「2050年の世界 ー英『エコノミスト』誌は予測するー」〜英『エコノミスト』編集部 (著)
第九章 おぼつかない自由の足取り ーのまとめ
・民主主義は、先進国と自由主義国で後退し、後進国と独裁国で前進する。
・中国は、一党独裁国家ならではの脆弱性に直面しなければならないだろう。
インドは、複数政党制ならではの欠点と挫折に苦しめられるだろう。
・一党独裁の政治体制のもとでは、民主主義という言葉は、人々がウェブなどを使って反政府活動をする共通の
キャッチフレーズになりうる。
・逆にある程度の民主主義が保証されている国では、複数政党制のなか、ロビイストの暗躍や、圧力団体と官僚、
政治家との癒着腐敗、政府の巧妙なマスコミ操作など、民主主義ゆえの欠点が見えやすくなっている。
・前者を中国、後者をインドに当てはめればわかりやすい。中国では民主主義が前進し、逆にインドでは、
複数政党制ゆえの混乱で民主主義は苦しむことになる。
・民主主義のアキレス腱は二つある。ひとつば金で、ひとつは選挙に対ずるさまざまな形のバイアスのかかり方である。
・第一のアキレス腱は、企業や企業の圧力団体が、政治家に献金をし、規制当局に圧力をかけるということだ。
・第二のアキレス腱は、民意がマスコミ、等を通じて操作されやすいこと。ウェーブの力はそうは言っても限定的で、
マスコミはさまざまな形で情報操作を受けている。
・こうした民主主義の脆弱性を補う一手段として、法の支配の貫徹がある。
・さらに他人のことを思いやる「公共心」が、この民主主義の欠陥を補う。
・しかし、二〇五〇年までに、すべてを効率と個人の利益に換算して考える「経済第一主義」とこの「公共心」が大きな
対立事項となり、民主主義を揺るがしていくことになる。
▼ 民主主義が果たしてネット社会でベストの政治体制だろうか?という疑問が出てくる。ある意味で、法による
絶対的な支配も必要になる。特に、この変動期において考えなければならない問題。世界は、ある一握りの
権力者で支配されているという。実際のところ、そうだろう。自由、平等、博愛が、民主主義の前提にある。
しかしグローバル化には、その前提を受け入れない世界が無数に存在している。それらが距離の壁が取り払われ、
一緒になれば、そこに争いが出てくるのは当然のこと。自由にも色いろある。しかし、そこには自ずから、
制限があるが、その制限が違うから問題が多く派生する。それが世界を混乱に陥れることになる。
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4212, 閑話小題 ー旅行仲間の便り
2012年10月07日(日)
* 旅行仲間から便り
先日、7年前に北イタリアのツアーでご一緒した神戸の夫妻からアイスランドのビデオ(DVD)が送られてきた。
ご主人は元NHKのカメラマン。リタイア後に、ご夫婦で世界各国を旅行している。当時、私たちがアイスランドに
行った直後で、「そこを勧められたことを思い出して送ることにした」と、手紙に添えてあった。その直後に手紙で、
イングランド南部のツアーに誘われたが、既にギリシャに決めていたこともあり、次の機会にと、お断りをさせてもらった
いきさつがあった。それもあり、その次の旅行先にイギリス一周コースを選んだが、ウェールズなど片田舎は何ともいえない
歴史の深さの趣きがあり、「あのツアーも良かったはず」と思ったもの。 ビデオは、ご主人が元プロでカメラ視線が決まっており、
奥さんがナレーターをした本格的な内容で、「撮影と編集を旅行代理店に依頼されているのでは?」と思われるほどの出来栄え。
羨ましい趣味である。ご夫婦は旅行先は欧州が中心だったようだ。ツアーのキャリア組みには、価値共有の仲間意識が出来ている。
自慢するでなく、互いの行ったところを披瀝し、情報交換の楽しみが共有できる。イスラエル、パタゴニアも、新羅ウィグル地区
からカラコルム・ハイウェーを抜けアフガン国境のツアーなど、現に行ってきた人の「生の話」を聞いたからこそ行けたもの。
財産として、金か、土地として残すか、「こと=行蔵」として残すか、その人の考え方による。私は、感動、感激を求める「こと」
の方を選択してきたが、それで良かったと思っている。 秘境ツアーなど贅沢の極みだが、本気になり探すと信じられないほど格安で、
内容のあるツアーは、幾らでもある。また、それを探すのが面白く楽しい。現在、隔日ごとに、行った先の世界の旅番組を見ているが、
それぞれの旅行の延長を、そのまましている気持ちになれる。ツアーとしても、それぞれの旅は、帰ってきてからも続いている。
先も短いこともあり、来年から年一度の旅行を再開したいが、世相が悪くなる中、いざとなると迷いが出るだろうが?
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3847, 創造的破壊
2011年10月07日(金)
「創造と破壊」について考えてみる。何か新しいものが創造される時に、古いものの破壊が、そこにある。
新しく創造されたものも、時間と共に古くなり破壊される運命にある。破壊をマイナスだけで捉えるのではなく、
創造のベースとして捉えることが創造的破壊である。 人生での挫折は、新しい自己へ生まれかわるための破壊になる。
但し、それを糧に生まれ変わった場合だが。 社会的な立場だけでなく、内面も重ねての人生の再生である。破滅の際だから
こそ変われる。順調に来た人ほど後半になっての挫折は、心に大きい重石となる。しかし挫折は人生の節目をつくる機会でもある。
竹の節は、これがあるから大風の時に折れない機能として全体のシナヤカさのバネになる。
予定挫折のいう言葉もあるとおり、人生で無くてはならない節目は必要のこと。 半年前の挫折?で、比較的平然でいられるのは、
人生の前半に、多くの節目があったためである。 節目時は耐えるしかない。 しかし挫折経験こそ人生を充実させてくれる。
どちらにしても人生に挫折の2や3つはつきもの。 創造というと、まず「創造的破壊」が浮かんでくる。 ネットで調べると、
【 創造的破壊とは、オーストリアの経済学者シュンペーターによって唱えられた考え方で、非効率な古いものは効率的な
新しいものによって駆逐されていくことで経済発展するという考え方であり、その新陳代謝のプロセスをそう呼んだ。
不況は創造的破壊に必要であり、政府による介入はこれを妨げるものとして否定した。 現在ではこれを読み替えて、
企業活動の中で古いものを打破し全く新しいものを生み出す行動、という意味合いで使われることが多い。
ドラッカーは、これに近い意味として体系的廃棄という言葉で述べているが、組織でも何でも発展にはイノベーションが不可欠。
「脱皮できない蛇 は死ぬ」も、脱皮しおえた蛇はまたその外皮が支えられる体型までは急速に成長するが、そこまでいくと、
退化が始ってくるという意味。 創造と破壊は、対をなしているといってよい。・・・ 】
▼ デジタル化、ネット化は、この創造的破壊を加速する。情報化とグローバル化は、NO1以外のものを即座に駆逐するため、
創造利益を得るのが一部に限られる。しかし効率性からみて、最良のものが生き残るシステムも決して否定できない。
現在の世界の政治、経済の大混乱も、ネット世界が現実世界とは別に出来、上位にたってしまった結果生じている創造的破壊。
この中で生き抜くことは至難の技。 全ての技がデジタル化し、合理化を促すからだ。「面白こわい時代」である。
今回の私の挫折を創造的破壊とすると、如何いうことか?考えるほど、人生の際(きわ)が見えてくる!次の段階に踏み込め!ということ?
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3482, ライフログのすすめ −2
2010年10月07日(木)
ライフログのすすめ―人生の「すべて」をデジタルに記録する! ゴードン ベル , ジム ゲメル (著)
この本を読んでいると、SFの世界に足を踏み込んでしまった気持ちになる。デジタル機器の進歩と、値段の劇的な
安さの実現と、その記録も無限大に可能になり、その分析も可能になってきた背景がある。 モバイル携帯など、
それらを可能にする端末を身につけて、超小型のデジカメ、ビデオ、ナビなどで収集しネットに記録保存をすればよい。
それらは眼鏡や帽子のツバなどに埋め込んで、モバイル携帯などで自動的に転送されて記録されていく。
これに近いのがモバイル携帯である。 万歩計、GPSがつき、デジカメも、デジビデオも、ついている。それが記録される
サイトに自動送信すればよい。 モバイル携帯の一回り大きい更に多機能のタブレット式パソコンが爆発的に普及を始めたが、
これに身体に付けたライフログの情報端末が連動すれば、より多くの種類の記録が可能になる。 何処に出かけたとか、その道筋とか、
誰と会ったとか、何をしたとか、誰と電話をしたとか、血圧はどの位だったとか、何を鑑賞し、どんな写真を撮ったとか、自動的に
記録保存して、牽引をつけ整理し、パターンごとに振り分ける。電子メール、デジカメ公開サイト、ソーシャルネット
ワーキングサイト、写真や動画の管理サイトなど、ライフログ技術が利用されている一方、多くの部分がつながりに欠け、
バラバラだ。共通のツールセットで統合されてないし、共通のインターフェイスでまとめられていない。
私のHPと著者のライフログの決定的な違いがある。 私はライフブロガーで、著者は公開を否定している。
公開は妨害とかのマイナスが多くなるという。自分の全てを電子記憶にして、自分の存在を発見し、記録として残すことを目指す。
公開は自ずから正直なことが書けないうえ、制限がでてきてしまう。 ライフブログの多くは露悪趣味になりがちである。
ここで仲間のビル・ゲイツの著書の言葉を引用している。 「僕たちはいつか、自分の目にしたものや耳にしたもの
すべてを記録できるようになる」と。その何時かは必ず訪れる。何故なら、電子記憶がことごとく実用化されているからだ。
その何時かは、誰かが生きている間に訪れる。それが著者自身じゃないという理由はないという考えに夢中になったのである。
私が、ライフブログを続けてきたのは、10年前に書斎HPを推奨した久恒啓一の著書の「ブログ=墓場」という言葉である。
この本を読んで自分のWeb上の書斎を持ちたいと強く思ったからである。しかし書斎というより「居間」、兼「応接室」、兼「書斎」
になってしまった。 したがって、私と著者のそれは、根本が違うのである。著者は「人生の「すべて」をデジタルに記録する! 」であり、
私のWEB書斎とは違うのである。 前回に書いた「ライフブログを続けていたことになる」は、正確にいうと、間違い。
著者は人生の完全記録であるが、私のHPは主観的な毎日の「随想」であり、思い付きの記録。しかし可能な限り写真や、
毎日の読書や日常をデジタル化してファイルしていることは、同じである。「ライフログブログ」いや、「ライフログ」のシステム化
されたものが、あるはず。これを読んでいてデジカメの記録をHPに、より多く載せる気になってきた。 二度とない人生の記録か!