5年前から、早朝から「黄金の習慣」を編上げたスケジュールを淡々と過ごす
日々が、そうとも言えるが、どうだろう。世間的なことを、ほぼ無視できるし、
一人、ほぼ単独でこなしている。一番の心の切替が出来たのは、20時から4時間、
爆睡をした後の、4時間の半睡を、瞑想のように過ごす。4年前からジムのヨガを
週に2〜3回、参加しているが、最後に死者のポーズを5分ほど行う。それと同じ
感覚にすると、かなり酷似した感覚になる。 歩の時間が、成金の時間帯に
変わっている。 〜その辺りから
≪ 一日に一度、ほんのわずかな時間でもいい、心を内省する時問を持ったら
 どうだろう。たしかに、知的な会話や頭を使わないですむ娯楽もそれなりに
楽しいものではある。だが、それらが本当の満足感を与えてくれるだろうか。
心を内側に向けよう。山のように習得するだろう。毎日わずかの暇を見つけて、
利他的な考えを養成し、心がどのような働きをするかを観察するのは非常に
価値のあることである。こうした心の探査は、地域情報やスポーツ記事を読む
時聞に比べて千倍も多くのものを得る上、永続性がある。世間的なことを
すべて無視しろ、と言っているのではなく、時間が有効に使われるべきだ、
と言っている。現代人は思考ゼロの状態にはまり込んでいるのである。
 挫折を味わうとか、仕事が空回りする等の経験をした場合は、
「すべてを客観的に捉え直す」ことにわずかの時間費やす。だが、その方法と
費やす時間が問題なのである。辛い時間が「さっさと過ぎ去る」のを待ち、
「気持ちをまぎらわす」何らかの気晴らしを熱心に探そうとする。 それが
ほとんどの場合だろう。だが、俳優と場面は変わっても、芝居は続くことを
忘れてはならない。湖の畔、丘の上、静かな部屋に座り、自分の奥深い部分が
どのような構造になっているのかを観察してみたらどうだろう。まず、自分の
人生で何が一番大切か、それをじつくりと検証する。続いて、それまで時間を
割いてきたさまざまな活動を点検し、基本的に重要な事や活動を優先して順位
をつける。日常的な活動のうち、必要性の低い部分を、沈思黙考と内側に目を
向ける時間に切り替えることもできるだろう。長年にわたり、英国を離れて
隠遁生活を続けたテンジン・パルモ尼はこう記している。「人は瞑想の時間が
ないと嘆くが、それは正しくない。廊下を歩いている間、信号待ちの間、
コンピュータで作業中、列に並んで順番を待っている間、と入浴中、髪を梳か
している時でさえ瞑想はできる。今この瞬間に存在しているだけでいい。
心についての余計な解説は要らない」。 人生の残ざれた時間は有限である。
人間は、生まれたその日から一秒、一歩ごとに死に近づいている。
チベットの隠者、バトゥル・リンポチェは詩的な表現をしている。
  日没に太陽が沈むように、命が次第に残り少なくなると、
  死が、長ぐ伸びた夕暮れの影のように近づいてくる。
▼ 別に、私が黄金時間を満喫しているということでなく、御隠居生活
 そのものが、心の持ちよう、考え方で、それに近づける状況ということ。

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5104,閑話小題 〜絶食系男子・女子
2015年03月06日(金)
   * 絶食系男子・女子
 いつの時代にも、様々な男女のタイプがいる。学生時代は、志すところが
あってか、機会は有り余るほどあったが、特定の相手はいなかった。卒業の
半年前に、ゼミの教授に「学生時代に相手を見つけておきなさい」と言われ
焦って探したが時、既に遅かった。しかし、勤務先は女性の職場、それぞれの
転勤先には、こんな美人が実際に存在しているのに驚かされた。対象の年代は、
団塊の世代で、私の世代は終戦直後の男の絶対数が少なく、環境として非常に
恵まれていたため、一人に固定されると、その特権を放棄することになる。
そこでフワフワしているのが、最適。それも、22〜27歳の間だけ。 昨今、
肉食系、草食系と言われていたが、今では絶食系男子、女子が増えているとか。
過去に一切、付き合ったこともないし、その気がない?と街頭インタビューを
していたが、「傷つくのが怖い」「自信がない」「面倒だ」「理想の人が
いないし、いても相手は無理」とか、様々。どれもこれも身に覚えがある。 
 誰も無意識で、自分のレベルより1〜2ランク上の相手を望むが、情報化は、
それをテレビや、ネット上で具体的に提示する。そのうち、それが最低条件に
変化していることに気づかない。悪いことに、映画やTVドラマで、理想的
ヒーローやヒロインの虚像を焼き付ける。現実に、そんな相手は存在しないし、
いても相手はミスマッチとなる。で、どえらい失恋を重なるうち、諦める
しかない。次は拒食系男子・女子が出てくる? ところで、その番組の中で、
「レンタル彼女・彼氏」があるという。ただ数時間デートをするだけで、
何も?無しで、二万数千円。その方が気楽で良いという。解らない時代だ。
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4739,<つまずき>の事典 〜   ー7
2014年03月06日(木)
* 私は人一倍こわわがり屋!(植村直己)<つまずき>の事典>中村邦生編著
 誰でもこわがり屋で、神経質である。もし、そうでないなら無知か、無神経
である。それを登山家の植村が逆に準備を周到にすることで乗り越えてきた。
私も、人一倍こわがりで、神経質の性格を乗越えてきた。初めてのケニアも、
 生きて帰れるかどうか、到着するまでは恐ろしさで震えていた。でも、
サファリ地区に入れば、何とことはない、世界で名だたるレジャーランド。
要は、決心できるかどうか。人生と同じである。 ーその辺りを抜粋ー
《 ☆ 人から「そんなに次次に危険を冒してこわくないのか」と、よく
 聞かれるがとんでもない、私は人一倍こわがり屋。危険に直面したとき、
自分だけはなんとしても生きたい、と思うのである。普段の生活では表に出ない
利己的なものが、危険に遭遇した時、あらわれるのである。ー植村直己『冒険』〜
 植村直己(1941~84)は登山家・冒険家。兵庫県生まれ。モンブラン
キリマンジャロ、南米のアコンカグア、エペレスト、北米のマッキンリーと
世界初の五大陸最高峰登頂者となった。チョモランマを除いては単独登頂。
他にも、アマゾン川を筏で下ったり、北極圏一万二千キロを犬ゾリ単独走破
などを成し遂げた。この希有の冒険家も明大山岳部に入りたての頃は、
新人の中でも最もパテが早く、使いものにならなかったという。
 この『冒険』は一九八○年刊行の自伝的冒険記。引用は単独行への新たな
挑戦を語る章の一節。この「利己的なもの」という言葉に続けて、
「北極圏の犬ゾリ旅行のとき、ひとたび食糧が欠乏して生命に危険を感じると、
それまで家族のように接してきた犬も食糧に見えた」と告白している。
植村直己は「未知の世界に立ち向かうとき、私はあらゆる準備に時間をかける。
そして、成功への可能性が見つかったとき、初めて行動に移る」と自他ともに
認める慎重居士であった。しかし一九八四年、マッキンリーの冬期単独初登頂
に成功した帰路、消息を絶った。43歳の誕生日を迎えた後であった。
この登頂は南極大陸横断という挑戦に備えてのことだった。》
▼ 長期の設備投資の事業をしてきたが、20〜30年以上の投資のため、
 多くの時代の波に曝されることになる。判断と、決断は、それを前提にするが、
そんな先が読める訳がない。そこに底知れぬ恐怖感がまとわり付く。そのため、
万一の備えをつくっておくしかない。今回の一連で、大部分の人が計画倒産と
思ったようだが、そんな小利口なことなど、私に出来ようがない。出来るのは、
再投資の度に、リスク管理を積み重ねてきた。そこには利己的な自分が顔を出す。
 気が小さく、愚鈍で、利己的な自分と常に出会うことになる。
だから綺麗ごとが綺麗ごとと自覚できない人の心中が透けて見えてくる。
ドラマと、現実は違う。その内面は、ドラマでは表現できない。
それは、自分で経験するしかない。