つれづれに

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

他のブログ
http://www.enpitu.ne.jp/usr5/54909/
http://horii888888.toypark.in/cgi-bin/s_diarys.cgi
http://d.hatena.ne.jp/horii888888/archive

今日のYoutube
 
 金曜日はシネマの日だが、休みで混みそうなので、家でテレビ映画にする。
今日の随想日記がトルコをテーマにしたため、ネットからトルコの写真を
コピーした。 今では、西欧圏?で、トルコが一番危険という。

 ゴールデンウィークも、サラリーマンにとって丁度良い飛び石連休。 
天気も、比較的、穏やかなようだが・・・ 


 ・・・・・・・
3686, 自己を見つめる -10
2011年04月29日(金)
  * 孤独と愛について、    「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)
【 ー孤独の深さー 二ーチェによれば、落ち着いた人間の心のうちには
 「深い泉」があって、そこに石が投げ込まれても、その底に達するには時間
がかかるという。そうした人は、端から見れば,反応の遅い、退屈な人と見える
のだが、そうした人こそは、外からの刺激を深く受け止めて、よく考える人
なのである。 そうした人は、孤独のなかで熟慮する。
 西田幾多郎は、かつて、こう歌った。
ー わが心 深き底あり 喜も憂の波も とどかじと思ふ ーと。 
心の深い奥底は、そこに、すべての知情意の作用も、憂き世のあらゆる出来事も、
みんな呑み込まれて、沈殿してゆき、いわば底知れぬ深淵のまま、自己を支える
存在の根底としてどよめいている生命の大海、ないしはその尽きることのない
源泉なのである。その心の奥底を孤独のなかで見つめつつ、自己を照らす
根源的なものと面座する自己意識の極限こそは、 自己の知を越えて、自己の
存在そのものと融け合うであろう。】
【 ひたすら、いのちを慈しみ、優しく幼子をかき抱き、愛情の限りを尽くして、
子らのために献身する母性というものの記憶が、 人間における愛の心の象徴的
原点を形成することは否定できないように思われる。なぜなら、そうしたものが
あったからこそ、人類はこれまで、そのいのちの営為を継続して、存続することが
できたからである。おそらく、愛の根源は、象徴的には、そうした母性を介して
人間に植えつけられるところの、無償の贈与、そのひたすらな献身のうちにある
であろう。いのちあるものに恵みを与え、それを慈しみ、見守り、育て、その
無垢の胎動を大切にし、その侵すことのできない尊厳を守護しようとする、
いのちへの優しい気遣い、その存在の絶対的肯定、それが愛であると言ってよい。
 そうしたいのちの見守りの働きが、さらに拡大されて生きとし生けるすべての
ものに及ぼされて、あらゆるものをその存在意義において許し、承認し、助け、
生かし、守護し、見守り、育て、養い、その存在の至福を祈念する働きのすべてが、
 愛という語によって含意されることになろう。そこに、万物を生かすところの
神の愛といった観念も成り立つ。もちろん、そうした愛に、さらに厳しさも
加えられてこそ、万物の生成が初めて可能になるという観念も、やがて成立する。
シェリングの世界観などはその典型である。】
▼ 孤独と、そこに潜む愛の問題は人間の本質に根ざしている。 
「母の愛を介して人間に植えつけられる無償の贈与は、その献身の中にあり、
それが心底で象徴的原点を形成する」ことは、誰もが体験的に知っている。
その量と質が、人間性を決めてしまう。特に幼児期の両親の絶対愛が、人生の
原点になる。絶対量の少ない人は多い人の温みの起因を知ることがない。


 ・・・・・・・
3321, 「知の衰退」からいかに脱出するか? -1
2010年04月29日(木)
 ー「『知の衰退』からいかに脱出するか? 」 ー大前研一 (著)
大前研一は、図書館や書店で手に何度か手に取るが、何か読む気がしなかった。
しかし現在の日本の行き詰まりなどをみるにつけ、「日本が変、それも異常な
ほど変である!」と思っていた矢先に、グローバルの世界の中で「茹で蛙の日本」
を徹底的に非難している内容をみて、読んでみることにした。保守的な人から
みたら、眼を剥いて怒るような内容が次から次へと出てくるが、現実に中国や
韓国の若者たちは、眼を輝かせて必死に勉強している割合が日本の若者に比べて
圧倒的に多い現実がある。 高度成長期の時代なら、解るが、低成長の時代に
生まれ育ちデジタルの時代の中で、情報だけは豊富にあり、偏差値でランク付け
を子どもの頃からされた若者の立場もわからないでもない。しかし、だから
ダメと諦めてかかっては、どうもこうもならない。これからのビジネスマンに
必要な三種の神器は、「IT」「英語」「ファイナンス」というのも、初めは?
と思ったが、21世紀には、当たり前といえば当たり前のこと。特に、
ファイナンスを挙げているのは良い。最後は、この辺である。日本の若者の相手
はネットの先の、世界の高IQ化した若者である。だから、日本の低IQ化した
相手を無視して、自分の得意とする分野でユニークなスキルを磨くことを勧める
ことこそ、若者の道筋である。「現在の日本の低IQ社会の一員になっては
ならない」ということ。 だから、私の知人の子弟が数人、高校から外国に留学
をさせているのをみかける。「寂しくないか?」と聞くと、毎日ネット電話で
顔を見て話しているので、全く感じないという返事。 それと、外国に行って
いると金銭感覚が、鋭くなるという。そうこう考えると、著者のいう三種の神器
を身に付けさせるために行かせているようだ。
・・・・・・・・
2946,タレント知事をどうみるか? ー2
2009年04月29日(水)
  佐高信は、タレント知事を完全に否定している。 
ー反対する理由はー
「タレント、つまり人気商売は常に多数に寄っていく宿命だ。だから知事に
 一番向かないのではないか。多数の人気に自分を預けていて、自分の意見が
 ありそうで、ない。例えば、東国原知事の国政への転出騒ぎがその象徴だ。
『みなさんが許すなら』という言い方だった。 自分に信念があって不人気
 でもやるということではなく、人気に寄りかかっている。橋下知事も反発を
受けることを断行しているように見えるが、常に多数に乗っかっている。
 政治家や行政マンに必要な信念があるようで、実はない」
ー知事に必要な条件とは何かー
「弱者の痛みが分かること。過疎を切り捨てない人。この逆をやった政治家が
 小泉純一郎氏だ。全体的に政治家の『小泉純一郎化』が進んでいる。タレント
 知事も同じ人気者路線に乗っかっている。喝采(かっさい)を浴びた小泉氏
 のまねをして県民に受けている。 政治や行政の本来の使命である『公共』
 という概念が忘れられるというか“殺される”と思う」 タレント知事は
 人気を利用した発言力が役立ってはいないかーPR係として雇えばいいだけー  

・・・・・・・・・
2582, 柳田邦夫の2.5人称の視点
 2008年04月29日(火)
 ー「人生の答え」の出し方ー柳田邦夫著 ー1
柳田邦夫著ー「人生の答え」の出し方ーに「2・5人称の視点」という言葉
があった。その意味を噛締めてみると、成程と合点がゆく良い言葉である。
学生時代のゼミで、色いろな人間関係の実例を取り上げ、それぞれ原因を探り、
解決策を討論する事例研究を一年にわたり徹底的に鍛えられたことがあった。
この本を読みながら気がついたことがある。それは事例研究から学んだことは、
一人称、二人称、三人称、そして一・五人称、二・五人称の視点の訓練を
させられたこと。 ーその二・五人称とは何か?を大筋書いてみる
一人称は、自分、 
二人称は、あなた、家族など身近な人、
三人称は、専門家、役人、ジャーナリスト等、客観的に。他人事とみる視点。
三人称は「事態を客観的に見る良さがあるが、悩んでいる、落ち込んでいる
     一人称、二人称からは冷たく見えてしまう」
  (以下、字数の関係でカット2015年4月29日)