「暴走する「世間」―世間のオキテを解析する」佐藤 直樹 (著)
   * なぜ日本の男はマザコンなのか
 世間が、そのまま家庭に入り込んでいるため、そこにあるのは甘えの構造。その延長を男は、酒場の
女将に「ママ」として求める。マザコンは、どこか乳離れしない母子関係の名残。 ーその辺りからー
≪ 一般に日本では、恋愛が恋愛として完結しない。恋愛関係はいずれ壊れるか壊れなければ「母子関係」
に移行するかのどちらかになる。奇妙なことに、日本の家庭で夫婦がお互いをよぶときに、「ママ」
「お母さん」や「パパ」「お父さん」がつかわれる。子どもが親をよぶときの名前が、そのまま夫婦の
呼称になっているのだ。これは、そもそも夫婦がお互いに個々の人格として向き合っているのでなく、
あくまでも子どもを媒介として向き合う関係であることを示している。そして面白いことに、飲み屋の
おねーさんや、バーの「ママ」、クラブの「ちーママ」も「ママ」である。つまり夫の場合、家庭の外に
複数の「ママ」が存在することになる。妻に家庭外に「パパ」がいることもあるかもしれないが、それは、
愛人関係など特殊な場合だろう。妻にとっては、家庭での「パパ」は、ただちに「父子関係」を意味しない。
だが夫にとっては、家庭内外での複数のママとの関係は「甘え」の関係であって「母子関係」を意味する。
ようは、男はいわば複数の「家庭」をもってることになる。さらに夫の側が、家庭は「癒しの場」や
「憩いの場」だというときには、根底にはこの「母子関係」がある。つまり、自分が癒される場所、憩える
場所だと考えている。しかし妻の側にとって、家庭はあくまでも「夫を癒してあげる場所や、夫を憩わせる
場所」なのである。そこにある癒される自分のちがいは決定的である。・・  阿部さんは日本では、
西欧のような「個人の時間意識」ではなく、「共通の時間意識」があるため、母親と子供の関係も、
母親が90,70歳でも、息子は息子であり、いくつになっても、母と子の関係が続く。 ≫
▼ 日本の夫婦間の喧嘩で常に妻から出る罵声が、『マザコン!』。外向きは亭主が上だが、内情は、
 妻のほうが上位にある。これは「母子関係」が、知らぬ間に夫婦間に移行したため。私など、マザコン
ファザコンの上に、4人の姉の存在もありシスコンが加わる。これが悲しいかな大家族の末っ子の宿命。
家の中は「憩いの場」は一切なく、常に緊張をした「集いの場」で、無言で大人しくするしかない。
そう自分とは、家庭内の他者と、家庭外の他者から、形づくられていることが分かる。
健全な家庭こそ、全ての基本になるが、ファザ、マザ、シスコンの歪んだ私が、健全の家庭をつくって
きたのだろうか? ところで健全な家庭って存在するのか? 程度の問題? マザコンファザコン
絡みあった二人が家庭をつくるのだから、それは大変なことである。
・・・・・・
4624, 夫婦格差社会 ー1
2013年11月13日(水)
 『夫婦格差社会 - 二極化する結婚のかたち』橘木 俊詔 (著), (その他)
図書館の中公新書のコーナーで、この本を手にとって、てっきり夫と妻との格差と思った。
私など今では妻との立場が逆転、家内の家に年金を収めて住まわせてもらっているようでもある。
ママ(ババ)リッチ、パパ(ジジ)プアーである。 ところが、これは家庭間格差の問題。
現在、パワーカップル(夫婦共に医師などの高学歴・高収入世帯)と、ウィークカップル(非正規労働同士の
低収入世帯)の二極化が進んでいる。嫌な話だが、学生時代の欧州旅行で知り合った友人たちの相手は、
誰もがつり合いのとれた?家庭環境で、間違えてもシンデレラ物語の相手でない。病院で、医師と看護婦の
職場結婚が案外少ないのと同じである。医師同士か、その収入レベルの出身者になる。女性の選択基準は、
学歴と、所得、家の資産状況、そして容姿になる。まずは互いに釣りあった条件の相手を求めるのである。 
卒業間近に「学生時代に伴侶を見つけるのが最良」と気づき、半年の間、友人に頼んで探したが間に合わず? 
今から振り返ると、居ないことはなかったが、それが誰かを判断し、決断する能力が無かった、ということ。 
それより、覚悟が出来たのが結婚をした27歳。 事業創業を目指す!と決めていたことが、相手の選定に
大きは壁になっていた。それと四人の姉と遜色ない相手の中で、なびく女性を探し出す能力と自信がなかった?
(シスコン?) やはり、一番面白い20歳から26歳に、独り者の方が良かった?と言える。
「結婚とは一人以外のすべての女性との(結婚の)可能性を捨て去ること」という格言も効いていた? 
二度とない、あたら青春を早そう捨てることもない。 人それぞれだが・・ 
  まずは ーアマゾン〜内容紹介ー
〔 格差が拡大しつつある日本。家族の最小単位である「夫婦」もその流れに拍車をかけている。
 さまざまなデータに基づき、日本の夫婦の今を探ると見えてくるのは、夫の所得と無関係に働くように
 なった妻の影響力の大きさ。医師夫婦に代表されるパワーカップルと、対極にある若いウィークカップ
 など、興味深い事例を紹介。 また、結婚できない人たちから、離婚、そして地域差まで視野を広げ、
 夫婦をめぐる格差を考える。 〕
ー目次ー 第1章:夫の所得と妻の所得            第4章:結婚できない人たち
     第2章:どういう男女が結婚するのか        第5章:離婚による格差  
     第3章:パワーカップルとウィークカップル     第6章:地域差を考える
▼ 目次からみると、日本の結婚像と夫婦像を分析する構成でなっている。東大卒女性104人の結婚相手の
 大学の内訳や、早慶卒の相手の学歴の傾向、中卒男子の相手の学歴?とか、離婚率は欧米では高学歴ほど高く、
日本は真逆とか、著者の教え子の女子学生?が補佐したこともあり、切り口が醒めており女性週刊誌的で面白い。
子供の頃から姉達や、実家が商売をしていた環境の中、若い女性に多く接して、年頃を過ぎた後の変容の激しさを
見てきたこともあり、選定には用心をしたが、その結果が? 互いに(●≧Å≦):(/ェ\。))である。
結婚は百人が百人、そうだから? 書けるが! ライオンのメス集団のボス・オス選び以上に、女性の場合、
結婚相手の選択にシビアになるのは自然のなせる技。世間でいう階層をアップする最初で最後の機会、自分の
特性を最大限にアピールをして売り込むしかない。それが、つり合いの取れたチョット上の相手になる。ーつづく 
  で、結果が、以下の文章になってしまう。 ーこれも、たまたま偶然だがー 
・・・・・・
4259, しまった!  ー8
2012年11月13日(火)       ーしまった! 「失敗の心理」を科学するージョゼフ・T・ハリナン (著)      
   * 人は、聞いた話を自分なりに綺麗に改変する  
≪ 学生の被験者に、ある物語を聞かせ、後で、その物語を語らせると、大きく歪曲する事実があった。
 問題は、その話の程度が予想を遥かに超えていたこと。 全談話の61%に情報の追加、省略、誇張、
最小化をおこなっていた。それを学生の42%しか、認めてなかった。それは学生が偽りだったとは思って
なかったことを示している。・・・ そのうえ、学生は話を聞き手の好みに合わせただけでなく、更に重要な
ことは自分の目的に合わせていた。特に面白い話の場合、大幅に誇張したり、うそを加えたりした。
後で聞くと、被験者の6割が、その話に嘘を入れていた。人は談話をするときには、情報伝達をする目的と
同時に、ある目的を達成する手段になるもの、という結果になった。その意味で、対話の目的とは事実を伝える
のではなく、印象を伝えることだと。もっと面白い作用は、聞き手だけでなく、話し手自身に対するもの。
語り手が自分の作り話を、何度か話しているうちに、作り変えた話が、その人にとっての記憶になるケースが多い。 
私たちは自分の嘘を本気で信じるようになるのである。更に悪いことに、本人に、その自覚がないことである。≫
▼ 私が小さな地域社会で、アウトサイダーに徹しているのは、これを知ってのこと。社会学を40年以上、
 独学してきたので、その馬鹿馬鹿しさを知っていた。逆に、それを独り楽しんでいる自分がいる。割切って
しまえば、これほど面白いものはない。B層の、さらに下のC層という何も考えない旧来の価値観から一歩も
出たことのない人たち。彼らにゾンビが多い。彼らは普通の風体をしているが、中身はカラカラの干物。 
水気が失われているため、真っ当な人間に対する語り部になるしかない。彼らの毒は、「作り話」として人に
襲いかかる。 襲われ、その毒に侵された人間は、その瞬間、ゾンビに変身する。そして地域社会の多くが
ゾンビ化してしまう。彼らは思考能力ゼロのため、その自覚も無く、屍の群れは今日も人を襲い続ける。
これが城下町レベルでなく、情報化の御蔭で全国区レベルになっている。
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3884, マネーボール ーシネマ感想
2011年11月13日(日)
 ブラッド・ピット主演の『マネーボール』を見てきた。最近、シネマが面白いのがたて続きで、先月から
今月にかけて映画漬け。内容の概略といえば、今までは、スカウトが見つけてきた有望選手を一流選手に育て
上げ、有能な監督が選手を有効に使って優勝に導く手法だった。それを実在のアスレチックスのGMの
ビリー・ビーンが「他のチームで埋もれている傷物に近い選手を一流選手の値段の数分の一で入団させて、
その強みを組みあせて有効に使う手法」を、考え出す。 そのため、当初は敗戦が続き、旧来のスカウトや
監督、選手、そしてマスコミからも袋叩きになる。しかし、ある時期からその理論通りにチームが20連勝を
達成をする。これでビーンは、現在のメジャーリーグの野球を根底から変えてしまった。それも、わずか
10年前の実話を映画化したもの。最近、弱小チームだったヤクルトが、監督交代と同時に優勝を争うチームに
変身したが、この理論に忠実に沿ったチームの立て替えだったかどうかは分からないが、みるみるうちに
逞しいチームになっていった。 また新潟の野球チームの前監督が、野村監督のデーター野球を引き継いで
いたのを買われて巨人入りをしたと報じていた。 過っての巨人のような一流選手を金でかき集めたチーム
編成で勝てる時代は終わったようだ。この映画を見た翌日に、巨人の騒動である。この数年のトレードの責任は
GMを兼ねている球団代表にある。特に外人選手のトレードをみて、GMの首は当然と思うのは私だけでないはず。
  ー 『マネーボール』のHPの内容紹介 ー
< メジャーリーグの弱小チームを“常勝軍団”に作り替えた男、ビリー・ビーンを題材にした
ノンフィクションを、ブラッド・ピット主演で映画化した「マネーボール」が公開された。
ソーシャル・ネットワーク」(2010年)でアカデミー脚色賞を受賞したアーロン・ソーキンらの脚本で、
燃える男ビリーと相棒ピーターの孤立無援の戦いが、抑制の利いたタッチで描かれる。 経営難の球団、
オークランド・アスレチックスは、スター選手をまたしても裕福な球団に引き抜かれ、ピンチに陥っていた。
ジェネラル・マネジャーのビリー(ブラッド)は、イェール大で経済を専攻したピーターを引き抜き、球界の
常識を完全に無視したデータ主義によるチーム作りに乗り出す…。打点や本塁打の数より、出塁率長打率
重視し、低コストで人材をかき集めていくビリーに対し、ベテランのスカウトたちから強い批判が集まる。
そのビリーには、かつて巨額の契約金を提示され、大学進学をあきらめてニューヨーク・メッツ鳴り物入り
入団、その後、芽が出ずに退団した過去があった。>
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3519, インターネットは20万年来の革命か? −2
2010年11月13日(土)
「一口に、インターネットは20万年来の革命というけれど、過剰表現では?」と思うのは誰も同じ。
人間が狩猟・採取から、牧畜・農業を始めて1万年、その20倍の20万年前に道具を本格的に使い始めて以来の
大革命、というから、いかにネットのツールとしての威力の凄いかである。 個々人の情報を写真、動画、論説、
つぶやき、などが発信も、受信も、気楽に出来るのである。やはり道具として20万年、200万年来の大革命である。
それに加えて端末機器が日ごと進化を始めて、止まることがない。 電子化は一度ソフトが完成すればコピーと
圧縮が可能。それをベースに次々と新しいソフトの追加が際限なく出来るため時間の経過とともに、進化していく。
フューチャリスト宣言」の対談で、梅田 と茂木 の次の一節がネットの明るい可能性を言いあらわしている。
   ーとにかく、明るい未来フューチャリストだから、読んでいても楽しい!ー
 茂木:  自分の人格を高めていく喜びは、おそらく人間が体験できる喜びのなかでも最も強く、深い喜びは
  ないでしょう。食べる喜びなど、おなかがいっぱいになれば終わりだし、性的な喜びも限界がある。 
  それに対し学ぷ喜びは限界がない。インターネットというものが、「学ぷ」という最も根源的な、終わりのない
  喜びを大爆発させる機会を与えている。まさに、「知の世界のカンブリア爆発」です。しかも、一部の
  特権的な人だけにでなく、あらゆる人に、発展途上国の人にも、その可能性が広がっている。
  基本的な認識はそこで、人間の脳の報酬系強化学習のプロセスに作用する。
 梅田: なるほど。言語を獲得したときも、脳が喜んだわけですね。
 茂木: 要するに、それが現れたことで脳の使い方がまったく変わったもの、ということで、「言語以来」
  という言い方が成立するのではないか。 言語によって脳の使い方が劇的に変わったんだけど、インター
  ネットによっても変わるポテンシャルがある。 でも、まだその可能性にまだみんなあまり気付いていない。
 茂木: 人間は快楽主義だから、楽しいことをどんどんやろ・・とする。思っている以上に変わるかもしれない。
  ほんとうに素晴らしい機会がいま訪れていますよね。動画でも何でも、たとえ大学の講義のようなものでも、
  タダに近いかたちで入手できる。そういうときに大学などの既得権益を保持する側がどういう反応を示すか。
  でも、長い歴史の中で人間の社会は必ず学ぶ喜びを青天井に開放する方向に変わると恩います。
〜〜
 ネットが、ほぼ無料で、知識を世界中から簡単に入手できるツールになったこと、そのことが20万年来の革命。
ネットが出現して15年、本格的に普及をはじめて7〜8年で、もう一つの世界をつくり上げた。ネット販売が僅かな
時間で百貨店、コンビニの総売り上げを超えてしまったこと一つをとっても分かる。 当方のホテルの三割近くが
既にネット経由からの予約。また私の書籍購入の八割がたはアマゾン。小型の電器製品もほぼネットから購入。
これは20万年来の革命的ツールと仮説を立てると、まさしく符合する。ここでも脳学者が言語で脳の使い方が
変わったのと同じく、ネットで脳の使い方が変ると述べていることを考えると、ネットは200万年来の大革命
というのも納得いく。これがリアル世界を根底から変化させている犯人。
  ・・・・・・・・
3144,「法則」のトリセツ  ー5
2009年11月13日(金)
  * フェルミ法則
 ーネット辞書「ウィキペディア」によるとー
フェルミ推定とは、実際に調査するのが難しいようなとらえどころのない量を、いくつかの手掛かりを元に
論理的に推論し、短時間で概算すること。名前は物理学者のエンリコ・フェルミに由来する。フェルミ
この手の概算を得意としていた。フェルミ推定コンサルティング会社や外資系企業などの面接試験で用いられる
ことがあるほか、欧米では学校教育で科学的な思考力を養成するために用いられることもある。Google社や
マイクロソフト社でも、入社試験問題として出題されたことがある。フェルミ推定という語句が日本に入って
きたのは、『広い宇宙に地球人しか見当たらない50の理由―フェルミパラドックス
(スティーヴン・ウェッブ著、青土社、2004年)が最初だろう。ただしこのような考え方自体は大学の授業
などで教えられていた。例えば「東京都内にあるマンホールの総数はいくらか?」「地球上に蟻は何匹いるか?」
など、見当もつかないような量を推定する。フェルミ推定で特に知られているものは、「アメリカのシカゴには
何人のピアノの調律師がいるか?」を推定するもの。これはフェルミ自身がシカゴ大学の学生に対して
出題したとされている。この問題に対して、次のように概算することができる。 まず以下のデータを仮定する。
・シカゴの人口は300万人とする    ー>     ・シカゴでは、1世帯あたりの人数が平均3人程度とする
・10世帯に1台の割合でピアノの保有している世帯があるとするー>・ピアノの調律は平均して1年に1回行うとする
・調律師が1日に調律するピアノの台数は3つとする   ー>・週休二日とし、調律師は年間に約250日働くとする
・そして、これらの仮定を元に次のように推論する。  ー>・シカゴの世帯数は、(300万/3)=100万世帯程度
・シカゴでのピアノの総数は、(100万/10)=10万台程度 ー> ・ピアノの調律は、年間に10万件程度行われる
・それに対し、(1人の)ピアノの調律師は年間に250×3=750台程度を調律する
・よって調律師の人数は10万/750=130人程度と推定される
 フェルミ推定では、前提や推論の方法の違いによって結論にかなりの誤差を生じることもある。
  〜
 以上のような推定と実際の数値が、変わりないというから驚いてしまう。先日、新潟駅南のジュンク堂
フェルミ法則の事例訓練」の本があった。迷ったが買わなかったが、面白そう。推論の訓練も面白いだろう。
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2779, アメリカは、どう転んでも、最小の損失!
 2008年11月13日(木)       
 こういう微妙な時期には「産経新聞」「毎日新聞」の論説の方が、読売、朝日、日経より筆先は鋭い。
サブプライムローンの問題の深さを解りやすく説明しており、民主党オバマのスタッフが、クリントン時代の
面々が返り咲き、国債の「奉価帳」を回してくることを予測する。今度の緊急サミットも、そのために使われる。
アメリカの消費バブルと、中国が生産バブル、そして日本が金利ゼロの金融供給のバブル、それが一挙に破裂した
ことを解りやすく書いている。一番の加害国のアメリカは、実際のところ、大恐慌になっても、ドルもアメリ
国債の価値が失墜しても、あまり困らないのである。損失は紙代だけという穿った見方もできる。 困るのは、
紙を溜め込んだ日本と、中国、そしてアラブの連中だけ。だから、アメリカの脅しにのり、更に紙を引きうけ、
セッセと生産品を送り続け泣けれならないのである。 その結果、待っている事態は、戦争であある。   
−まずは、その内容から   (字数の関係で中間カット2009年11月13日)
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2007年11月13日(火)
2415, 閑話小題        才ノヽ──d(∀`d*)─(*b´∀)b──
 *古着の処分*
今まで、古い背広を思い切って処分をした記憶がない いや、数年前に処分したつもりであったが、
よく見たらまだ何着もあった。  (字数制限のためカット2010年11月13日)
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2006年11月13日(月)
 2050, あたりまえなことばかり −6       \(≧ロ≦\)オハヨウ! サン
 著者の幸福論もシンプルで解りやすい。幸福など観念でしかない、観念をカタチに求めるから
‘こんなはずではなかった’という結果になってしまうのである。それはあれ等、軽いタレント同士の結婚の
破局をみれば分かることだ。家庭内を含めると半数以上の夫婦間が破局するのも、このような無知からきている。 
まあ、相性もあるが・・ 幸福論は、格言以外あまりまともには読まないが‘付随してくる感情か、自分を
納得させるための方便’にしか考えてなかった。この著では、タレントとか有名人の表層の幸福のカタチは、
動物レベル?になるが・・ コミックとしてしか誰も観ていないか、いやまともに見ているから恐ろしいのか!   
「あたりまえなことばかり」
 ・ 幸福はどこにあるのか ー 
何ものでもない心の状態としての幸福というのを、ほとんどの人は物質に似たものとして人は思い込んでしまう。
人は「思い込みの動物」である。 動物存在として「カタチあるもの」をのみ幸福と思い込むのは自然である。
そのレベルでは、目に見え、触れるもののみが存在する。生存するために存在する。しかし動物は、そのような
自身のありように自身のありようを問わないであろう。人間のみが、その生存において、自身の孝・不幸を問う。
このとき、その理由によって孝・不幸は一つの思い込みになる。カタチあるものを、カタチない孝・不幸と
同じように、カタチないものを、カタチあるものに孝・不幸を求めてしまう。カタチなきものを、カタチある
ように思い込む、 の思い込まれる思い込みを、通常は「観念」という。孝・不幸もその意味で観念である。
幸福とは何がしかカタチないものと予感しながら、カタチ無いままにさせておくことが出来ず、何がしかの
カタチあるものとして捉えては、捉われる、とか。例えば、カタチなきものであるはずの「愛情」を求めようと
して、人は結婚や家庭というカタチを求める。あるいは、カタチなどあろうはずが無い「自由」を求めようと
して、「自由」「自己実現」というカタチを求める。はたして幸福でない心に、幸福な生活があり得るだろうか。
心は、いわば分母の一のようなもの。 (字数の関係でカット2011年11月13日)