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『自分史の書き方』立花 隆(著)
* 自分の人生を大きく区分けしてみる
東洋医学の教科書といえる二千年前文献『黄帝内経』に、
「女性は7の倍数、男性は8の倍数」の年齢が節目で、体に変化が訪れる
という記述がある。 進学、就職、結婚などの節目を経て、変化をして
いく中のエピソードを織成し、書き上げるのが自分史。振返ってみて、
確かに、8の倍数の年令期に節目の原因があった。注目するのが、節目という
より、その起因を作っていること。ある意味、ピークの先端だが、不安定の
極めと慢心で判断を間違えていた。 逆に、その数年後に予定挫折を組み、
判断すればよい。危ない!と直感したら、自ら前倒れすればよい。
ゴールデンスワン(幸運)も、ブラックスワン(歴史的不運)の出会いも、
長年の志の準備があればこそ。準備は裏切らない唯一の友である。
〜その辺りから
≪ そこでまず最初になすべきことは、自分史を大きな時代別に
区分けしてみるということだろう。 時間軸で区分するなら、
「幼年時代、少年・少女時代、高校時代、大学時代・・」になる。
職業人としては、「就職するまでとその前後、入社直後と平社員OJT
(現場訓練)時代、企業内のステップアップ過程、動乱と失業の時代
あるいは栄光の時代、リタイアの時代・・・」といった分類も可能だろう。
そのどこかが、家族史(結婚、出産、子供の成長。あるいは病気、死別など)
の大きな区切りとも結びつくだろう。
そして、そのすべてにおいて、住居ないし生活拠点の移動といった空間軸の
移動の歴史が結びつくはずだから、それと結びつけた時代区分にしてもよい。
「故郷とそこを出るまでの時代、東京時代、赴任地の△△時代」のような区分
にしてもいい。どのような時代区分にするのが適当かは、個々人によって
みなちがうはず。自分の人生をどのように区分しようかと考えるところから
自分史の執筆がはじまるといってもよい。
いずれにしても、自分の人生を幾つかの大きな区分に分けてみることが必要。
そのような大きな区分けが見えてくるような自分史年表を作ることが重要だ。
区分したら、一つ一つの区分に適当なラべリングをしておくとよい。
もう一つ重要なことは、人生は単なる4次元時空内移動ではないということ。
まったく別の角度から見ると、それは、常に人間関係の海の中を泳ぎ続ける
ような行為としてあったはず。すべての人が、驚くほど多くの人間関係を
引きずりながら生きていく。その過程でさまざまな喜怒哀楽を友人、知人、
同僚、家族などと共有し合ったり、ぶつけ合ったりを繰り返していくのが、
エモーションの側面から見たときの「生きる」という行為だ。その全体像が
自分史である。自分史にはそういう要素も入れておいたほうがよい。
そういう側面の自分をつかむために、その時々の自分をとりまいていた
「人間関係のクラスターマップ」を作ってみることが必要だろう。
別の言い方をするなら、それぞれの時代に自分を取り巻いていた人間関係の
一覧表を作っておくということである。それらの人間関係から生まれた、
個人的喜怒哀楽のイベント、エピソードを拾いあげるメモを作ることも必要。
自分史は最終的にエピソードの集積体になるわけだから、思いつくたびに
エピソードをメモする、「エピソード帳」なども作っておくとよい。
もう一つ、われわれの人生は、個人とし、個人的エピソードの集積を生きて
いる部分もあるが、同時にわれわれはみな同時代の地球社会のメンバーの一員
として、同時代の日本人社会、同時代の世界社会をさまざまな出来事を通じて
共有しながら、生きてきたということも忘れてはならない。・・≫
▼ 区分けの節目こそ、人生の大きな転機である。節目を叩く!とは、
志があればこそ。区分けの節目のエピソードが織成す絵柄が、人生である。
そうこう考えると、自分史を書き上げるには膨大なエネルギーが必要になる。
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5033,閑話小題 〜書いてあったクリスマス
2014年12月25日(木)
* 書いてあったクリスマス
昨日のクリスマスイブ、TVで過っての思い出深い話を聞く街頭インタビューを
していた。そこで、この24、25日分の、この随想日記をみると、よく書いてきたと、
自分でも驚いている。 しかし、少年期のイブの思い出は、書いてなかった。
≪ 幼稚園から小学校低学年の頃、我家でも、クリスマスにツリーを飾っていた。
二番目の姉が、率先してツリーに色々な飾りをしていた。私と共にい近くの店に、
星、サンタや動物の人形、点灯などを買いにいき心トキメキながら飾り付けるのが、
一番の楽しみだった。そして、翌朝には、贈物が、枕元に置いてあった。
クリスマスソングが流れ出すと、あの頃の、あのツリーと生活を思い出す。
レジャーの少なかった当時、クリスマスと年末年始は、大きなイベントだった。
10歳まで住んでいた繁華街の真只中の4F商業ビルの3階の住居、刺激的で、
激しくて、今から考えてみると、小説の世界。ある規模以上になったら、職住を
別にしないと、家族崩壊まで、追いやられる危険が増大していく。 そこに家族が
住んでいたのは、8年間。引越し先は、駅裏の、店から歩いて10分ほどのところ。
ところで、過去のクリスマスを読み返してみると、20歳代のブルークリスマスが
記憶に残っている。そうこう考えると、人生の花は、20歳代の青年期と、10歳まで
住んでいた店の3階に住んでいた頃、ということ。クリスマスという切口で振り
返っても、結構、面白いことが多くあった。書き残すことは、人生の秘儀である。
今日は、ステーキランチでもいってみますか。
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4666, 閑話小題 ー40数年前のクリスマス
2013年12月25日(水)
* 40数年前のクリスマスか〜
TVでも、ショッピングモールでもクリスマスソングが聞こえてこない。
出歩かないこともあるが、10日前の飲み会に向かう途中で通った駅前の市役所
アクロプラザ大広間の電飾クリスマスツリーぐらいである。 ショートケーキを
買ってきて、少しその気分を味わう程度で十分ということ。TVでクリスマスに
関するハリウッドの心暖まる映画を放映しているが、ほぼ全部見たものばかり。
イエス生誕の祝いも、日本人には関係ない。
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ー2003年12月25日(木)ー995, クリスマス−2
昨日は学生時代のイブの日を書き写したが、その[一年後のクリスマス]
を記憶の中から引き出してみる。
《 ジャスコオカダヤに入社して四日市本店に勤務、そこから合併先のジャスコ
フタギの「神戸垂水店」に転勤になり、半年経っていた。会社は幹部候補生を
即戦力にする為に、店と売り場の高速配転をしていた。2ヶ月もして慣れると、
即配転である。四日市、神戸、桑名等。5番目の売り場では、関西では初めての
靴部門の立ち上げの責任者に取立てられていた。それにしても、あまりにも過酷。
当時のスーパーは、まだ得体の知れない新参の危うい小売屋でしかなかった。
濁流に放り込まれて、毎日が濁り水の中を溺れながら押し流されている日々。
現在考えても、よくぞあの濁流に飛び込んだものだと思う。それだけ当時の
流通は暗黒の世界であった。いや今もそうだが。話はそれたが、クリスマスは
食堂でささやかなクリスマスパーテーをやったような記憶があるが、確かか
どうかはハッキリしてない。その後に会社仲間と寿司屋で酒を飲んでいたような
記憶があるが、これも如何であろうか。女性とは一緒ではなかったようだ。
そうなら何処かで記憶が残っているだろう。クリスマスなどと浮世のことなど
考えられない、あまりに異常の世界であった。合併は、信じられないほど現場の
摩擦がある。その先兵は如何立場かという知識は全く無かった。先ほど書いたが、
流通業は当時は濁流そのもの。信じられないような光景が様ざまあった。
ところで、その年の年越しは宿直で、床屋で髪を刈っていた。
当時の関西は、年越しは床屋が深夜まで営業をしていた。それまでの年越しは
全て実家で両親と供に年を越していた。 刺激が強すぎた日々でも、芯には
染まらないのが私の特性。これは武澤ゼミのお陰だ、また欠点かもしれない。
また創業という目的があったこともある。「クリスマス」「年越し」の視点で、
過去を切り取ると多くのことが記憶の底から湧き出てくる。メリークリスマス!
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2007/02/18
2147, 白い雲に乗って ー2
b(^o^)dおっ W(^O^)Wはー♪
先日のつづきの夢をみた。
半分は覚醒をしていたのかもしれない。
前回の夢が契機になって当時のイメージがドンドン出てくる。
如何いうことなのだろうか?
それは57年前の世界そのものである。
その世界から此方をみている感覚と、此方の感覚の間にある塀の上での
微妙な世界に立っているようだ。
ーー
白い雲に乗って再び、その世界(4歳)へ行ってきた。
そこは前回よりリアルな当時の世界があった。
中央保育園の面接があるというので、目新しい服を着せられて、
母の手に引かれて「同じぐらいの小さい子が多くいるところ」に行った。
そこは家から10分ほど歩いた小さな小路にあった。
面接のオジサンがニコニコしながら、色々なことを聞いてきた。
母に前もって聞いていたので、驚くほど上手く答えた。
恐らく入れるだろうと思った。
家(店)に帰った後、三輪車に乗って前の安栄館というビルの
同じくらいの友達のところに行った。
やはり最近できた大きなビルのところの子だ。
何か遊んでいると楽しい!
その数日後に場面が変わり、幼稚園の合格のしらせがきた。
手紙を待っていたが、何時までたってもこないので、 お母さんが
「落第したのかもしれないけれど、そんなことがないはずだが・・」と言う。
ガッカリしていたところ、合格の葉書がやっと届いたが、凄く嬉しい。
クリスマスの飾り付けのため、二番目の姉の恭子と近くに
ツリーの飾りを買いに二人で行った。大きな雪がフワフワと降っている。
ツリーに吊るす色いろなものを二人で選んだ。
小さな家とか、星とか、動物とか、人形などがあった。
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12月25日
1968年
11時に起床。午後本を読んだり、食事をして過ごす。
夕方、米林が帰省をしていく。
夕食後、会社の論文の構想を色いろ書いてみる。
21時に、市川さんの友人等5人を引き連れて赤坂に行く。
いざ中に入ろうとすると、誰も物怖じをして入ろうとしない。
ここまできて何だろうと強引に入れようとするが3人が逃走する。
やっとのこと市川さんと、あと一人を入れる。
入って、踊りだせば後は狂ったように踊りだした。24時に帰寮。
変な学生時代最後のクリスマスであった。
来年はどんなクリスマスを過ごしているだろうか。