* 幸・不幸の実相
 10年位までは、青少年向きのテーマとして、その話題は一般的に避けられて
いた、幸福論、不幸論が表舞台に出てきた。世界的に政治・経済の停滞が、
起因している。 同じ人生で、これほど違うかと思うほど、孝・不幸の差がある。
よくみると、その差は親の愛情と、教養の差にあるようだ。
 人生の甘味、辛さも一通り味わったつもりだが、孝・不幸は、自己責任と、
痛感する。要するに、幸・不幸は起こってしまった現実の解釈と、受容の人生
への姿勢にある。それは長年かけた心のベースから派生する。それが稀弱な人は、
目先に動転、その責任を外に求めてしまう。自分の足で、地べたを踏み込むことが、
出来ないため、同類合い哀れむ群れで屯するしかない。こういうのを蓄群というが、
群れることで、己の思考を放棄するため、 何が問題かを知ることができない。
そして「残念な人生」をおくる。その自覚さえないから、それは「残念な人生」
ではないのだろう。 という論も、羊の群れを馬鹿にする山羊? でしかないが。
――
   * オリンピックも終わって
 リオのオリンピックが、先日、終了した。 メダルの数からして、今回の
オリンピックは、丁度良い塩梅の数。何はともあれ、テロが起きなかっただけ
でも、良かった。 次は2020年の「東京オリンピック」に向けて動き出す。
 目安は金メダルが25個辺りか。オリンピック委員会も、開催国に金をもたらす
追加種目を宛がうのは周知のこと。 4年後は、世界はテロや戦争で、混乱が
激しくなっているはず。 テロの効率からみて、ISに狙われて不思議でない。
 私の寿命は、その辺りと設定しているので、健康状態で迎えられるかどうか。
冬季(12月〜3月)を除いて一日、3時間は運動をしているが、問題は酒量。

・・・・・・
5277,「うさぎちゃん」が、心肺停止になって考えたこと! ー①
2015年08月26日(水)
       ーその時、言葉は私の「神」となる (新潮45/6月号)
               〜心肺停止になって考えたこと! 
   * 人生の価値とは何か
 生死の境目で、彼女(中村うさぎ)は大きく変わった?
『何を成し遂げたかでなく、如何に生きたか』というが、実は人生は、
『何を成し遂げようとして如何に生きたか』である。ただノンベンダラリ
という生き方も、あるとしても。同じ人生なら、何かを目指し、問題解決を
し尽くし、燃焼した生きかたを私は選ぶ。女無頼派作家が心肺停止で見えた
ことは・・ 挫折、問題こそ価値の源ということ。 〜その辺りから〜
≪ 我々はそれぞれが自分なりの方法で己を表現しながら生きている。
 そもそも「生きる」こと自体が表現なのである。どう生きたかを見れば、
その人物の価値観や世界観がわかる。生きていく過程でどんな選択をしたか、
何を大切にし、何を捨てたか。その選択や行為によって形作られていく人生
こそが、その人の作品なのだ。
むろん、本人が作りたいと望んだ作品と出来上った作品は、似ても似つかぬ
ものになっていることもあるだろう。さまざまな要因によって人生はその形を
変え、思いも寄らない方向に転がっていったりするからだ。
それゆえ多くの者は、人生の後半において「こんなはずじゃなかった」と
臍を噛む想いに打ちのめされる。だが、それでもその人生は、「私の作品」だ。
不可抗力的な外的要因で捻じ曲げられても、そこで我々が下した判断や選択は、
まぎれもなく我々自身のものだからだ。ままならないことも含めて、「人生」
である。そして、その「人生」は、よくも悪くも、我々自身を見事に反映して
いるのだ。 私の人生は、私そのものである。
 このように考えると、「いかに生きるか」という問題が我々にとってどれだけ
重要であるか気づかされる。組織内や世間の評価を得ることに血道をあげようが、
世間に背を向けて自分だけの世界を作り上げようが、それは各人の自由であるが、
その目標のためにどんなことをしたのか、己の中のどの欲望を優先したのか、
その欲望を自分自身がどこまで明確に把握していたのか、そこが問われることに
なるのだと思う。 己の人生を「いかに生きるか」に、我々は責任を取らねば
ならないのだ。・・(略) どんな人生であろうとその人にとってはかけがえ
のないものであるし、何の業績も残さずとも本人か精一杯生きれぱ、そこに必ず
価値が生ずる。問題はその人が何も考えずにだらだらと生きたか、己や他者や
いろいろなものと格闘しながら悩み苦しみ葛藤を繰り返して生きてきたか、だ。
たとえ挫折や失敗ばかりの人生であったとしても、その挫折や失敗は絶対に
無駄ではないのだ。そう、そこには必ず意味も価値もある。
「何を為し遂げたか」という結果ばかりに目を奪われて「どう生きたか」という
過程を見落とすと、この世の多くの人の人生は無価値という結論になる。
何事かを為し得る人間など、ほんのひと握りだからだ。そのような価値観で生き
ていたら、「結果を出さなきゃ自分には価値がない」という強迫観念の虜となり、
己の人生を正当に評価できなくなるのではないか。若い人の悩みを聞いていると、
多くがこの強迫観念に取り葱かれていて、「何者かにならなくちゃ」
「何事かを為さなくちゃ」と焦っている。まあ、若いうちはそういう悩むのも
ひとつの過程と思うが、彼ら彼女らにいずれは気づいて欲しい。
何者にもなれない人生、何事も為し遂げられない人生にだって価値はある、と。
人生は結果ではなく、そうやって答を探して長い長い旅をする、あなたのその
足取りこそが貴重なのであり、その過程の積み重ねがあなたにしか生きられない
この世で唯一無二の人生を形作っていくのだ、と。≫
▼『ご覧のとおり、そのまま、結構!』を、4年前の事業断念時に自分自身に
 対して言い聞かせていた。バブル崩壊が、どれだけ大きな経済敗戦だったかを
見抜けなかったことが、ある。 盤石と信じていた事業が根こそぎ崩壊するのも、
一瞬の出来事。更に同時進行の情報革命も、大きな要素に加わる。
これに9・11テロ、リーマンショック、3・15大地震なら、仕方ない。
面白かったから、まあいい、と思えるのは、何とか避難が出来たから。
『総括として、面白かった!』という実感は、何ものにも代えがたい。
・・・・・・
4912,世界の美しいさを一つでも多く見つけたい ー4
2014年08月26日(火)
   * 現場の壮絶! 
 内容は 題名とは程遠く、映画や小説でさえ描写できない現実の凄みがある。
デジタル機器の進化で、生首を刎ねる写真や映像などがネットで流される。
臨検など今では無理。それにしても、このルポは、凄惨で、これが現実である。 
 ーその辺りからー
≪ 話を聞いてわかったのは、LRAの兵士たちのあまりに残忍な行動でした。
 彼らはまず戦力を増やすために村を襲い、食糧や金品を略奪します。
そして村人の中から子供を選び出し、彼らに銃を突きつけて自分の親や兄弟を
殺害させる。「この場で親の首を切れ。そうしなければ、おまえを殺すぞ」
そう脅して無理やりやらせるのです。家族を殺した子供は、村で生きていく
ことができません。兵士はそんな子供たちを連れ去り、部隊の兵士にする。
家族を殺させるのは、子供を村と決別させ、殺人マシーンにするべき通過儀礼
のようなものなのです。子供たちは部隊に入った後、全員が従順に兵士として
生きるわけでありません。途中で逃げ出したり、命令に従わなかったりする
こともあります。そんな時、ゲリラ兵は見せしめのために裏切った子供たちの
鼻や耳、それに唇を切り取ったりします。人間には見えないような容貌にする
ことで恐怖心を植え付けるのです。おそらくこうした事実だけ見れば、私は
LRAのゲリラ兵を「鬼南のような兵士」として描き、彼らにつかまって兵に
させられた子たちを「悲劇の被害者」として描いたはずです。でも、さらに
調べていくにつれ、違う側面があることもわかってきました。
LRAの子供兵の中には、誘拐されて兵士になった子以外に、自分の意思で自ら
兵士になった子もいるのです。貧しい農村で一生暮らすことが嫌になり、銃を
持って略奪をして暮らしをしたいと思っている子供、銃で人を殺して出世する
ことがカッコイイと思って参加する子、もともと反社会的な人格を持っていて、
それがエスカレートして、兵士になることを望んだ子供がいるのです。・・≫
▼ これに匹敵する残虐行為に、ドイツのナチと、カンボジアポルポト
 よる数百万単位の大量殺戮がある。北朝鮮も一歩内部に入れば、このような
弾圧が現在進行で行われている。中国文化大革命では1千万〜5千万人が虐殺
されたが、詳細は隠されている。25年前に桂林に行った時の現地添乗員が
文化大革命時には、この辺りは死体の山だった。それが全国の各村で同じ
ように・・・』と、何気なく話すのを聞き耳を疑った。当時は、日本国内では
タブーで、現地であればこそ聞けた話。 島国で、海で外界から守られ、
平和ボケの日本。グローバル化は、その平和を儚くも砕いてしまう。 
憲法を変えるのは当然のことだが・・ この国では無理?  
〜 また偶然だが、以下の二年前の随想日記に続く! 〜
・・・・・・・・・・・
4170, 金正日の料理人
2012年08月26日(日)
  * 若きドン様の親の敵討ちは残酷!
 何気なくTVをみていたら、北朝鮮金正日の元料理人が出ていた。これが
漫画的ドラマ仕立。その男が、「金正恩に招待され北朝鮮に行ってきた内容」
で、金正恩や、そののファミリーと食事をした写真があった。 父・金正日
裏切り逃げ帰った過去全てを水に流してくれた温情深い現在のドン様に感激
している、という筋書き。その日本人は現地に妻と二人の子供を残してきたが、
正恩の計らいで残留家族と対面した。ところが、「料理人の長男が、再会した
二週間前の夜半に苦しみだし、両手を三回突上げ絶叫し、亡くなった」という。
心臓発作だった。
『呼び出しに応じたのを確認したと同時に、長男を毒殺し、家族に会わせて、
その事実を知らしめ、今度は長女を殺す、という脅しをかけ、北朝鮮
メッセンジャーを暗に強要している』のは誰の目にも明らか。その後、妻と娘
を残して帰国し、TVに出演したのだが、その筋書きをキャスターに指摘されると、
「そうであっても、それでよいと思っている」という返事。北朝鮮に愚弄されて
いる姿が、そのまま出ていたが、陰湿で残酷な仕打ちのドラマ仕立。 
リアルで現在進行中のため、料理人が翻弄されている姿が痛々しい。 
独裁国家のドン様を裏切り愚弄すると、このザマになるという残酷ショー。
これは北朝鮮が茶の間に直接日本愚弄のメッセージをしてきたことになる。
逆にみれば、この程度の連中でしかない。マスコミが、料理人を抹殺するか、
パンダとして利用するか、パンダ利用になるのだろう。現地の家族が本当に
存在していたのか、そう持ちかけられたのか、本人の作り上げた物語なのか、
色いろの仮説がたつ。コミック漫画の悲劇、喜劇? くさい話だけは確かだが。
・・・・・
4545, 閑話小題 ー夏対策
2013年08月26日(月)
  * 暑さ対策!
 居間、寝室では扇風機で冷をとるのが基本。しかし30度を超えるとクーラー
を付けるが、今年は、その頻度が多い。扇風機の場合は、補助として保冷剤の
入った首巻きを三つ冷凍庫で冷やし一時間ごとに入れ替える。これが効果がある。
更に先日、寝室用に保冷枕を購入し使い始めたが、これも良い。
冬生まれもあって夏の暑さには特に弱いが、それでも、いざとなればクーラー
があるという余裕があるから出来るのだろう。
   * 業種店が、新規出店?
 車で二分ほどの三沢のSCの運動ジムに週五日通っているが、道路一つ隔てた
敷地に2Fの建物の鉄骨が立ち上がってきた。3〜4ヶ月前に「地元のスポーツ店
が、東バイパス出口に出店!」という新聞記事を見ていたので、着工と同時に、
これでは?、と思っていたが、先日に家内から、それが地元スポーツ店と
知らされた。地元のスポーツ店も典型的な業種店。自然消滅は時間の問題と
見ていたが、それが新規の出店とは意外! 家内が言うには、「近くに高校や
中学が多いので、運動着やスポーツ用品が学校単位の需要があるのでは?」。 
家内の方が、よほど世情に詳しい。全国チェーン店が捨てた(地元しか手に
入らない)インサイダー営業が存在している、ということ? としても、
私には疑問が残るのは、私がアウトサイダーのため? それとも、幾つかの
SCの重なっている郊外の一等地で、大手のスポーツチェーンに囲まれ苦戦。
その原因が業種店の限界と知らず、スポーツ店の無店地帯の東バイパス地区に
移転で起死回生を図るためなのか?としたら・・ 最悪のケース。 
常識的にみれば破滅行為!しかし、街中から移転して20年?近く、ブランド物に
的を絞り、営業では学校関係に地道な営業努力の結果、二店目の出店に至った?
と、考えるしかない。立地センスは最適だが、黒鳥の舞降りる中で、どうなる? 
毎日のように、窓から見えているので書いたが・・ 更に最悪のケースは、
順調な数字を上げていて、移転でなく拡大としての二店目の場合。
恐ろしいのは二店目の甘い計画。
・・・・・・
3805, 哲学人 ー�
2011年08月26日(金)
 * 学生時代の恩恵 
 学生時代の恩恵は、現在でも大いに実感している。もしも学生時代に一度、
頭を粉々にしてなかったらと思うと・・ マギーは、ここでイギリスのエリート
学生の内面を正直に書いている。哲学と芸術の長い歴史が大学にあり、そこの
プログラムを学生はこなしているのである。都市には、美術館があって歴史的
名画を身近に見ることができる上に、コンサートも子供時代から親から連れて
行ってもらっている。 教養のベースが、風土の中に染み付いているのである。
  ー「哲学人」ブライアン・マギー著よりー
【 結局、大学が知性という面で私にしてくれたことの中で一番肝心なことは、
 知的価値が芸術的価値とは独立して存在しているということ、そして、知的
価値に関心を持つように仕向けてくれたことである。 一年目には、理知的で
気の合う仲間の中に、他にもまして知的な価値に傾倒している人がいることを
知ってカルチャーショックをうけたことである。彼らとの交流のかなで、
そうした価値を自分なりに受け入れられるようになるに三年目まで待たなければ
ならなかった。そのおかげで、知的価値は私にとって欠かせないものとなり、
私の人生と考え方に色褪せることのない彩を添えてくれた。
 ちなみに、私はこのような経験をしたおかげで、一部の聡明な人々に対する
理解を深めることができたのではないかと思っている。それは、さまざまな
理由から大学教育を受けたことがなく、そのためにこういだ経験をしていない
人々についてである。そういった人々がどんなものの見方をするか私はわかる
つもりだし、彼らの身になってみることもできる。 ひょっとしたら自分も
同じ立場になっていたかもしれないからだ。 正式な教育は、世界というものが
個人の見解や意識や関心や想定の単なる拡張ではないという考えを育むよう
仕向けてくれる。これは正式な教育が授けてくれる最大の恩恵である。
当然のことながら、こうした教育は他者の助けなしにできない。他者は私たち
個人をしばっている拘束をまぬがれているからである。けれども、ここから
導かれるのは、独学の者は生半可な教育を受けた程度にしかなりえないという、
残念だが逃れようのない事実である。 オックスフ・オード入学当時の私の
考え方にはっきりいって欠けていたもののうち、最も重要だったのは、その後の
経過を考えると、哲学ということになる。 人間の関心事の中で最も価値が
あって大切なものとして、哲学は確かに偉大な芸術に近い水準に達しているし、
その理由も似通っているように思う。どちらも、人間が到達しうる最も高い
レペルで真理を探究する活動である。どちらも物事の本質を、つまり存在の
根源的な神秘を探ろうとしている。それを果たせないとしても、人間の理解
に限界があるせいにすぎない。ショーペンハウアーが述ベているように
「芸術家が具体的に行なっていることを、哲学者は抽象的に行なっている。」
哲学者は自分の意見を概念で表現するよりほかなく、そして概念というものには
どうしても一般性がつきまとうため、哲学は芸術ほどの深みには到達できない
かもしれない。だがその一方で、哲学にはできても芸術にできないことがある。 
アイリス・マーギックは「よきにつけ悪しきにつけ、芸術は哲学より深い
ところに達する」と語ったが、哲学には芸術よりすぐれた面がいくらかはある
という意味ではそのとおりであるし、全体としては芸術に及ばないという
意味でもそのとおりである。】
▼ 芸術と哲学が教養のベースであるのは今さらだが、マギーの、このような
 文章を読むと、より芸術に触れておくべきだったと実感する。 芸術作品は、
作者の魂そのもの。それぞれの時代が生み出した人物が全霊を捧げて、作品の
中に魂を入れ込んだ名作である。それに直接触れ、感動するのが一番、人間の
魂を高めることになる。そのためには時間をかけて対象と向き合うしかない。
・・・・・・・
3440, 再び、死について考えてみる ー4
2010年08月26日(木)
  * 死を喩えると
 死を喩えると、旅と、眠り、とされる。 「死ぬ」が旅と、眠り、に
喩えとされることは、プラトンソクラテスの弁明』の一節にある。
ー「つまり死ぬということは、次の二つのうちの一つなのです。あるいは
全く何もない.無」といったようなもので、死んでしまえば何も少しも感じない
といったものなのか、あるいはまた言い伝えにあるように、それはたましいに
とって、ここの場所から他の場所へと、ちょうど場所をとりかえて、住居を移す
ようなことになるかなのです。そしてもしそれが、何の感覚もなくなることで
あって、ひとが寝て、夢ひとつ見ないような場所の、眠りのごときものである
としたならば、死とは、びっくりするほどの儲けものであるということになる。
・・・・また他方、死というものが、ここから他の場所へ、旅に出るようなもの
であって、人が死ねば、誰でもかしこへ行くという、あの言伝えがが本当とする
と、これより大きい、どんな善いことがあるのでしょうか、裁判長諸君。」ー
 葬式で、「故人は旅立たれました」というが、夢なら醒め、旅なら帰って
くるのが前提にある。永遠の眠りというと、そこで夢を見る可能性がある。
無に帰した者が夢の見ようがない。あくまで心象風景でしかないのが、これで
わかる。 最近、ブラックホールに喩えることがある。その人の全てが、
その中に吸い込まれ、再び戻ってくることはない、という意味で、喩えとして
科学的風である。 ブラックホールは生命を終えた星が爆発をして、その重圧で
空間の歪が生まれ、穴が開いて異次元?の時空に周辺のものを吸い込んでいく。
これを死に喩えることは、これはこれで、説得力がある。最近、ホワイトホール
も、存在も云われるようになってきた。何処かの歪から何が噴出している空間の
存在。それは生命ということになる。 面白いのが、死の喩えを、生そのものに
している説がある。 これまでの死の喩えのは、生のうちで経験される現象=旅、
眠る、去る、失う、等々である。それらは再び我われの元に帰ってくる可能性
がある。死は絶対性であるから、「死ぬ」に永遠性が現われてくる。そうすると、
永遠に眠る存在になる。こんなそんなで、結局、死は喩えると分かりやすそう
だが、生きている人間の論理というのが露出するだけ。同じ動物の牛に喩えると、
先ほどの喩えは不自然である。死も、生きていることも、幻想でしかないなら
喩えでイメージするのも良いではないか。 少し、眠たくなってきた。
  (字数制限のためカット2011年8月26日)