元・プレーボーイ編集長の島地に、亡くなった三人がのり移った設定の
人生相談だから、面白くないわけがない。ランダムだが、面白そうな相談から
紹介していく。
   ー大企業で出世する男の見分け方を教えてくださいー
〈 私がつき合っている男性は慶応大学卒の28歳、某大手電機メーカー勤務です。
有名企業ですが、このご時世、サラリーマンの一寸先は闇。彼が出世競争を勝ち
抜ける人かどうかを知りたいのです。私も大手といわれる保険会社勤務ですが、
ずっと仕事を続けるつもりはありません。というか、専業主嫁になりたいです。
ただし、貧乏臭い節約生活は送りたくありません。銀座で気軽にショッピングを
したり、一流のレストランでランチができるくらいの余裕のある生活が希望です。
そのためには、旦那さまにかなりの稼ぎがないことには。かといって、ベンチャー
経営者なんていうのは、倒産の危険と背中合わせで不安定だからイヤ。大企業で
出世する人がいいのです。そういう人の共通点って何でしょうか。どんなところ
で見分けられるでしょうか。こんな質問をしたら、コメント欄では非難轟々
かもしれませんが、本音でお蜀きします。(27才女性) 〉
  ーお答えー
〈・シマジ:その慶応卒の彼氏とやらに会って、食事をしながら二時間も話せば、
出世するかどうかをぴったりいい当ててあげるよ。だが、一般論として出世
するす男はこうだとはいい難いな。それこそ千差万別だ。だから、会わずに
語るのは無責任だな。無責任だが、これだけはいえる。この男が大企業の中での
競争を勝ち抜き出世するだけの知力と感性の持ち主なら、相談者を一生の伴侶
として選びはしない。すなわち、相談者を妻にするような男なら出世の見込みは
薄く、出世する男なら、いずれ相談者と別れるだろう。
・アソシエ:辛口ですね。
・シマジ:相談者の本音の質問を本音で答えたまでだよ。出世をする人間の
大事な条件の一つが人を見る眼力だ。大きな組織の中でこれぞという先輩や
上司を探り当て、その人に教えを請い、その人を尊敬して命がけでついていく。
あるいは営業マンなら、取引先のキーパーソソを見極め、そこにしっかりと
食い込み、人脈を広げていく。いずれにせよ、そうした人を見る眼力があれば、
女のたくらみも見通してしまうだろう。それにしても、相談者の考えは浅いな。
だってそうだろう。日本の大企業の中で課長に出世をする男には眼力が必要だ。
課長になり、部長になり、ついには役員になったとして、どれほどの生活が
できるというんだ。第一、子供はどうする。子供が二人もできたら、優雅に
お買物にラソチになんていっていられなくなる。しかも、教育に金がかかる。
こういう相談者だから、子供に有名幼稚園や小学校をお受験させるだろう。
そのうえで、有閑マダムよろしくブランド品のショッピングに精を出し、
高級レス.トランでランチ三昧なんてことをしようとしたら、数千万の可処分
所得が必要になる。ということは旦那は税込みで一億円近く稼がなくては
ならず、サラリーマンには到底無理な話だ。〉
▼ 以前、田圃や小川に生息する〈タガメ〉について書いた。蛙や、小魚に
 抱きつき、栄養分を死ぬまだで吸い取る昆虫で、日本の専業主婦に酷似
しているという分析の書籍を、ここで紹介した。 何か、誰かさんみたい?
  〜二年前に取り上げた内容を下にコピー〜
・・・・・・
4660, 知る悲しみ ー『極道辻説法』は、シマゲジゴーストライター
2013年12月19日(木)
  * 今東光の『極道辻説法』は、シマゲジ作 
                ー『知る悲しみ』島地勝彦著
 図書館でみつけた島地勝彦著「知る悲しみ」。
例の『水の上を歩く? 酒場でジョーク』島地 勝彦・開高 健 (著)の、
元プレーボーイ編集長の島地の著書。「知らない悲しみより知る悲しみ
のほうが上質である」とは、言い得て妙だが、何と『極道辻説法』
の「和尚前白」は島地が東光に憑依して書いたと告白。生臭坊主の
名回答も、シマゲジの創作とは・・ ーその一節を書き出してみるー
・矢野「いまインターネットなどで『今東光語録』が箴言集のように
 扱われています。ところが私などから見ますと、どう考えても大僧正の
 興味のテリトリー外のテーマなどが書かれてありまして、ずばり
 訊きますが『和尚前白』は大憎正が書いたもの?
・島地「今日はすべて告白しよう。あれは全部オレが書いたものだよ。
 しかしよく分かったね。読み込んでいるなあ、矢野は」
・矢野「ただ『速記録』で実際に大僧正が語った回想や時評をうまく
 リライトされているのもあります。ですから島地さんの全くの創作ばかり
 とは言い切れない。今日は漢幸雄さんが収集した『和尚前白』を持参して
 きましたので、どれが完全に島地さんの創作なのか教えてくれませんか」
・島地「いいとも。(『和尚前白』を読み進めながら)第一回からオレの文章。
 確かに。うまいなあオレは。(国連総会演説を取上げた回を示し)これもオレ。
 高校野球の話、これもオレだ。この回は大僧正の話をまとめたもの。これも
 オレじゃないかな。ほんとに大僧正が愚依してるね。いま読んでも面白い!」
・矢野「スポーツや外国小説がテーマのものやアル・カポネの話もみんな
 島地さんの創作なんですね」
・島地「もちろん、そうだよ」
・矢野「このインタビューを読んでひっくり返る人、いっぱいいますよ。
 いま島地さんは『乗り移り人生相談』という連載をされていますが、
 まさに当時から大僧正に乗り移ってたことになりますから」
▼ 私もひっくり返った一人である。島地が今東光に憑依しないと、
 あれだけの名回答は出てこない。そうすると、この本の題名「知る悲しみ」
に通じてくる。「知らない悲しみより、知る悲しみの方が上質」としても、
読者の一人として、知らない方が良かったと思うのが人情。ここで紹介されて
いる「エロ・アーカイブ」は興奮した。飼犬の秋田犬と夫婦の3P?を生々しく
書いてあるが・・ 今度ここで紹介しようか?ー【スカトロ・マニア】犬の
ロッキーを恋人にした私の妻ーと検索すると出てくるが、お勧めはできない。
成るほど、「知る悲しみ」そのもの・・ 上質かどうかは別!
・・・・・・
4969,生まれたことをどう考えるか
2014年10月22日(水)
           「生まれたことをどう考えるか 」船木 英哲 (著)
   * 「生まれたことをどう考えるか」は、人生の根本的問いかけ
 学生時代から、この根本問題を考えてきたが、そう簡単ではない。しかし、
「何を馬鹿な!猿が生まれてきたことに意味があるかを考えるのと同じ。
意味など後付の理屈」と決め付けることもできる。この問いかけは、
「人生を如何に生きるか」に通じる。フランクルの「人は良く遊び、良く働き、
良く学ぶため生まれてきた」を一番気に入っているが、これに「良く休む」を
加えると、ベストに思えるが。実際、生まれてきた理由などないはず。
  まずは、ーアマゾンの内容説明よりー 
《 生まれるとはどういうことか、(生まれ、生きる主体である)心とは何か
 の問題を追うことで、人間や世界の存在を考察し洗い直し、生まれたことに
意味はあるのかどうか、意味があるとすればそれは何か、どういうものが
考えられるのかの問いに迫ったものである。・・(本文より)》 
 ーその一部を抜粋してみるが、最初から最後まで似たような内容が続くー
≪ ◇ほんのわずかな時間、意図的に呼吸をしないことはできるが、わたしの
 心臓や肺が動き、わたしが呼吸するということは、わたしが意識的に作り
出していることではない。わたしが眠っている、わたしの意識のない間も、
心臓はわたしの体の中で規則正しく動きつづける。わたしの意識の状態に
関わりなく、呼吸、さらに体温調節、消化、酵素の分泌など生命維持に
必要な営みは行われている。生きているということは、生きている各人の
意識とは別なところで成り立っている。自分が生きているということは、
根本的に自分が作り出しているようなことではない。
 ◇ わたしは生きるか死ぬかを選択し、その通りに実行することができる。
もちろん自ら死ぬという選択、実行には、多大な困難が伴うであろうが、
場合によっては、意を決し行うこともできる。わたしは現在生きる選択をし、
骨を折りながらそれを実行しているが、だからといって、わたしは自分の力で
自分の生からすべて作り出しているのではない。何かによってわたしが生き
られるような状況があるから、わたしは生きてゆけるのであり、生きるか
死ぬかの選択ができるような状況にもあるのである。
◇ わたしが他の場所に生まれず、わたしの生まれた地に生まれたこと、
100年前や500年前ではなく、わたしの生まれたときに生まれたこと、
他の人間を親とせず、わたしの両親のもとに生まれたこと、さらには、
わたしが男であり、日本人として生まれたこと、他の生き物としてではなく
人間であったこと、また、他ならぬこのわたし、この自分であり、わたし
固有のDNAをもっていること、死すべきものであることなどは、わたしの作り
出したことではなく、わたしに与えられたものとしてわたしにあることである。
わたしは今挙げたような制約の中、抗えない何かで生きることを決定付け
られている。生まれること、そして、どういうものとして生まれるかは、
生まれる者の自由にはならない。そして、わたしはいずれ死ぬように
決定付けられている。・・≫
▼ 生まれてきたことが偶然か、必然かの問題もある。この論は、唯心論の
人生感を面白半分に読むに丁度良い内容か。偶然生まれ、必然的に死んでいく、
ただそれだけと割切れないのが人生である。自分の人生は自分しか生きること
が出来ない。その自分の世界こそ、全てと考えれば著者の言わんとすることが
理解できるが。「ただ、生まれ、子づくりを楽しみ、死んでいくだけ」で、
充分と思えば充分だが。それでも、求めただけ、生まれ生きたことに意味が
出ることも確か。ところで、『なぜ、自分は生まれ、生かされたのだろう?』
・・・・・
4602, 閑話小題 ーまず千円だけ持って買い物に!
2013年10月22日(火)
  * 年金暮らしの知恵 ーまず千円を持って買い物に行きなさい!
エッセストの岸本葉子の『ちょっと早めの老い支度』の中で、対談相手の
ファイナンシャル・プランナーの一言が印象的。「セミナーで、まず言う
ことは、年金内で暮らすためには食品から始めること。スーパーに千円だけを
持っていき、買い物を一週間続けることを勧めています。それが出来ないなら
カゴを持たないで買物をしてください。カゴを持たないと沢山、持てないから、
どうしも買わなければならないものから買う。そうすると本当に必要なものが
わかってきます。習慣を変えるに、買い方を変えるしかないです。」 
シビアな話だが、体で憶る第一歩。 私は週一回、酒とツマミの買出しをする。
大たいカート一杯で4千円前後。これと週二回のランチと、週一のシネマと、
月1〜2度の飲み会に金を使うが、この持ち出しの金は、家内からの小遣い。 
元はといえば、出処は40年与えてきた給与の一部? で今や発言権は三分一。
 この二年の身の回りの買物は、ジャケット三枚、ジーンズ二本、電動アシスト
自転車、iPad、7千円のカシオのデジカメ。これだけ買えば十分?こんなもの?
その都度、小言をいわれるが、さほど欲しい物がないのは年齢のせい? 
欲しいものは殆ど手に入れてきたため? 財布には必ず?万以上は入れている。
使わなくても心が豊か?にするため。これで心豊かというから、安いもの。
年金暮らしの貧しい内容になってきたが・・ そこで昨日、車に財布を置いて、
千円だけ持ってスーパーで買物をしたが、気持ちは千円分の視線で、心はプアー。
財産を使い切り、まず楽しみ、貧乏を楽しむのも面白いのかも。他人事でない、
自分のことか!それでも心はリッチ? 楽しんだ実感と行蔵があるのは強い。
日々、是、好日、いや口実か。年金暮しも、楽むしかない。
・・・・・・
4227,雑談ネタ、酒の肴ネタ ー2
2012年10月22日(月)
 * 饅頭は諸葛孔明のトッサの機転から生まれた    
           ー「ルーツ大全」インフォペディア編 より
≪ 饅頭の起源はなんと中国の三国志の時代にまで遡る。蜀の軍師であった
諸葛亮孔明は、ある地域で人の頭を人身御供として捧げ、川の神を鎮めるという
風習を目にした。これをみかねた諸葛亮は、機転を利かして、小麦粉の皮に豚や
羊の肉を入れたものを人頭に見立てて神に捧げ、いけにえの代わりとした。
これが饅頭のルーツである。それ以来、饅頭は料理として中国人の食卓にも
浸透し、主食の一つとして食べられるようになった。まんじゅうの「じゅう」
の字を「頭」と書くのはここからきている。当初は蛮人の頭の意味から
「蛮頭」が用いられたが、のちに「饅」の字を使うようになり「饅頭」になった
といわれている。諸葛亮が機転を利かせて誕生した饅頭が、日本に伝わったのは
一四世紀。1341年に宋から渡来した林浄因(のちに塩瀬姓を名乗る)が作った
「奈良饅頭」が、日本で最初の饅頭とされている。中国の饅頭は中に肉や野菜を
入れるのが普通だったが、浄因は肉食が許されない僧侶のために、小豆を煮詰め、
甘葛の甘味を加えた館を入れた饅頭を考案した。≫
 ▼ まさか饅頭に、こんな起源が隠されているとは思っていなかった。
   
 * 海軍大将・東郷平八郎の注文で"誕生した肉じゃが  
           ー「ルーツ大全」インフォペディア編 より
≪東郷は、英国に七年間留学していたことがあり、日本に帰国してからも、
 かの地で食したビーフシチュウの味が忘れられなかった。日本でもあの味を
味わいたいと部下に調理を命じたが、明治時代の日本では、ビーフシチュウに
欠かせないバターやワインがなかなか手に入らない。そこで部下は、砂糖、
醤油、ごま油を使い、牛肉とじゃがいも、玉ねぎを煮込んでみた。こうして
でき上がったのが、今でいう「肉じゃが」だったのだ。ビーフシチューとは
似ても似つかないが、これが意外と美味であった。しかも、当時の海軍の船員
たちは長い航海のうちにビタミンが不足に陥り、脚気壊血病になる者が
多かったが、じゃがいもや玉ねぎはビタミンが豊富なので、その予防にもなる。
当時は肉じゃがではなく、「甘煮」と呼ばれたこの料理は、まず海軍で人気の
献立となった。一般家庭に普及したのはずっとあとの昭和50年代に入ってから
のことだった。肉じゃがのルーツは東郷風のピーフシチウだったのである。≫  
▼ 肉ジャガが和風シチューのつもりで作ったとは、居酒屋ネタに丁度よい。
 ・・・・・・
3862, 嘘みたいな本当の話
2011年10月22日(土)
 図書館で見つけた「嘘みたいな本当の話」の本の題名、ここのテーマで
取り上げたような気がして調べたら、「H0505 小説のような本当の話!」
というテーマであった。 この本は多くの人の実体験の特集で面白いが、
それでは私というと、これらより面白いものが、幾らでも出てくる。とはいえ、
それは自分自身のことだから言えることだけで、第三者の見方は違うだろうし、
150あまりのショートストーリーは、それぞれの味がある。 
人生には、誰もが多くの思いもよらない経験をするもの。考えてみたら、
自分が、いま、ここに存在していることが嘘みたいである。両親の出会い、
そして数億の精子と、卵子が出合うことも、両親の両親、そして先祖の出会い
の重なりの結果、はじめて現在の自分がある。そういう難しい話は、この本の
本題ではない。何処にでもある、ちょっとした世間話的な信じられないような
経験の披瀝である。 この本の面白い嘘みたいな本当の話の紹介の前に、
私の世間話的なそれを書いてみる。 ー かなりショートにまとめてみた。
* 7年ほど前になるが、オーストリアの、とある観光地の街中で何気なく空を
 眺めると、カラスの一群と鳩の一群が入り乱れて闘っていた。見ていたのは
 数分だったが、カラスと鳩の群れの闘いなど、滅多にみれるものでない。
 「外国には外国の鳥世界があるのか」と、何となく思ったことを覚えている。
* その頃の話だが、早朝、土手を散歩していたところ、ある家に繋がれて
 いた身体はデカイが、幼さの残っているゴールデンリトリバーと、偶然に
 目が合った。思わず、ヨッと右手をあげ声をかけると、何と、その犬も右手、
 いや右足をあげた。オテの、条件反射だったのだろうが、何か奇妙な気持ち。
* 雀と燕の巣をめぐる争いに出会ったことがある。バイパス下のトンネルに
 ある燕の巣に、越冬の留守に雀が住んでいた。そこに春先に燕が帰ってきて、
 その巣をめぐってツガイ同士が争っている場面に出くわした。雀には、多く
 の仲間が遠くからピーピーとけたたましく騒いでいる。数分で、見届けないで
 散歩を続けたが、翌日見ると、そこから雀が顔を出していた。
 驚きは、嘘のような場面に出会った時に生じる心の状態である。
   とすると、初めての体験、経験は「嘘のような出会い」になる。