* モンゴル人対、日本チビッコ相撲
 初場所ジョージア出身・栃ノ心の幕内優勝で終わった。14勝1敗である。
前評判は良かったが、誰も、この力士の優勝を予測する者はいなかった。
 いつもは前日までに下書きをしたのを書き加えたり、修正をするが、今回は
ライブの談義になる。 さて御立ち会い!
≪ 熊さん: いや大家さん、八つぁんの講釈を聞いて御蔭で面白かったよ。
 大家さん: そりゃそうだ。まず白鵬の『横綱アドバンティジ』が場所前から
   問題になって封じられたため勝てなくなったな。左張り手と同時に右腕
   の肘打ち。スプレーでガチガチに固めてあるキワモノ。上位の横綱は使え
   ても下位の者は、無礼になる。貴乃岩の暴行事件は、これに従わない
   貴乃岩に対するモンゴル力士の八百長仲間への勧誘で偶発的に起こった
   事件。偶発とはいえ、白鵬主導だったのは、状況からしてあきらか。
 八つぁん: モンゴル対日本人の、対決そのものとみると、これほど面白い
   場所はなかったね。結果は、相討ちで、その間隙をぬって東欧人力士が
   優勝をさらってしまった。鳶にアブラゲというところ。
 寅: フロックだべ! フロック。純朴だから、直に阿波踊りを始めるよ。
   それだけ、夜の巷は誘惑が強いからね。まず、4年前に幕下まで陥落した
   古傷を稽古場で、さりげなく集中的に狙われるね。特に、モンゴルにね。
 熊さん: 稀勢の里は、もう駄目なのは間違いないが、白鵬は?
 八つぁん: 次の場所は必死に頑張るが、年内は無理だろうね。その前に、
   貴乃花親方からの刑事告訴もあるかもしれない。
 寅さん: 鶴竜、4場所も休んだあとの、11勝は合格じゃなの。
   他の2人の横綱の御蔭で、助かった部分があるがね。
 大家さん: 鶴竜、どうだろう? 白鵬稀勢の里、なき後の繋ぎとして
   あと二年は頑張らないと。高安と、逸ノ城辺りが出てこないとね。
 八つぁん: 白鵬を頂点にしたモンゴル人支配の構図は、ほぼ崩壊したね。
 大家: まだ判断するのは早いよ。肉食系は、草食系とは違うよ。
   骨格と筋肉の質が草食系とは違うからね。旭天鵬をみれば分かるだろう。
 熊さん: 栃ノ心の活躍に刺激を受けて、大人しかった東欧系力士などに
   火がつくんじゃないの? 
 寅さん: 先場所、今場所、高校相撲上がりの4人が入門してきたね。
   早速、先場所入門した二人が、序の口の優勝決定戦に出てきたね。
   来場所は大鵬の孫と、朝青龍の甥っ子がデビューするしね。
 大家さん: この4人は強くなるよ。怪我さえなければね。
 八つぁん: 今場所を総括すると、個々の相撲内容が真剣なのが多くて合格。
   最近、相撲そのものと同時に、砂被りの服装とか、表情見物が面白いの。
   それに地域性があってさ。
 大家さん: あの辺に居るのは選ばれしもの達だもの。それなりの金額と。
   長年の因縁が無いと、座れませんよ。
 八つぁん: カメラ目線の要所に、洋装、和装の綺麗どこや有名人が目立つね。
   当然、相撲協会も広告代理店を使って、国内外向けに、彩を考えているよ。
   以前だったら、目立たないのが、今では大型TVで鮮明だからね。≫
 ―
▼ というわけで、相撲の神様が存在をしていたら。こう結論するのでは?
 < あくまで、相撲は興行の世界。しかし私(神)に供える儀式。儀式で
  悪いのが、格式だち過ぎること。それと白鵬の様に逆上せあがっちゃ
 いけません。品よく、明るく、楽しませてくれれば、充分。その点、
充分に合格ですよ。貴乃花親方、良いじゃございませんか、純朴で。
長い目で見て下さい。今回の事件も、彼の御蔭で浄化をしたじゃないですか。>
 まあ… 暇人の独り言。
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5068,あわいの力 ー?
2015年01月29日(木)
        ーあわいの力 「心の時代」の次を生きるー安田登(著)
   * 「道具」を持たないワキ 〜身体が道具
 身体そのものが「道具」というワキの存在が面白い。
これは何もワキに限ったことではなく、すべての人間に当てはまること。
アスリートは、肉体が道具!、いかに勝利につながる道具に身体をつくり
上げていくのが勤め。 人生を演劇に喩えると、役割が道具になる。
その役割としての道具には道が備わっている。 ーその辺りから抜粋ー
≪・「お道具」ということばですが、能の世界では鼓や笛を楽器といわずに
 「お道具」といいます。「道具」というのは「道が具わっている」から
 「道具」だといわれることがあります。語源としては間違っていますが、
 しかし「お道具」の性格をよくあらわしています。お道具は、それ自体で既に
 道が具わっている。しかし、それを演奏する自分の道が具わっていなければ、
 いい音が出ない。何年もの修行によって自分の道が具わったときに、はじめて
 「お道具」が本来の輝きを発し始める。つまり、シテ方や笛方、鼓方は、
 「道具」を通じて能楽師としての道を歩んでいくことができる。
 しかし、道具を持たないワキ方は、それができない。
・こんなふうにして、ある程度自分の音を鳴らせるようになると、
 その人の弟子にまた笛を譲り渡し、その弟子が何十年もかけて自分の音を
 十分に鳴らせるようになると、また次の弟子に笛を受け継いでいきます。
 そうやって、数百年にもわたって、「道具」を次につないでいくわけですが、
 ワキはそのための「道具」が何もないじゃないか。そう、シテ方や笛方、
 鼓方の人たちは言うのです。 が、じつはワキ方にも「道具」はあります。
 それは、自分の身体です。自分の身体と「道具」として向き合い、いかに
 つきあっていくか、というのがワキとしての道の歩み方です。さらにいうと、
 このことは何もワキにかぎったことではなく、すべての人間にとって当て
 はまること。どんな人間も、身体を持たずして生きることはできませんから。
・能の笛というのは、わざと音が出づらいようにつくられているんじゃないか
 と思うような購造になっています。しかし、だからこそ、稽古を積み重ねた
 結果いい音が鳴るようになります。同じことは身体という「道具」にも当て
 はまります。つまり、身体が完全でないからこそ、ワキとしての道、
 人としての道を歩んでいけるということです。・・ ≫
▼ 現代の「お道具」といえば、パソコン(スマートフォンを含む)とネット。
 今ではウェアラブルPCという道具と身体が一体化したものが出始めた。
その道とは、アプリであり、予め完成されている。その意味からして、「お能
の世界は時代の流れの真逆。だからこそ、そこに、「あわい」の必要性が出る。
文化度が高いフランスのレジャーで、長期休暇は、リゾート地で長閑に、
時間を過ごすこと。ただ、ただボーッとするのが贅沢という。で、痴呆症が
多いというが、それも「あわい」であろう。ただヒタスラ心も身体も休める。
それが御隠居の仕事である。それには、その暇を楽しめる知識と余裕が必要。
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4336, 自己とつきあうということ −4
2013年01月29日(火)
  「自己の探究―自己とつきあうということ」和田 渡 (著)
 ギリシャ哲学の初めのころから、己について考えていた哲学者がいた。
この文明の世でも、「自分」について考えようとしない人が多い中、
2500年前に、このやっかいな自分について考えていた。
そのギリシャは、現在、国家危機の崖っぷち。
 * 古代の人間たちと自己の問題(ヘラクレイトスの驚きと戒め)
≪ 自己を問う試みは、ソクラテス以前の哲学者たちによってなされている。
 なかでも、その試みを自覚的に遂行したと考えられる人物の一人は、初期
ギリシアの哲学者ヘラクレイトス(前五〇〇頃)である。彼が残したとされる、
「わたしはわたし自身を探究した」(断片一〇一)という言葉の背後には、
探究の視線を外部の自然から自己自身へと移し、自己の内に広大な探究の
次元を見いだしたヘラクレイトスの、自己への驚きが見てとれる。
彼にとって、自己は問われるべきものとなった。彼は次のようにも述べた。
「自己を認識すること、健全な思慮を持つことは、万人に許されている」。
(断片二六) その短い言葉を通じて、われわれが自己への関心、配慮を
ばねにして自己への探究を開始する存在であることが端的に示されている。
しかし、それを裏返せば、われわれは通常、自己を問題として受けとめる
ことは少ないし、思慮を健全に保つことからも遠い存在だ、ということである。
よきことを考えて生きることよりも欲情にかられよからぬ方向へひっぱられて
いきやすいのが人間である。それゆえ、彼は自戒の言葉を口にしている。
「欲情と戦うのは困難である。なぜなら、それを欲する者を魂[命]をかけて
購うから。放漫を消すことは火災を消す以上に急務である」(断片四三)
ヘラクレスは、人間がしばしば欲情の虜になり、とりかえしのつかぬことをしで
かしたり、放漫、不遜になって、他人に不快感を与える存在であることを見抜いた。
人間は思わぬ仕方で壊れやすく、健全を失いやすいがゆえに、それに抗するため
にも、よく認識し、思慮を健全なものに保つようにしなければならないと考えた
ようにみえる。彼が認識したことは、自己を壊すものから、自己を防御し、
自己をよく整えるための自己認識であった。・・・≫
▼ 古代に、「わたしはわたし自身を探求した」とは、驚き。
 その頃から現在に至るまで、その問いが繰り返されてきた。まずは、他者と私、
そして、自己対話をする内なる私と、分裂した私。それより、今過ぎ去った
ばかりの己と、現在の己。 欲望に支配されている私と、それを見ている私。
ギリシャ哲学を知るにつけて、人間は二千五百年も考え続けてきたわりに、
殆ど進歩していないというより、後退しているとも思える。いや、西洋的進歩
という言葉自体が疑問である。それが構造主義につながっている。大きな節目
には、それまでの自己が壊される。その中で、破壊されてはならない核心は
守らなければならない。そのために、この随想日記で、「節目どきに」
「自己をみつめる」「自分の居場所のみつけ方」とかをテーマに、していた。
このテーマも、その一連だが、哲学の具体的入り口は、「自分」と「死」と
「神」と「自然」についてである。「私の事業」が崩壊して、残ったのは
「自分」である。それも傷物としての自分。しかし、核心まで傷ついた訳でなし、
問題は自己認識だが、どうもこうも、考えるほど、滑稽な行蔵しか残ってない。
これも気づくかどうかの問題だが・・「欲する者を魂[命]をかけて購う」、
その自分も、それぞれの他己から、自分の核心を守ることは至難の技になる。
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4703,閑話小題 ー若年女性の貧困問題
2014年01月29日(水)
  * 若年女性”の貧困問題
 一昨夜のNHKTVの「クローズアップ現代」で「あしたが見えない〜深刻化する
“若年女性”の貧困〜」を放送していた。隠れた恐慌は、ジワジワと社会的弱者
より影響を与えてきた。成るほど、社会の仕組みは、強者のために作られている
のを日々、実感する。  (まずは、NHKのHPの番組趣旨より)
《 貧困状態に苦しむ若い女性が増えている。親の生活苦の影響を受け、
 早朝と夜間のバイトを掛け持ちしながら家計を支える10代の女性。困窮を
抜け出そうと苦学して専門学校に通ったものの、正社員になれない20代の女性。
中でも、先の見えない生活を強いられているのが若くして子どもを産んだ
シングルマザー。国の成長戦略で「女性が輝く」ことがうたわれる中、深刻化
していく若い女性の貧困。 現場のルポから現代社会の新たな課題を浮き彫り
にしていく。  ーあるプレビュー    \(;$д$@)\ カ.金-\\\   
 働く女性は全国で2770万人いるうち、不安定な非正規雇用で働く女性の割合は、
57.5%と男性の2倍以上。そして、単身女性の3分の1が、年収114万円未満と
いわれており、深刻化しているのが、10代、20代の若年女性の貧困です。
朝から晩まで、アルバイトをいくつも掛け持ちする若い女性たち。
コンビニやファミレス、スナックなど、いずれも時給650円前後の仕事です。
別の女性は、周囲の男性も非正規で働く人が多く、結婚して出産することは
考えられないという。 さらに深刻な状況に陥っているのが、10代20代の
シングルマザー。20代のシングルマザーのうち、およそ80%が年収114万円
未満の貧困状態に置かれているといいます。そんな中で、VTRで紹介されていた
風俗店の話が衝撃的でした。風俗店で働く女性の中には、店側が提供する
住まいや託児所などに惹かれて、やむなく風俗店で働くケースが多いという。
公的なセーフティネットではなく、風俗店が提供する住居や託児所に頼る
というのは、皮肉な現実と言わざるを得ません。
▼ ゴールデンタイムや、NHKのモーニングショーで、生活のため主婦が
 やむを得ず風俗で働いている実態を放映するまで、困窮者の数が増えている。
実際、新潟駅前で30年近くの事業で、風俗嬢の長期宿泊などから、その実態を
垣間見てきた。 地元??が営業する風俗店で、泣き叫ぶ赤ちゃんを客室に
置いて働く姿は、阿修羅そのもの。見て見ぬふりしか手立てはない。
 それにしても単身女子の3分の1が10万以下というから、深刻。 20年前に
「3つ掛け持ちのパートで、子供三人を育てている人がいる」という話を
聞いて、驚いたが、今では話題にすらならない! 静かな恐慌が、現象として
現れてきている。「うどん一つを親子で、つゆを多めにして食べること、
しばしば」には・・ あと数年後は、更に深刻になるという!
・・・・・・
5798,エドテック 〜技術革新で教育を変える
2017年01月29日(日)
 NHKTVで、<テクノロジーが教育を変える 世界の『エドテック』最前線>
を放送していたが、何かしら不思議な感覚に捉われてしまった。現実社会とは
別にネット社会が世界を覆ってしまった現在、当然、情報機器とネットを駆使
した教育環境も比例して進化して然るべきである。ネット社会は、教育の根本
変革が求められて当然のこと。  〜番組HPの紹介には…
【世界をリードしてきたITの一流企業や大物たちが、熱い視線を注ぐ
 新たな分野。それは…。
ビル・ゲイツ氏 は、「技術革命で教育を進化させる。」と。
今、最先端の技術を教育の現場に活用する動き「エドテック」が、アメリカや
ヨーロッパなど世界で注目されているのです。バーチャルリアリティーや人工
知能の利用が進む中、教育現場にも大きな変化が起きようとしています。
テクノロジーで教育に革命を起こす「エドテック」。その最前線に迫ります。
佐藤 「『エドテック』という言葉。“初めて耳にする”という方も多いかも
 しれません。この言葉は“エデュケーション=教育”と“テクノロジー=技術”
 を組み合わせた造語です。」
田中 「インターネットやデジタル機器が職場や家庭のあらゆる場面に浸透
 する中、教育にもテクノロジーの波が押し寄せています。」
佐藤 「こちら、ロンドンで始まった世界最大のエドテックの展示会です。
100か国以上の教育関係者と、900以上の企業が参加しています。
 紹介されたのはバーチャルリアリティーなど、さまざまな装置を使った教材。
 会場には学校の先生や子どもたちも訪れ、熱い視線を送っていました。
 エドテック市場は、来年には、世界で6兆円規模になるとも言われています。」
参加企業の担当者: 「エドテックは、大きなビジネスチャンスです。」
田中 「さて、このエドテック。 教育現場でどのように活用され、何が変わり
 始めているのか。 急速に導入が進んでいるアメリカを取材しました。」
  :教育が変わる!“エドテック”最前線リポート:藤田享子記者(国際部)】
――
▼ 情報端末の進化には驚かされる。TV一つとっても、4k、8k画像のTVに、
 ネットなどの多機能が付いた、アンドロイドTVである。白黒とカラーTVの段差
より遥かに大きな革新を始めている。大型家電店の担当が、「これは異次元のTV」
というのも大げさでもない世界に誘う。情報端末の進化と同時に、エドテック
が世界を変えている。ここにも教育格差の問題が出るとしても、現実は現実。
幼児の頃からタブレットPCを玩具かわりに与えられ、バーチャル世界で、多くの
経験をする時代である。これは子供たちの教育素材だけでなく、全ての世代にも、
その一端を利用して、多くの知識を得ることが可能になる。 21世紀の入口
の風景の一つとすると、成るほど、これかと納得する。毎日が刺激的である。
・・・・・・
5432,人生で最も大切な技術 ー? エゴのベール
2016年01月29日(金)
       『幸福の探求―人生で最も大切な技術』マチウ リカール著
   *エゴのベール  〜投影という防御機能
 これからすると世間は、「精神の錯乱を錯乱と気づいていない、ごく普通の
人たち」になるが、問題は自覚しているかどうか。誰もが、それぞれ屈折した
レンズの眼鏡をかけ、それを現実と勘違いをし、一生、気づくことなく終える
ことになる。そこで瞑想を身につけるべきと、いう。要するに、世の中の殆ど
が、実は精神の錯乱者? と、すると、私だけでは、ないのか(笑)。
 錯乱はエゴのベールが、原因。 〜その辺りから〜
≪ 精神の錯乱とは、現実の姿を正しく見ることを妨げ、事物の本質に対する
 理解を曇らせるベール、と表現できるだろう。具体的には、幸福を見つけ
だして、苦しみを避けるにはどう行動すべきか、という判断のできない状態。
外界に目を向けるとき、本来備わっている特性など不在であるにもかかわらず、
自分が目にする世界には確固たる実体が備わっているというふうに見てしまう。
また、内側に目を向けるとき、もう存在していない過去、そして未だ存在して
いない未来の間に「私」を存在させて、意識の流れをそこに凍結してしまう。
 事物を見るとき、目に見える表面の姿を実体として信じ込み、滅多に疑う
ことをしない。また、人や物を見るとき、「これは美しい」とか「これは醜い」
と考えるが、それらの人や物に自分が感知したままの特性を焼き付けている
だけであることには気がつかない。
 そして「美しい」や「醜い」が人と物の根源的な特性ででもあるかのように、
自動的に当てはめてしまう。人間はまた、世界全体を「好ましい」と
「好ましくない」とに区別して見たがる。しかも、短命で儚い存在を永続
する存在と受け取ったり、世の中が実際には常に変化し続け、相互依存の
関係で成り立っているのに、どこにも無関係に独立した固有の性質がある、
というふうに見たがる。また、事象、状況あるいは人間の特定の側面だけを
取りだして、その面の性質に焦点を合わせて、「敵」「善入」「悪人」などの
レッテルを貼りつけ、これらを本来の属性と勘違いしてそれにとらわれてしまう。
そうせずに、現実の姿を注意深く観察するなら、物事がそれほど単純なもので
ない、ということが明らかになるだろう。
 仮に、自分の目に入る対象が真に美しいか快適で、そうした価値が純粋に
その対象に属しているなら、その対象はいつどこでも望ましいものであるはず
だろう。とはいえ、誰も異議を唱えずに、「美しい」と普遍的に認められる
ものがこの地球上に存在するだろうか。 仏教詩の中に次の一節がある。
「美女とは、恋人にとっては欲望の対象、修行者にとっては乱心の元、
狼にとっては格好の獲物」。 同様のことが嫌悪についても言える。
対象が本質的に嫌悪すべきものなら、もっともらしい理屈をつけて、誰もが
それを避けるだろう。だが、物や人間にそうした性質や特性を単純に当て
はめているに過ぎない、ということに気がつけば、すべてが変わってくる。
 すべての美しい対象が、元々精神的に有益な価値が備わっているか、
というとそうではない。逆に、醜い対象物だからといって、それが精神を
阻害する性質が根本的に備わっているというものでもない。
 同じく、今現在、自分にとって敵である相手でも、他の誰かにとっては
愛の対象である可能性は十分にある。今日の敵と、ある日、友情の絆を結ぶ
日が来るかもしれない。自分が勝手に対象に貼り付けた特性が、対象とは
切っても切れない属性であるかのように反応する。かくして、現実の姿から
自らを遠ざけ、自分の心の状態を他者や物に映しだす、投影という防衛機能を
容赦なく活動させながら、目に入る対象に対して、これは魅力あるとか、
これは嫌悪すべき、と感じつつけるのである。 ≫
▼ 世間、社会のありようを、そのまま描写した内容である。これからして、
 あまり世間原理主義教徒を、とやかく言うべきでない。要するに誰もかも
が無知なだけ。問題は、その無知を自覚できるかどうか?家庭内で、それが
露出するため、親子、夫婦間で鬱憤が蓄積される。で、欧米では一神教
発明され、絶対神の名のもとに、何とか破壊を防いでいる。 誰もかもが、
精神錯乱者と思えば、それも自分が最たる者と自覚すれば、許し許される?
 内観を怠らず、瞑想と、分析を日常に取り入れるべし!ということか。