。残る2割の多くも、
時間の問題でしかない。その中で、何処かの首相が、10年後の一人あたりの所得
を150万円増やすと曰わいている。耳を疑うより、怒りが込み上げて来たが、
これは公憤である。「腹が立ったら、10、100、1000まで数えよ!」というが、
挫折は、「二年(スパン)もの」。私の場合は、どうだろう? 自分も周囲に
対しても、腹の底から笑えたが! 「怒らないって本当は怖い!」は、
現在の自分にピッタリ。現在、もっと笑い、怒り、哀しみ、楽しめということ。 
・・・・・・
4116, 財政恐慌 -3
2012年07月02日(月)
「財政恐慌 ーついに金融と財政の死に至る無限ループに突入した」浜矩子(著)
英国の怪物的俳優で異様な喜劇俳優アトキンソンことミスター・ビーンの過って
の持ち役の一つがサー・ベンジャミンだった。サー・ベンジャミンは、ロンドン
市長主催の晩餐会の栄えある舞台で、「人生の不確実性」について語った内容が
新鮮である。この著書で、欧州危機について、この質問を、そのままに答えて
いる形式になっている。
  * ミスター・ビーンに聞こう
【・・ これを考えていくにあたって、皆さんにご紹介申し上げたい人物がいる。 
 その人の名は、サー・ベンジャミン・フレッチャー。イギリスの大物政治家で
自ら交通大臣や社会保障大臣を歴任・下院議長も務めた。彼は架空の人物である
彼を演じて大反響を得たのが、ローワン・アトキンソンである。イギリスの怪物
的俳優で異様な喜劇俳優だ。物言わぬドタバタ男キャラクター「ミスター・ビーン
としての彼をご存知の皆さんは多いだろう。ミスター・ビーンは何も言わない。
だが、アトキンソンは実は極めて多芸な俳優さん。七変化的な役柄の演じ分けが
得意だ。そんな彼のかっての持ち役の一つが、サー・ベンジャミンだった。 
サー・ベンジャミンは、ロンドン市長主催の晩餐会でスピーチに立つ。 
市長の晩餐会はイギリス恒例のビッグ・イベント。その栄えある舞台で、
サー・ベンジャミンは「人生の不確実性」について語る。 その中身は、
あたかも今日の日本を語っているがごとくだ。「今日、イギリスは一三八○年
以来最大の経済危機に直面している」と、サー.ベンジャミンは口火を切る。
なぜ一三八○年なのかはよくわからない。・・ここから、その「我々がみずから
に投げかけるべき質問群」が並べ立てられてた。この紙面上に再現してみよう。
 ー 我々がみずからに投げかけるべき質問群 ー 
● 我々は今どこにいるのか           
● いかにしてここにきたのか なぜ、ここにきたのか      
● 我々はどこに行きたいのか
● 行きたいところに、我々はいかにして行きたいのか 
  どれくらい遠くまで行かないと、行きたいところに行けないのか
● 行きたいところに行けた時、そこが行きたかったところであることを、
  我々はどうすればわかるのか
● 我々は地図を持っているのか                 
● 我々はなぜ元いたところから立ち去ったのか
● 我々はここで立ち止まりたいのか               
● それとも、我々は元に戻って最初からやり直したいのか 】
 ▼ これを現在の自分と書き換えて自問自答して考えると、面白い。
 ここで著者は、対象をユーロ危機に置き換え質問に答えている。
それぞれが個々のテーマとして成り立つ質問群。私たちは9・15ショック
という大地震直後の大津波来襲を目前にした茹で蛙。 遊びなされ!


・・・・・・
3750, 自分の居場所のみつけかた ー⑤
2011年07月02日(土)

       「自分の居場所のみつけかた」 ー 斉藤学
 人生はままならぬもの。特に少年・青年期は傷つきやすい時期。ところが中年期、そして晩年期に入ると、
過去の出来事のガスが心の底の沼に溜まり、いつの間にか泥沼になって猛毒が湧き出てくる。 それに老化が
重ねると、その毒で脳がやられ下手をすると、重症の鬱病分裂病になる。 それを防ぐには孤独に徹し、
先人の知恵などを借りて洗浄をしないと老醜を曝すことになる。憎しみが重度になると、主語(相手)を
選ばなくなり、憎しみの連鎖が始まる。以下は怒りと憎しみの意味が分かりやすく書かれている。
【  ● 怒りに羨望が絡むと「憎しみ」に変わる  ーP・118
「怒り」と「憎しみ」の間には少し差があります。怒りは、相手に欲しいものをおねだりしてももらえな
いというときの感情です。まだ相手の愛を求めています。赤ちゃんが「オギャー」と泣いて、お母さんの
おっぱいの必要を示す。これを「怒り(アンガー」と言います。そこに「羨望(エンヴィー)」が入ってきます。
これは相手が持っているものを、本来自身が持つべき、とその人から取り上げたくなる感情。「エンヴィー」
という言葉の由来は、「横目で睨む」です。つまり、人の持ち物を睨む。それを取り上げ
たいという感情。怒りに羨望が絡んでくると「憎しみ」になります。「嫉妬」というのは男女の関係で、
自分の持っている人をとられるのでないかという焦燥、怒り、不安の複合した感情です。 取られることを
恐る感情、取ろうとするのも憎む感情です。ここにも「憎しみ」があるわけですが、男女関係が絡まない
エンヴィーとは区別されます。 嫉妬は人聞関係を破壊しません。むしろ人間関係を
破壊されることを恐れる感情ですが、憎しみ、憎悪は人間関係の破壊に結びつきます。もう一度、赤ちゃん
とお母さんの関係で考えてみると「おっばいが欲しいのにもらえない」というときに発生する感情はアンガー。
お母さんはいいもの(おっぱい)を持っていて、弟だの妹だのがどんどん出てくるお母さんが持っている
ものをみんな自分のものにしたいと思ったら、これはエンヴィーになります。 ですから、愛情というのは
考えてみるとかなり厄介なもので、一つ間違えると怒りに、もっと間違えると憎悪に転換します。
そういう「関係」に身を置くのが厄介だと思うと、逃亡心が生まれてくる。こんな面倒な関係からは
離れたくなることもあるでしょう。昔の東洋人の思想の中には、そういう面倒な関係が嫌だというものが
ありますね。 いろいろな欲望や感情が渦まいた俗世から離れて、仙人のように淡々と生きる生き方に
憧れるというものです。それをやるとなると、どこかで線を引いて、人間関係からリタイアすることを
考えなければなりません。あれこれ面倒なことがあるうちは、山の中で仙人のように暮らすことに憧れる
かもしれませんが、いざ本当に離れたところで一人暮らすとなったら、今度は記憶の中の人間関係に
わずらわされることになる。 人間は人の中でしか生きるしかないのです。】
 ▼ 大人数の兄姉の中で、私が両親の住んでいた実家に住みついて家屋敷などを引き継いだため
多くの葛藤があったのが世の倣い。「怒り」×「羨望」=「憎しみ」は肌で嫌というほど感じ取ってきた。
私も家内も愛情を限りなく受けてきたが、逆の与え方は上手くない。「自分」というものは、自分一人の
閉鎖系で成り立っているより、人との「関係」として成り立っていると著者は強調している。
 「愛」というのは、そういう関係性を言っている。 だから、年齢を重ねるほど人間関係は丁寧に
扱わなければ。 「ピーク、エンドの法則」がある。 記憶は、ピーク時と、終わりが引き立ってくる。
その数パーセントで、8割以上の記憶を決まる。ドロドロの経験が少ない人は、その辺の構えが甘くなる。 
心の奥の沼に大切な人生経験をマイナーにして落とし込んでしまう。
 ・・・・・・・・
3385, 911・考えない・日本人  ー3
2010年07月02日(金)
          「911・考えない・日本人 」林 秀彦 (著)
 ー以下の箇所は、欧米の一神教無宗教の日本の差でもあるー
 * 生存に必要な要素、それは悪 (P・62)
≪ 男のいない日本に、「男らしさ、勇気」があるわけがない。 白人の根本的な善悪の問題は道徳
 科目ではない。哲学科目だ。当然、日本にあるわけがない。 日本の悪は改心と謝罪の対象である。 
白人の悪は復讐の対象である。根本的に異質だ。人間の生存に不可欠な、最も重要な要素は何か。悪である。 
悪を身につけない限り、生きられない。
 人間を悪から解放するものは、より強力な悪しかない。 悪がないことは善か? ノー。 
それは無知であり、バカだ。 生きる条件、つまり《人間の条件》を持たないということだ。
 そしてここに911の問題が拡大される。あの出来事の真の意味を理解できない限り、今後の人間の条件
はない。「神は死んだ」というニーチェの言葉を、もっと深く理解しなくてはならない。だが、悪が
わからなければ、神もわからない。 悪のない日本には、死ぬ前から神は存在していなかった。
存在しない神は死ぬこともできない。 つまり「意味」がない。意味――、 神と悪は鶏と卵だ。
ねえ、ちょっと、ほんとに・・・・
冗談じゃなく、日本史をよく勉強してごらん。 そして、その後で世界史を勉強してごらん。
そうすれば、いまなぜ日本が。これほどに惨憺たる状況にあるのか、実にハッキリ、完全に分かるんだ。
▼ 「人間の生存に不可欠な、最も重要な要素は何か。悪である。悪を身につけない限り、生きられない。 
 人間を悪から解放するものは、より強力な悪しかない。悪がないことは善か? ノー。」 これは、
ユダヤ教などの一神教の考えかただが、島国の日本人には考えられない思考法。アラブ・欧州には
悪が身近に常にあるから、考えるしかない。 現在の惨憺たる状況は、過去の歴史をみれば分かること。
 僅か30年前に隣国中国では、呆けた老人・毛沢東の方針で、2千万とか3千万人が虐殺されたので
ある。あれが悪か善かは歴史が証明するが、あの世界では、善人は悪党の片棒を担がされるか、殺される。
 現在、日本はアメリカに60年以上かけて隷属的人間に変えられた。思考が出来ない哀れな人間にで
ある。  =偶然、以下の「垂直の言葉」に思考について書いてあった。 面白い偶然である。=
・・・・・・・
3010,垂直な言葉
2009年07月02日(木)
「魂とは何か」池田晶子著    ー読書日記
 池田晶子の「魂とは何か」という本に、「垂直な言葉」というがあった。
横に流れる時間に対して、垂直の時間=永遠の時間、という言葉がある。「今という瞬間の中にこそ、
永遠がある」を宗教的、哲学的に考えていくと、感動、感激の瞬間に感じた垂直の時間の意味の一端を
理解することができた。 ところが、今度は「垂直の言葉」である。 池田晶子は判りやすい。 
いや、判ったような気にさせる、と言うほうが本当である。
 ーまずは、その部分である。  P-217 
* 考える不思議、「常識」の不思議 【対談】石川好×池田晶子
池田  当たり前のことを言われても、何を言いたいのか読み手がわからない、と受け止められて
いるのではと。
石川  それは、あなたの言葉が垂直だからですよ。
池田  以前に、おまえは右か左かと訊かれたので、私は垂直だ、と答えたことがあったけど。
石川  そうそう、その意味。日本人の中で、言葉を横でなく縦に、垂直に降りていくものと自覚的に
 使っている人は、めずらしいと思うんです。 なぜかというと、日本の風土の中に、垂直に考える
 習慣がないからね。横の社会なんですよ。歴史的にも、現在で起こっていることをみても、横のつながり、
 比較の中でしか、誰もものを言ってないでしょう。互いの巻尺を当てて、それで対象を測っている
 という仕方でね

池田  横軸でものを語るっていうのは、事実でなく、価値を語っているのです。たとえば、
 ある主義をかざす人は自分の主義を正義だという。ほかの主義をかざす人は、ほかの正義を主張する。
 だけど「正義」という言葉の意味自体を考えようとしない。彼らが語っているのは、事実ではなく、
 どこまでも自分の価値観なんです。
石川  あなたの動詞の使い方で面白いのは、「在る」という言葉だよね。「居る」ならばまだ
 比較対象となる、横軸が出てくる余地があるけれど「在る」になると それが綺麗に払拭されてしまう。
池田  「存在」を語っているのですよ。 たとえ人について語る場合でも、性格とか生活とかは捨象
 されてますから。今度の本にしても、人物批評のカタチをとっているですが、取り上げた方たちの
 私の意見は全くないのです。
池田  私は、自分が何ものでもないと思っているのです。何者でもないから、座標原点になれる
 のだと。あとはひたすら考える。その宇宙的な座標原点からは、結構色いろなものが見えてくる。
 価値を語っている人たちとは立つ位置が違うので、論争が起こることもないし、私の周りは台風の目
 みたいにいつも静かです。
石川  池田さんの文章は、徹底したリアリズムで貫かれている。日本人は、リアルとは生活のこと
 だと思っているので、その辺のことは理解しにくいのではないかと。
  ー以上だが、
「垂直な言葉」とは、言いえて妙である。「横軸でものを語るってのは事実でなく価値を語っている」
とは、思い当たる節が多くある。考え抜かれてない言葉の中で生きている我われは横軸の社会的な
価値を話しているに過ぎない。宇宙からの視点で、地球上に住む人間の知恵、そして価値を見直す
時期に来ているが、宇宙からの視点の言葉も垂直である。 
・・・・・・・
2006年07月02日(日)
1916, スペイン画家・堀越千秋ー7      才八∋ウ_〆(∀`●)
 スペイン七千夜一夜  集英社文庫  ー読書日記
スペインといえば、やはり闘牛である。何回か闘牛について書いてきたが、堀越氏の闘牛の見方が
独特の視点である。「俺と一緒にするな!」という著者の声が聞こえそうだが!一回目は衝撃的だったが
二回目に見たときは、観衆と一緒に興奮して、面白いと思えるようになった。早くいえば、寄って
たかって一頭の牛を殺すのを楽しむショーである。が、慣れてくると、それが恐ろしいことに、面白く
なるのだ。現在は、闘牛士と戦う前に、槍で刺して弱らせる。そうしないと殺される確率が高くなるからだ。
初め観たときに誰もが思う「卑怯ではないか!」と。しかし、ここはスペイン!それが現地の文化?の
一つなら一緒に楽しむこと、と決め込み、何度か自分の良心に言い聞かせて・・ 
まずは、その一部を抜粋してみた。
 ー
スペイン名物、闘牛とは、そもそもそんな主客転倒の様式化といってよい。牛は、平和な原野の
牧場からある日突然連れさられる。暗闇に閉じ込められて、いきなりドアが開くとまぶしい闘牛場だ。
怒ってやみ雲にも角を振り回しているうちに、あちこち槍だの銛だのに突き刺されて、最後に長剣を
刺されて死ぬ。何が何だかわからない。 一方、客の方は、やれあの牛は闘士がない、いや勇敢だ、
角を左に回す癖があってよくない。いや口を結んだままで強い、右足がゆわい、いやダメな牛だ、
いや素晴らしい牛だ、これこそ牛の中の牛だ、等々、勝手なことを言う。そして血の泡吹いて息絶えた
牛が、4頭のラバに引かれて退場をするところを、拍手をしたり、口笛をふいて避難したりする。
人間どもの勝手もいいところだ。牛の都合など一切、考えない。人間の都合と審美観のみを一方的に
牛に押し付ける。元々人間対動物の関係は、そういった一方的なものだが。牛の都合は、実は、無視
されているのではない。スペインの人間によって、主客転倒や主客合一の甘露をかけられて、つまり
人間にとって良い牛は、恐ろしい野生の黒牛でもないし、敵でもない。美しい、雄雄しい、勇気ある、
気高い「自分」なのである。強い牛は自分の美点の反映なのである。勿論こっちの自分は、牛が
いくら刺されても痛くもかゆくもない。牛の中に一瞬、自分の美しい反映を認めただけなのだから、
牛がばたりと死んでしまえば、あーあと葉巻をくわえて背伸びするだけだ。こういう便利で自分勝手で、
自由にあっちへ行ったりこっちへ来たり、一瞬のうちに都合の良いほうへ乗り移る「自分」というもの
を日常的に心の中に飼っておかないと、闘牛という、不思議な審美観によって支えられる「芸術」
を理解したり、まして愛したりなど、到底できない。
    ーーー
 スペイン人と日本人は違うのです!!  
ー以前の闘牛について書いた文章ですー
2002/09/07 パンプローナ牛追い祭り
 (字数の関係でカット弐千八年七月弐日)  
・・・・・・・・
2005年07月02日(土)
1551, わたしの酒中日記 ー 番外
わたしの酒中日記を書き出して驚くほど昔の記憶が戻ってきている。居酒屋やスナックのこと
から記憶と背景をたどっていくと、芋づる式に記憶が次から次へと出てくる。その記憶をたどると、
その時々に精一杯生きていた姿に驚かされる。真面目?に不器用に生きていた当時の自分の姿が、
輝いて思えてくる。今まで後ろを振り返らないことをモットーにしてきたせいか、最近になって
振り返ると、その瞬間瞬間の記憶が生々しく新鮮に感じる。その時々の心のひだがドンドン思い
出されてくる。しかし書けないことは幾らでもある。 その辺がプロと素人の書き手の違いである。
本当のことは作家以外、そうは書けるものではない。読み返してみると、若さ特有の自意識過剰が
そのまま見てとれる。それが若さなのであろうが。昔のことを書くのは気持ちが重いが、好きな
酒を飲んだ思い出なら気楽に書ける。その切り口からのTPOSの背景を書き出すのも面白い。
誰もがフラッシュ的な記憶の断片が脳裏に浮かぶ。
(字数制限のためカット2,011年7月2日)
 ・・・・・・
2004年07月02日(金)
1186, 異境・秘境ツアーレッスンー5
 ー感動は蓄積される
何故、異境・秘境に行くのかというと、想像を絶する素晴らしい世界がそこにあるからである。
そして大自然や遺跡の異質の世界に、直接触れて感動するからだ。実際体験して解ったことは、
歓喜と激しい感動は、ほぼ同じではないかということだ。旅行のたびに期待していた数倍の感動と
歓喜?がそこに待っていた。とくに大自然の中の壮大な美しさや神秘性から受ける感動は何にも
変えがたい。その感動を得る為に、いそいそと飽きずに家内と一緒に出かけていく。感動の蓄積が
磁力になり、更により大きな感動を引き寄せる。そして感動は確実に自分の中にドンドン蓄積
されて醸造される。れて、その時の蓄積された感動の波動が開放される。毎日晩酌で、ほぼ
そのブロックが開放されハイに瞬間なってしまう。幼児期から青年期にかけて可能な限り、
親は子供に芸術(音楽会や一流の絵)や自然を見せて感動のシャワーを浴びせてあげなさいという。
その量×質が、その人の人生を決めるという。感謝・感激・感動は、その人の潜在能力のベースに
なるからだ。今からでも遅くはないから、可能な限り一流なものを見て、触れて感激・感動を意識的
にしていかなくては!いまさら遅いか?豊かな人生とは、感謝・感激・感動の豊かな人生をいう。
・・・・・・・・
2003年07月02日(水)
 819, 恵まれていた時代に生きて
50歳の時に、「自分の人生を振り返って実感をいってみろ!」と自問自答した。直感的の出た言葉が
「恵まれていた!」「面白かった」「悔いはない」である。特に思ったのは「恵まれていた」である。
第二次世界大戦直後の1946年の一月に日本に生まれたことが全てといってよい。
 ー冷戦下における日本という環境において、アメリカが中国・ソ連北朝鮮など共産圏に
 対する前線基地と位置づけて、 日本に最優遇待遇を与えてくれていた。
新潟県という全国でも最も豊かな自然を背景にした環境も良かった。
・両親も含めて家庭にも恵まれていた。 多くの兄姉にも恵まれていた。
・ちょうど青春時代が高度成長期にあたり、時代の波に乗ることができた。国に若さと希望があった。
歴史的にみても、20世紀は(特に後半)は、日本にとって黄金の時代といわれるだろ。
この時代を背景として事業チャンスもいくらでもあった。また時代の変化も激しいのが特徴であった。
(字数制限のためカット2,011年7月2日)
・・・・・・・・・・
2002年07月02日(火)
 455,地球をサッカーボールに喩え
今回のワールドサッカーを新聞はどう捉えているか、毎日新聞の社説がダントツよかった
「・19世紀のナショナリズム、 ・20世紀の資本主義、 ・21世紀のグローバリズム化。
この3つが今の世界を動かす理念だとすれば、地球がサッカーボールに凝縮して私たちの前に現れた。
私達は本物のサッカーの興奮を始めて知った。欧州と南米で4年ごとに繰りかえされる祭りに加わった。
スポーツが野球などアメリカの影響下にあった日本、アメリカの影響から逃れたい無意識の願望に
後押しされて、アメリカが作らなかった国際標準を初めて選んだ」この鋭い分析に納得した。
「サッカーボールを地球に喩える」とは、書くプロはさすがに違うと感心した。
・延べ500億の人が見たと予測されているという。大きいビジネスでもある。
・「90分ナショナリズム」という言葉も新鮮だった。
朝日新聞に出ていた川柳もよい「球ひとつ生命あるようなゴール決め」
・選手の過半数が何処かの国のプロサッカー  多国籍の選手ーグローバルの時代
  印象的キーワードを並べてみる
・地球最大の運動会 ・国家の威信をかけた模試ー代理戦争 ・壮大な民族展示会
・・・・・・・・・・・
2001年07月02日(月)
[71] 夢についてー3
夢は犬や猿など他の動物も見るという。子供の時母や姉が実際幽霊を見たとかの体験談をきいて、
いい年をしていいかげんな事と、気持ちの中で全く受け付けなかた。ところが経験を積むにした
がって何か常識で考えられない何かが存在している事を確信してきた。特に‘夢’とか
‘遇然の一致’そして‘死’‘自然現象’に何か人知を超えた存在を感ずるようになった
。 
  ー以前の文のコピーをまたしておきますー  H05 11 記   妙な夢
 秋葉原ワシントンホテルに泊まった時の事、夜半何かのケハイに横を見ると女の人の顔が
浮いている。夢だろうと腕をつねったが痛い、これは面白いと、メガネをかけじっくりとみた。 
全体が白光色の黒髪の27~28才位の、のっぺらした美人であった。別に恐ろしいという事も
なかったが顔ははっきりと憶えている。ところが何年か後に会社のある人にその話をしたところ、
‘それって皆同じ顔しているんだよね’言われた時た時、はじめてゾーッとした。
 またこんな夢もある。
夜半目がさめて寝むれないので、般若心経をとなえてウトウトした頃、急に別空間にひきずり
こまれそうな感覚になり、まずいと中断した。 あの別空間は“別宇宙”“ブラックホール
的イメージであった。その前後の夜半に夢で宇宙船みたいなものが近くおり、乗れという、
これも乗ったら危険と直観し去けた夢である。あれに乗ったらどんな景色がみえたのだろうか?
単なる夢とかたずけられない妙な内容であった。