そこで、幸福優位の7つの法則の真逆で書いてみる
  〜不幸不利の7つの法則〜
法則1: 不幸感の強い人は、周囲に人に違和感と、悲哀感と、絶望感を与える
  2: 心のマイナスへのレバレッジ化が強くなり、ドブ沼にはまりこみ、
     その毒を周囲にマイナスを振りまく
  3: 何事にもマイナス要素に対し敏感になり、何事もマイナスに考え、
     粗探しを求めて彷徨う、あの人たち
  4: 下降の勢いを他人に向けて、結果として傷口の血を周囲に塗りつけ周る
  5: ゾロ・サークルの円が、日々、小さく、固くなり、自分の首を絞める
  6: 20秒ルールが、悪く働き、下降曲線が身につき、悪い習慣が増強される
  7: ソーシャルに毒を撒き続けることで、その毒が返り矢で降りかかる
 多くは、四苦八苦に打ちのめされ、「貧すれば鈍する」の負の連鎖で、恨みを
買う劣者のスパイラルに入っていく。 「順境には枝を、逆境には根を張れ」の
とおり、ただ、ジッと下を向いていれば良いものを。傍からみれば、私の現状は、
まさに、上記の法則のように見えているのだろが、何とか『不幸不利の法則』の
スパイラルから逃れている。 子供の頃から現在に至るまで、様々な『不幸不利』
の事例を見てきたが、それは残酷である。とにかく、不幸不利の状況に立たない
ことだが。 備えを普段からつくり上げておくしかない。
とはいえ、全ての人には、死という挫折が待っている。死ぬまでは生きている
のだから、死を悟る瞬間までは、幸せに生きなくては! ところで、毎年、小、
中、高、大学と同級会に出席しているが、上に進むにつれ、不幸不利の人の
割合が、少なくなる。 これだけは、仕方がないことだが。 一般的に見ると、
幸せそうな人は、どこまでいっても幸せそう! 『泣いても、、笑っても同じ空!』
 〜参考〜 「幸福優位の7つの法則」
法則1 ハピネス・アドバンテージ〜幸福感は人間の脳と組織に競争優位をもたらす
法則2 心のレバレッジ化〜マインドセットを変えて仕事の成果を上げる
法則3 テトリス効果〜可能性を最大化するために脳を鍛える
法則4 再起力〜下降への勢いを利用して上昇に転じる
法則5 ゾロ・サークル〜小さなゴールに的を絞って少しずつ達成範囲を広げる
法則6 20秒ルール〜変化へバリアを最小化して悪い習慣をよい習慣に変える
法則7 ソーシャルへの投資〜周囲からの支えを唯一最高の資産とする
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4793,「消費される物語」 ー3
2014年04月29日(火)
           朝日新聞(4月22日) 耕論「消費される物語」
  * 自己完結せず外へまなざしを        作家・高村薫
 毎日、一文章を書き終える自己完結に精一杯で、内々に凝り固まっている
現状を批判するに、丁度良い内容のようだ。 それも、13年間にわたって、
束縛されてしまっている自分にである。 ーその辺りからー  
《 ■「我々の社会」という物語が揺らいでいるため、物語は過剰な作られ方
 をしているー人間の社会があるところには必ず物語が誕生します。原始時代
でも自分たちの集落とその外を分ける物語があったはず。日本で「古事記」や
日本書紀」が編纂されたのも、律令国家が確立して自らの国史を欲したから。
つまり、物語は人間が生きていくうえで必要なものなのです。私たちの国、
私たちの王、家族、これらはすべて物語です。物語の特徴は、自分たちが見たい
もの、好ましいものを取り入れる一方で、見たくないもの、不都合なものは排除
することができるところにある。つまり虚構です。私たちは物語という虚構を
消費しながら生き、社会は虚構に支えられて維持されている。ですから、今日
さまざまな物語が次々と作られているのはそれほど不思議なことではありません。
 ただここへきて、その物語の作られ方が年々過剰になっているのは
「私たちの社会」という物語が揺らいでいるからです。例えはグローバル世界
では、人やモノの自由な往来が国境をなくしてゆくだろうと予想されていたのに、
実際には世界のあちこちで「私たちの国」という物語が不安定になって、その
穴埋めのために過剰な物語が生まれています。ナショナリズムの台頭もその一つ。
社会不安が増したり、経済状況が悪化したりして、人ぴとが自信や幸福感を
失うとアイデンティティーも揺らぎます。それを補うために、ことさら物語を
増幅させているのが今の世界です。これまでと大きく方向性の異なる安倍政権が
誕生したのは、新しい物語を語ってくれそうだという朋待が有権者にあるからで、
それが高い支持率の正体かもしれません。
 日本では、戦後続いた経済的な繁栄という物語が崩れた後、社会をまとめる
物語がなかなかできません。1990年代以降は、心の余裕がなくなつて、物語が
より内向きになっています。人は誰でも、より心地よい物語の方に惹かれます。
社会にはかって、本筋を外れてはならない暗黙の了解というか、節操があった
と思います。明るい未来が見えているときには、外に向かって積極的に開いて
いくことができたのですが、それが出来なくなってしまった。》
▼ 13年間で、5千近い文章、物語を書き続けてきたが、これが私を、更に
 内向けにしていた。これで、都合の良いように物語化して、都合の悪いことを
排除していたのである。混沌とするほど、それが大きくなっていくのを、冷笑
して、改めて読み返すのも、また、都合の良い物語である。小さく、小さく、
自己完結をしていただけだったのである。その知識を加えて、これからの文章を
書いていくしか、現在の私には術がないが。自己完結するから、次に進むことが
出来るともいえる。そういえば、単調な自己完結した日々を繰り返している
現状を、改めて考えてみようか? 読者の一部には、これが見えていたのだろう。 
今さら、自分は自分でしかない!と、思わなくては、ボキッと折れる。
・・・・・・
4426, 残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法 ー9
2013年04月29日(月)
        「残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法」 橘玲
  * 日本人は実は会社が大嫌い
 これまで年功序列と終身雇用の日本的システムこそが人々を幸福にすると
信じて疑わなかった。が、実はサラリーマンは昔から会社が大嫌いでガマン
して働いていただけ。それが出来たのは高度成長でパイが拡大していたため。 
バブル崩壊で景気が落ち込むと、日本的雇用制度が虚構の上で成り立っている
のが露呈してきた。 著者は、ここで、
《 大卒内定率が50%を下回るのも、3人に1人が非正規雇用になるのも、
 中高年のサラリーマンにうつ病が急増するのも、日本人がアメリカ人の2倍
(イギリス人の4倍)の割合で自殺するのも、すべて、機能不全を起こした
日本的システムから生じる同根の現象》という。誰が好きこのんで年功序列
終身雇用のラインにいるのではない。それなりの理由があるため。
  ーその辺りを抜粋してみるー
≪ バブル最盛期の1980年代後半に行なわれた、仕事の満足度に関する
 日米比較調査がある。おそらくほとんどのひとは、日本と米国のデータが
すべて逆になっていると思うだろう。この調査結果は衝撃的で、私たちの「常識」
を根底から覆す。カリブォルニア大学と南カロライナ大学によるこの調査は、
日本の厚木と米中西部イソディアナポリス地区の製造業七業種の労働者それぞれ
4千人あまりを対象とした大規模なものだ。彼らは日本と米国の仕事観に際立った
違いを明らかにした。
* 結局のところ「いまの仕事にどれほど満足ですか」との質問に対し、
 満足との回答は米で34%、日本はその半分の17・8%。不満は米では
 わずか4・5%に対し、日本はその三倍の15・9%にのぼる。
*「あなにの友人にこの会社であなたのような仕事を希望したら、あなたは
 勧めますか」の質問には、米では63・4%が友人に勧めると答えたのに対し、
 日本はわずか18・5%だけだ。逆に勧めないと答えたのは、米が11・3、
 日本が27・6%だ。
*「いまあなたが知っていることを入職時に知っているとしてこの会社の
 いま一度、この仕事につきますか」の質問では、「もう一度やりたい」
 との回答は米ではじつに69・1%、日本は23・3%と三分の一にすぎない。
 二度とやりたくない」は米ではわずか8%、日本は39・6%と回答者の
 四割にものぼる。
*「いまの仕事は、入職時の希望と比較して合格点をつけますか」に対しては、
 合格点は米33・6%に対し日本はわずか5・2%にすぎない。否定にいたって
 は米の14・0%に対し、日本は62・5%と過半数を超える。もういちど
 繰り返すけれど、これは雇用崩壊が騒がれるようになった最近の調査結果
 ではない。80年代は日本企業が世界に君臨し"ジャパン・アズ、ナンバーワン"
 と呼ばれた時代であり、一方のアメリカでは、家族経営を信条としていたIBM
 コダックAT&Tなどの大企業が次々と大規模なリストラに追い込まれていた。
 それにもかかわらず、アメリカの労働者のほうが日本のサラリーマンよりも
 はるかに仕事に充実感を持ち、会社を愛し、貢献したいと思っていたのだ。≫
▼ アメリカの平均的家庭はプロテスタントで、働くことの価値の宗教的
 裏づけがある。日本にあるのは、儒教朱子学の勤勉と、藩への滅私奉公の
意識ぐらい。それもアメリカの占領政策により、骨抜き。特に私は従属が大嫌い。
そのため会社に入らないで済ませるため、自分で会社を作る道を選んだ。
振り返ると、それが正解? 調査結果の内容は、国民の民度の問題でもある。
これでは経済の荒波が来れば、ヘチャルわけ。使われるのも大変だが、
使う方はモット大変。 * これらの質問の逆を考えて、何人肯定出来る? 
日本人と同じ比率? 肯定肯定、絶対肯定!と、感謝の言葉を繰り返す日々。
・・・・・・
4052, 閑話小題 
2012年04月29日(日)
   * ゴールデンウィーク
 ゴールデンウィークといっても、現在の私には関係ないし、敢えて人混み
の中に外出をすることもない。一般社会では、まとまった休暇は、この時期
しかないのが世の習い。大多数が行楽地に出かけたりするのを見ると、似た
ように動きたくなるのが人情。 ところで、現在通っているスポーツジムが、
この期間にオール・オープンのサービスを打ち出してきた。年中休みの私に
とって有難いことである。例年、ゴールデン・ウィークは昼か夜、隔日ごとに
外食するのが慣い。今年も何の予定も無し、サンデー毎日と同じ感覚である。 
5月の連休をゴールデンウィークとは、良い命名である。
  * 見切り千両
 撤収の決断のキーワードは、「見切り千両」である。 以前より節目では
「見切り千両」をキーワードにしてきた。見切りこそ生物的本能が生かされる。
攻撃の判断と、撤退の判断、この二つが決断の要。 そのためには経験と知識
の蓄積が必要。攻撃の決断より、撤退の決断は遥かに難しい。 
遅かったきらいもあるが、この時しかなかったのも事実。
  * 秘境の写真集とドキュメント
 趣味に、秘境・異郷の写真集とTVドキュメントを楽しむことがある。
(最近、秘・異郷ツアーに行ってないので写真で我慢もあるが)最近は、
もっぱらiPadで写真集にアクセスして見ている。 やはり一度、訪れた
ところが主になる。 一度行ったところは、それぞれの目線により対象が
違って見え新たな発見があり、その延長の旅を続けているような気持ちになる。
その点でiPadは便利。常に身近において置けるのでチョッとした豆時間
(隙間時間)に、開き見ることが出来る。質も大事だが、量をこなすことも必要。
多いほど、より対象により近づいていける。 現地で全身で情報を吸収すれば、
その後、情報は磁石のように吸い寄せられてくる。今ではネットから簡単に入手
出来る。 世界は面白いことで満ち溢れている。 やはり行動しなければ、
そして知識を満たさなければ!
 ・・・・・・・
3686, 自己を見つめる −10
2011年04月29日(金)
  * 孤独と愛について、    「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)
【 ー孤独の深さー 二ーチェによれば、落ち着いた人間の心のうちには
 「深い泉」があって、そこに石が投げ込まれても、その底に達するには時間
がかかるという。そうした人は、端から見れば,反応の遅い、退屈な人と見える
のだが、そうした人こそは、外からの刺激を深く受け止めて、よく考える人
なのである。 そうした人は、孤独のなかで熟慮する。
 西田幾多郎は、かつて、こう歌った。
ー わが心 深き底あり 喜も憂の波も とどかじと思ふ ーと。 
心の深い奥底は、そこに、すべての知情意の作用も、憂き世のあらゆる出来事も、
みんな呑み込まれて、沈殿してゆき、いわば底知れぬ深淵のまま、自己を支える
存在の根底としてどよめいている生命の大海、ないしはその尽きることのない
源泉なのである。その心の奥底を孤独のなかで見つめつつ、自己を照らす
根源的なものと面座する自己意識の極限こそは、 自己の知を越えて、自己の
存在そのものと融け合うであろう。】
【 ひたすら、いのちを慈しみ、優しく幼子をかき抱き、愛情の限りを尽くして、
子らのために献身する母性というものの記憶が、 人間における愛の心の象徴的
原点を形成することは否定できないように思われる。なぜなら、そうしたものが
あったからこそ、人類はこれまで、そのいのちの営為を継続して、存続することが
できたからである。おそらく、愛の根源は、象徴的には、そうした母性を介して
人間に植えつけられるところの、無償の贈与、そのひたすらな献身のうちにある
であろう。いのちあるものに恵みを与え、それを慈しみ、見守り、育て、その
無垢の胎動を大切にし、その侵すことのできない尊厳を守護しようとする、
いのちへの優しい気遣い、その存在の絶対的肯定、それが愛であると言ってよい。
 そうしたいのちの見守りの働きが、さらに拡大されて生きとし生けるすべての
ものに及ぼされて、あらゆるものをその存在意義において許し、承認し、助け、
生かし、守護し、見守り、育て、養い、その存在の至福を祈念する働きのすべてが、
 愛という語によって含意されることになろう。そこに、万物を生かすところの
神の愛といった観念も成り立つ。もちろん、そうした愛に、さらに厳しさも
加えられてこそ、万物の生成が初めて可能になるという観念も、やがて成立する。
シェリングの世界観などはその典型である。】
▼ 孤独と、そこに潜む愛の問題は人間の本質に根ざしている。 
「母の愛を介して人間に植えつけられる無償の贈与は、その献身の中にあり、
それが心底で象徴的原点を形成する」ことは、誰もが体験的に知っている。
その量と質が、人間性を決めてしまう。特に幼児期の両親の絶対愛が、人生の
原点になる。絶対量の少ない人は多い人の温みの起因を知ることがない。
 ・・・・・・・
3321, 「知の衰退」からいかに脱出するか?  −1
2010年04月29日(木)
 ー「『知の衰退』からいかに脱出するか? 」 ー大前研一 (著)
大前研一は、図書館や書店で手に何度か手に取るが、何か読む気がしなかった。
しかし現在の日本の行き詰まりなどをみるにつけ、「日本が変、それも異常な
ほど変である!」と思っていた矢先に、グローバルの世界の中で「茹で蛙の日本」
を徹底的に非難している内容をみて、読んでみることにした。保守的な人から
みたら、眼を剥いて怒るような内容が次から次へと出てくるが、現実に中国や
韓国の若者たちは、眼を輝かせて必死に勉強している割合が日本の若者に比べて
圧倒的に多い現実がある。 高度成長期の時代なら、解るが、低成長の時代に
生まれ育ちデジタルの時代の中で、情報だけは豊富にあり、偏差値でランク付け
を子どもの頃からされた若者の立場もわからないでもない。しかし、だから
ダメと諦めてかかっては、どうもこうもならない。これからのビジネスマンに
必要な三種の神器は、「IT」「英語」「ファイナンス」というのも、初めは?
と思ったが、21世紀には、当たり前といえば当たり前のこと。特に、
ファイナンスを挙げているのは良い。最後は、この辺である。日本の若者の相手
はネットの先の、世界の高IQ化した若者である。だから、日本の低IQ化した
相手を無視して、自分の得意とする分野でユニークなスキルを磨くことを勧める
ことこそ、若者の道筋である。「現在の日本の低IQ社会の一員になっては
ならない」ということ。 だから、私の知人の子弟が数人、高校から外国に留学
をさせているのをみかける。「寂しくないか?」と聞くと、毎日ネット電話で
顔を見て話しているので、全く感じないという返事。 それと、外国に行って
いると金銭感覚が、鋭くなるという。そうこう考えると、著者のいう三種の神器
を身に付けさせるために行かせているようだ。
・・・・・・・・
2946,タレント知事をどうみるか? ー2
2009年04月29日(水)
  佐高信は、タレント知事を完全に否定している。 
ー反対する理由はー
「タレント、つまり人気商売は常に多数に寄っていく宿命だ。だから知事に
 一番向かないのではないか。多数の人気に自分を預けていて、自分の意見が
 ありそうで、ない。例えば、東国原知事の国政への転出騒ぎがその象徴だ。
『みなさんが許すなら』という言い方だった。 自分に信念があって不人気
 でもやるということではなく、人気に寄りかかっている。橋下知事も反発を
受けることを断行しているように見えるが、常に多数に乗っかっている。
 政治家や行政マンに必要な信念があるようで、実はない」
ー知事に必要な条件とは何かー
「弱者の痛みが分かること。過疎を切り捨てない人。この逆をやった政治家が
 小泉純一郎氏だ。全体的に政治家の『小泉純一郎化』が進んでいる。タレント
 知事も同じ人気者路線に乗っかっている。喝采(かっさい)を浴びた小泉氏
 のまねをして県民に受けている。 政治や行政の本来の使命である『公共』
 という概念が忘れられるというか“殺される”と思う」 タレント知事は
 人気を利用した発言力が役立ってはいないかーPR係として雇えばいいだけー  
  (以下、字数の関係でカット2010年4月29日)
・・・・・・・・・
2582, 柳田邦夫の2.5人称の視点
 2008年04月29日(火)
 ー「人生の答え」の出し方ー柳田邦夫著 ー1
柳田邦夫著ー「人生の答え」の出し方ーに「2・5人称の視点」という言葉
があった。その意味を噛締めてみると、成程と合点がゆく良い言葉である。
学生時代のゼミで、色いろな人間関係の実例を取り上げ、それぞれ原因を探り、
解決策を討論する事例研究を一年にわたり徹底的に鍛えられたことがあった。
この本を読みながら気がついたことがある。それは事例研究から学んだことは、
一人称、二人称、三人称、そして一・五人称、二・五人称の視点の訓練を
させられたこと。 ーその二・五人称とは何か?を大筋書いてみる
一人称は、自分、 
二人称は、あなた、家族など身近な人、
三人称は、専門家、役人、ジャーナリスト等、客観的に。他人事とみる視点。
三人称は「事態を客観的に見る良さがあるが、悩んでいる、落ち込んでいる
     一人称、二人称からは冷たく見えてしまう」
そこで、三人称の人も二人称に歩み寄り、同時に二人称に埋没しない
「2.5人称の視点」を持つべきだと。1人称、2人称の視点だけでは感情に
走って冷静な判断が下せなくなる。といって他人事としての3人称の視点で
あれば、冷たく突き放す見方が優先する。求められるのは、1人称と2人称
を考慮に入れつつ3人称的な冷静な判断を下せる、2.5人称の視点が、
柳田邦男さんの「2.5人の視点」である。冷静・客観的な、それでいて
人間性豊かなかかわり合いを持てる人間こそ2・5人称の視点を持った人、
ということだ。二人称に限りなく近づくが、どっぷりと二人称になると、
冷静な判断かつ正しい処置ができなくなる。そうすると「1.5人称の視点」
「0・5人称の視点」「4人称、5人・・・称の視点」と考えてみた。
1・5人称の視点は、夫婦、親子、兄弟間のこととか・・0・5人称の視点は、
自分の中の神の目の視点とか、良心の視点とかである。 
ーそれにしても、0.5、1・5、2・5とは面白い切口である。
思いやる心、温かい心、慈悲、感謝、感激、愛する心などなどということか。