「暴走する「世間」―世間のオキテを解析する」佐藤 直樹 (著)
   * 『プチ世間』 ー小さな大人の世界の誕生
 30年前、息子を見て時代が大きく変わってきたと思ったが、スマートフォンが普及した現在、
更に子供が大きく変って、私たちとは断絶した別生命という感がする。考えてみれば、私より
50〜60年も長生きをするのだから、違って当然。  ーその辺りからー
≪ 日本では、一九八○年代にはじまり、九〇年代以降本格的に「小さな大人が登場した。 問題なのは、
子どもが市場経済に巻きこまれ、子どもが大人とほとんど同じ消費生活をするようになって、子どももまた
大人と同様の「世間」に生きることになったことである。つまりそれまでは、子どもには子どもの世界があり、
それは大人の「世間」とは相対的に独自の世界であった。しかし子どもが「小さな大人」になることによって、
子どもの世界も大人の世界と地続きになり、子どもも小さな「世間」として「プチ世間」に生きることになった。
要するに子どもも、「世間」に生きる大人と同じような困難な問題に直面することになった。
 一九八○年代以降大きく変化したことといえば、子どもが「小さな大人」になったことだが、八○年代後半
以降の「いじめ」の発見は、おそらくその変化を大人たちが敏感に感じ取った結果を反映したものといえる。
 大人たちは、子どもの世界に何か大きな変化がおきていることに不安をもち、子どもを把握できないという
その不安が、子どもの世界をより強く監視管理する方向に動かしたのだ。それまで、大人の世界とは相対的に
独自のものであった子どもの世界のいじめは、無視や、嘲笑や、からかいや、脅迫や、リンチなどといった形で、
個別的にとらえられるものであった。しかし八○年代後半以降、子どもの世界は大人の世界と地続きとなり、
子どもの「プチ世間」が登場した。(略)・・・ この問題の解明への手がかりは、現在の少年たちの
「つながってなくちゃなんない症候群」にある。  ーある調査官はつぎのようにいう。
「今は中学生はもちろん小学校高学年ごろから群れていないと不安で、そこにしか生きる世界がないんです。
行動規範は仲のいい友だちグループの中だけで決まって、そこから弾き出されたら生きていけない。
それは、とくに女の子にひどいです。三人グループでいたのが外れたら教室にも居場所がなくなってしまう。
そんなふうに、たがいが縛り縛られ合って、やれ携帯だメールだという‘つながってなくちゃなんない症候群’
がいよいよ強まっていますから、自分の時間なんか持ちようがない。逆に言えば一人で行動できないようになって、
それがフツーの子として安心できる状態になっているのが現状なんです」
                 (小林道雄「感受性の未熟さが非行を招く」『世界』二〇〇一年一月号)≫
▼ 大人になるまでの、基礎知識や、精神的体力がない子供が、プチ世間の中で、子供たちは群れてないと、
 つながってないと、不安で息づまる窒息感に悩むことになる。垣間見れる孫世代に背筋が寒くなることがある。
この「つなっがてなくちゃ症候群」が、世間の正体でもある。島国で、水に恵まれた日本の閉鎖された環境を
背景にした世間こそ、全てと勘違いをするのは当然だが。これにネット上世間?で雁字搦めになっているのが、
現在の女こどもの世界。これが21世紀の世界の一端ということ! 使いこなせれば、思いのほか面白いのでは?
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4621, 2000年前のポンペイー7
2013年11月10日(日)
   * ポンペイの迷子
 二回目のポンペイで、あわや迷子になりかけた。1989年に会社でスペインツアーに行った帰路のローマで
フリーの一日。20数年ぶりに再びポンペイを見たくなり、オプショナルツアーに参加した。ところがバスに乗ると
日本人は私、一人だけ。往路の高速道路が大事故で渋滞。おまけに前日、ルーマニアのチャウセスクがクーデターで
殺され車中に殺伐とした雰囲気が漂っていた。で、ポンペイ。 急ぎ足で、まわっているうちに、グループから
はぐれてしまった。そこは、世田谷と同じ広さ。直ぐに見つけなければツアーバスで帰れない。背筋が凍りつく
思いで、駆けずりまわった末、辛うじてグループを見つけた。帰りのバスで、「あのまま、はぐれていたら、
翌日のローマの出発に間にあわなくなっていた」と、考えたら脂汗が出てきた。ツアーとて、決して甘くはない。
 ところで、三回目のポンペイで、家内がツアーからはぐれてしまった。それも、夕刻。バスが次の目的地パレルモ
に向けて出発しようしたが家内が居ない。トイレと思っていたが、途中ではぐれていたようだ。その時の、添乗員と、
イタリア人ガイドの慌てようで、ことの重大さを知った。ところは南イタリア、それも薄暗くなりかけた遺跡である。
館内の職員全員と、警察のパトカーが駆けつける大騒動。一時間以上ほど探したが見つからず、添乗員が、まさかと、
移動予定の一時間先のホテルに電話をしたところ、本人は着い部屋にいるという。はぐれた直後、暫くそこにいたが、
心細くなり、他の団体の後について、出口に出た。そこで、待ったが見当たらず、近くのGSで、事情を事情を
話している時、たまたまタクシーが来た。そこでアマルフィーまで値段交渉をして、宿泊先のホテルに行ったという。
 直ぐにホテルから添乗員の携帯に電話するのが、当然だが、動転していて、ただ、ボーッとしていたとか。
バスで待っている間、ツアー仲間の冷たい視線の中、ひたすら待つしかなかった。 家内は、殆ど娑婆経験が無く、
万一の備えの観念が皆無。旅行中には、まずは添乗員から目をつけられる。彼らは、そういう人を数人、把握。
二割の人が、八割の問題を起こすことを学んでいるからだ。移動とか食事時間に、常に遅れてくる。40回近く、
数百回、注意しても治りはしない。以前もアテネの・・ これだけ迷惑をかけても、翌日の夕食時間に遅れる
のだから、大したもの。で、夫婦連れのツアーは、途中から、別々の単独ツアーになっていく。一つだけ自慢が
出来ることは40回近くの夫婦連れ海外旅行経験。 今までのツアー仲間の最高が8回。その間に、二人の間に、
自然発生的にルールが出来ている。「互いに(単独旅行者と割切り)頼らない」こと。何度もツアー仲間に、
「どういう御関係ですか?」と聞かれている。移動と食事以外は、単独でいるため。これまで二組、夫婦別室がいた。
そこまでは、してない。これも慣れと訓練!その時、懲りない家内に「ざまをみろ!」という気持ちが何処かにあった。 
が、誰かに見透かされていたようだ。で、一日もしないうちに、全てを忘れ、彼方此方で笑い声を上げていた。 
 (*∠_*) ダカラドーシタ。で、人は生きられる! で、以下の内容に続く! 偶然だが!
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4256, しまった!  ー5
2012年11月10日(土)                 
  * 後悔の歪み   ー しまった! 「失敗の心理」を科学する ー ジョゼフ・T・ハリナン (著)
人生、振り返ると後悔することがあまりに多い。その後悔が次の行為の壁になり消極的人生を過ごしてしまう。
反省はよいが、後悔は程々に、である。トラブルも失敗も生きていればこそ。―その辺りを抜粋して考えてみるー
≪ 失敗を裏づける証拠が増える一方なのは、意思決定における「感情」、とりわ後悔の念が果たす微妙な大きな
 役割について。人は誰でも、引き出した結果を悔やむ状況に立たされ続けている。結婚の失敗。故障しがちな車。
処分できなかった不動産。しかし同じ後悔のなかでも、「後悔する優先順位」というのがある。後悔の深さの差から、
なぜ人は最初の直感にしつこくこだわるのか、その理由が見えてくる。 一般に人は「不作為」よりも「行為」に
対して大きな責任を感じるものである。誤りを犯しそうなときは、むしろ「行動を起こさない」という誤りを
犯すほうを選ぶ。 というのも、不作為は受け身のできごとと見られがちだからだ。 自分は何もしなかった、
だからその結果に感じる責任も小さい、というわけだ。1600人以上の大学生による模擬試験の観察から、
観察者は、先行研究で発見されたのと同じ誤りとを発見した。答えを変えた受験者は、たいがい点数を上げていた。
変更された全解答をカウントして分析したところ、誤答から正答への変更は、正答から誤答への変更を二対一の
比で上まわった。 だが、もっと重要なことは、実験後の学生との面談から明らかになった。
「正答を誤解答と変える予感は、誤答を正答に変え損ねる予感よりも大きな後悔をもたらしていた」のだ。
つまり、何もしないほうが、何かをするより後悔しないで済む、ということだ。どのみち誤答してしまうとしても。≫
▼ 人は、しなかった後悔より、実際にしてしまい失敗した後悔により捉われる傾向にある。実際に、この実験の
 とおり、私の具体的経験を振り返っても同じことがいえる。やらなかった後悔は、実際に失敗した後悔の数倍の損
失のことが多い。しかし実際ところ、止めて致命傷にならないで済んだことも多くあった。事業結果がこうだとしても、
後悔をしていない。原因がハッキリしているためだが、全身全霊を注ぎ込んだこともある。思った通り、生きて
なかったら数倍、いや数百倍も後悔していたはず。 海外旅行は、起こりえるトラブルが全て起こると覚悟を
しておかなければならない。「良いこと2に、後悔すること1」の比率で、通常生活10倍が圧縮して生じてくる。 
そう割り切ってしまえばよい。「正答を誤答へ変える予感に従うと、正解する確率が二倍になる」のと同じ比だが・・
少し意味が違うか。人生も同じことがいえる。 刷り込まれた思い込みを間違っていると直感しても、その修正に
よる失敗を恐れ、大事な人生を棒に振る。 修正した方が正しいと分かっていても、である。だから計画をたて、
準備を充分するのである。結果は、それまでの経験の色分けを変色し、その歪を大きくする。それにシタリガオ
批判の歪が加わり自滅してしまう。
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3881, 閑話小題 ースロータイムの勧め
2011年11月10日(木)
    * のんびり、ぼんやりといこか〜   ー スロータイムも悪くない!
 第二か、第三の人生のキーワードは何だろと考えると、「ぼんやり、のんびり、のびのび、ほのぼの」という
言葉が浮かんでくる。あまり、のんびりすると、ボケてしまう?。 数十年も緊張の連続の後、これからの人生は、
せめて一日のうち数時間でも、のんびりし、ぼんやりすることも必要だろう。この随想日記を毎日書き続けるのも
結構、緊張をする。スケジュールに沿って生活しているので、一日中は、ぼんやりしていられない。一応、午前中は
スケジュールを満つにして、午後はフリーにしている。最近、「アングリー・バード」という子供向けのパソコン
ゲームで、午後の一時間は遊んでいるが、これも、のんびりの範疇。無意味=無価値の時間を遊ぶことも必要?
「定年になったら女房と、のんびりと世界一周をしたい」というのを聞いたことがある。地方で装置産業を事業
としてきたので比較的に時間があった。しかし、のんびりしてきたか?と言えば、そうでもなかった。
しかし節目が変わって、価値観がコペルニクス的に変わり、のんびりする時間が多い人生こそ最大の収穫と思える
ようになってきた。 ところで栗田昌裕の指回し体操で「 さわやか、まろやか、のびやか、晴れやか、ほのぼの 」
とブツブツ言いながらする健康法があるが、これを「ぼんやり」とすると良い。積極的幸せの追求は、さておき、
消極的幸せの追求に重心を移動する時節でもある。積極的幸せとは、自分の趣味を追及するとか、人に認められる
ような事、人のためになる事を、追求すること。 消極的幸せとは、病気や事故にならないように、人の迷惑に
ならないようにとか、まずは普通の生活を確保して、それに満足する生き方、無事平穏こそ幸せ、と信じる生き方。 
第二の人生は現状を、これで良しと諦念する生き方?。 年寄りっぽくなってきたが・・ 「歳には勝てない」
として生きるか、原野に留まり自分の価値を高め続けるのか、その人次第。それも、生活が安定した上の話になる。
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3516, インターネットは20万年来の革命か?
2010年11月10日(水)
 10年ほど前に、「ネットは人類の歴史で20万年以来の大革命である」と聞いた時、20万年前は、
言葉か絵画の出現では?と勝手に思っていたが、先日になって、それが「道具」と知った。
 ■一万年前に狩猟・採取から農業・牧畜が始り、■5千年前に5大文明が世界各地で起こり、
 ■250年前に蒸気機関が発明され、産業革命が起きた。■そして人間が道具を使うようになったのが20万年前。
 ■脳学者の茂木健一郎は、ネットは言語以来の発明というから、200万年以来の発明ということになる。
* 200万年の言語というと、掴みどころないので20万年の道具説以来の発明の方がよい。そして、この十年でネットが世界中に
結ばれ、検索にキーワードを入れると世界中からの情報が入ってくる。さらにブログやツイッターが普及し、各自が情報を無条件に
公開を始めたため、情報が爆発的に増えている。ネット世界の出現で、もう一つの世界が出来たといわれるが、それが現実世界の
上位に立ち始めたことからみて、20万年来の革命的ツールという説も、言葉使用からの200万年説も、決してオーバーとは
いえなくなってきた。そのネットと最先端電子機器が世界を根底から覆していることを、あまり取り上げない。
今さらなのか? しかし現実を見ていると、機器とソフトが独走をして一部の人間を除くと、コントロール不能になり、
政治、経済のあり方を根底から変化させている。政治ひとつとっても、直接に政治に関りない国民の方が、渦中の政治家より、
正しい判断が可能になっているとか、思いもよらない情報が表ざたになるとかで社会を大きく変えてしまった。
現在問題になっている尖閣列島の中国漁船ビデオの流出も、それを阻止すること自体がどだい無理の話。一人の海保職員が
政治を大きく左右することが容易になっているのも、ネットのため。これらによる社会変動は、まだ始ったばかりで、
時間の経過が経つほど大きな影響を出してくることになる。 再度いうが、TV、携帯電話、パソコンなどの進化には驚かされる。 
問題は、それをどう使いきるかである。  まさか、これを現実に目の当たりにできるとは!
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3141,自分の年齢から時間の長さを考えてみる
 2009年11月10日(火)
産まれて、あと二ヶ月で64年経つが、遥か彼方のようでもあり、それほどでもない感覚でもある。
20歳の人からみたら、大昔に感じるだろうし、90歳の人からみたら、それほどでもないだろう。
そこで自分が産まれた時点から、逆に64年前を考えてみると、128年前、1881年、明治14年である。
私の祖父が、この頃は10歳位になる。  それを考えると、やはり遥か彼方である。
 この年を調べると、
・外国の動きでは、ロシア皇帝アレクサンドル二世暗殺
明治天皇、東北、北海道巡幸御発輦
黒田清隆大隈重信の国会開設早急論に反対し、三条実美に趣意書提出
 大隈重信、参議を罷免(明治14年の政変)   国家の形が出来始めたころだ。
この64年間に第二次世界大戦朝鮮戦争、米ソの冷戦、中国の文化革命、ソ連の崩壊、9・11テロ、
そして、去年の9・15から始った金融恐慌である。そして眠れる獅子の中国の時代がやってきた。
また、時代とともに家電機器やパソコン、そしてインターネットの飛躍的な進歩で情報社会が
劇的に我われの生活を変えようとしている。もちろん、変わらないものがあるが、潮流は飛躍的に変っている。
三倍の200年の時代を経験してきたようだ。 特に、この20年の変化は劇的であった。
とはいえ、私の産まれる前の64年間には日清・日露戦争、5・15、2・26事件、昭和の大恐慌、東京大地震があった。
世界でも第一次、第二次世界大戦世界恐慌があった。 世界は激動していたのである。
 80歳を一つの目安とすると、あと16年。10年間は恐慌の嵐が吹き荒れる環境で、日本がダウンサイズし、
中国が勃興するプロセスを目撃することになる。また、ITなどのネット社会への激変も目撃することになる。
64年間、十分に世界を見てきた満足感はある。 長生きしなければ、世界の変化を充分に見ることは出来ない。
 少し、酒でも控えるか。 もう、遅い? 戦争で兵隊を経験し、戦中を乗り越えてきた80歳後半の人は、
本当に長く生きてきた実感はあるだろう。 彼らは変化を受け入れ、冷静に見ているから、なお、
時間の長さ・短さを実感しているだろう。  これだけ激しい変化を目撃するとは、実際思ってもいなかった!
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2776, 仮説思考 −3
 2008年11月10日(月)
「仮説思考」で、この金融危機を掘り下げて考えみる。
「この一連の金融危機世界恐慌の序曲である。」と、仮説を立ててみる。
(「もうこれは仮説ではない! 現実である」という私の内なる声は無視する)
  −−その仮説から考えると−−
「1929年の世界恐慌と比べて、今回の方が遥かに規模が大きく、タチが悪い」と世界恐慌・研究の米国人経済学者が
インタビューに答えていた。 経済危機としては歴史的にみて最悪の事態であり、5年や10年のスパンで収束しない事態。 
その最大の被害者は一番の友好国である、イギリス、イギリス連邦、日本、サウジアラビア
次は体質のまだ弱いUCの国々、ロシア、中国である。アメリカの毒入債権を金融機関や個人が多く保有しているからである。
 アフリカ系のオバマが、いくらチェンジといっても、それは口先だけのこと、実際はあまりにも大きな壁があり、
早期回復など有得ない。 そうこう考えると、この10年は想像を絶する事態が待ちうけ、世界戦争につながる可能性が大。 
「地球システム」の立場からみれば、この狂った猿の自滅が始っただけで、むしろ有益である。 
今年の暮から来年にかけて世界中が一挙に不況風が吹き荒れ、倒産ラッシュは避けられない。
5〜6年先には、食品が二倍に値上がり(もっとか?)、消費税が25%、株は5千円以下、土地の値段は現在の半分か三分の一。
生活レベルが現在の半分以下とみればよい。 それでも40年〜50年前の生活に戻るだけである。 
それがどうしたといえば、どうもしない。 この予測が悲観的ではなく、現実的な予測。そうなりざるを得ないだけ。 
企業には成長対策、競争対策、生存対策、将来(長期)対策があるが、生存対策が最優先の時代の到来になった。
 今回の問題は、これまでのドル体制が根こそぎ崩壊していくサインである。
更に悪いことに、ユーロも崩壊に近い状態であり、今後の新しい金融システムの未来像が見えてない。
そうこう考えると、世界は欧州、アメリカ、アジア、アラブ圏などの、ブロック化の傾向が強くなる。
その中で日本は、どのブロックに入っていくかが戦略的大問題になる。 
 今週末のサミットは異常事態の中での緊急に開催されるが、「驚くべき声明」になる可能性もある。
各国が同時に非常事態を宣言する可能性とか、一時的な銀行閉鎖もありえる。 
世界はキセズシテ激動期にはいったのである。 日本でも、世界でも、大地震津波やサイクロンが発生するし、
異常気象が発生している。 この世界的危機を含め地球システムそのものの変調が原因とみるべきである。
 ▼ 以上が、この異常事態を「世界恐慌」と仮説?して書いたものである。成るほど、書いていて基点が明確であるので、
   どんどん言葉が出てくるし、掘り下げて考えやすい。                    つづく
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2007年11月10日(土)
2412, 暴対法について       ○( ̄ ̄ ̄ ̄o ̄ ̄ ̄ ̄)○ おっ W( ̄ ̄ ̄ ̄∇ ̄ ̄ ̄ ̄)W は〜
また、九州で暴力団の素人を巻き込んだ殺人事件があった。こうなったら「暴力団対策庁」を「警察庁」から独立して設立すべきである。
暴対法が出来てまる15年、その社説が先日の産経新聞に出ていたが、この法律が出来てから見るからに暴力団風の男の宿泊は激減した。 
またクラシックなパターンのホテルへのカツアゲも殆どなくなった。開業以来ほぼ強請り取られた経験はないが、それでも現場は常に
緊張感に包まれている。地元の暴力団は比較的に大人しいが、それでも数年に一度はニアミスを起こしそうになる。
(字数制限のためカット 10年11月10日)
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2006年11月10日(金)
2047, あたりまえなことばかり −3
      オッ(*^○^*)ハ〜       ー 読書日記
難しいことを、わかりやすく書いてあってよい。 考えることは数多ある娯楽の中で一番面白いと・・
如何にわかってないかをわかること、無知の知の自覚こそ哲学の原点という。そして「きちっと考えれば悩まなくなる」
  (字数制限のためカット 13年11月10日)