つれづれに

イメージ 1

他のブログ
http://www.enpitu.ne.jp/usr5/54909/
http://horii888888.toypark.in/cgi-bin/s_diarys.cgi
http://d.hatena.ne.jp/horii888888/archive

 

今日のYoutube

 はや、金曜日。オリンピックもあってか、
 あっという間で、明後日で閉会式である。
 あと、パラリンピックが終わると、
 一挙に朝鮮戦争の気運が高まってくる。
 
  杞憂で済めばよいが・・・






・・・・・・・
・・・・・・・

3256、挫折を考えてみようか -4
2010年02月23日(火)
誰もが、人生の中で大きな挫折を経験する。挫折といえば若いときほど、
その経験はプラスになるケースが多い。そのまま、潰れてしまう危険も含まれて
いるから額面どおりにはいかない。しかし、それを乗り越える過程でついた力は、
大きい成長のためのバネになる。映画監督の新藤兼人の挫折についての言葉がよい。
「挫折をして、挫折のままだったら、今いないわけでしょ。生き延びてきたと
いうことは・挫折を乗り越えてきたからなんです。そうすると、私の財産は挫折。 
乗り越えるためには、試行錯誤があって、まだ挫折が来る。若い人は挫折をして
ませんね。これからするわけなんだから。だから、若い人と対抗して仕事ができる
気持ちになれるのは、私が挫折という財産を持っているからなんです」
 ~~ネットで出てきた挫折の格言である~~   一言一言が身に沁みる!
『転んだ時にはいつでも何かを拾え』  オズワルド・アベリー
『最大の光栄は、一度も失敗しないことではなく倒れるたびに起き上がること』  
                          ーゴールドスミス
『失敗したところでやめてしまうから失敗になる』     松下幸之助
『過失を怖れては何事も為し得ないだらう』        小熊秀雄
『日本人は、失敗ということを恐れすぎるようである』   本田宗一郎
『失敗することを恐れるよりも、何もしないことを恐れろ』 本田宗一郎
『失敗には、許される失敗と許されない失敗がある』    畑村洋太郎
『失敗は人生の免疫である。味わい尽くし分析せよ』    中島義道
『何か始めてうまくいかなかったら、またやりなおせばよい』 大前研一
『努力をあきらめないかぎり、失敗なんてこの世にはないのだ』  ハバード
『我 事において 後悔せず』  宮本武蔵
『失敗のうちで最大のものは、失敗を何一つ自覚しないこと』   カーライル
『受身が身につけば達人 まけることの尊さがわかるから』    相田みつを
『勝つことばかり知りて負くることを知らざれば害その身に至る』 徳川家康
『最大の名誉は・・・倒れるたびに起き上がることである』    孔子
『過って改めざる、これを過ちという』             孔子
『おれは落胆するよりも次の策を考えるほうの人間だ』      坂本竜馬
『つまづいたっていいじゃないか にんげんだもの』       相田みつを
『他人のように上手くやろうと思わないで、自分らしく失敗しなさい』大林宣彦
エジソンは失敗を楽しんでいたんとちゃいますか』        ジミー大西
『生きる力とは、成功を続ける力ではなく、失敗や困難を乗り越える力』松井秀喜
『失敗は問題だ。成功しようとしないのは、もっと問題』    ルーズベルト
『恋をして恋を失ったほうが、一度も恋をしなかったよりましである』テニソン

・・・・・・
2009/09/18
3088,挫折を考えてみようか -3

ある人に「あなたの『挫折を考えてみようか ー1』を読んだが、
貴方には挫折経験がないのでは?」と言われた。そこで改めて考えてみた。 
大学浪人は、そこで進学を断念したのなら話しは別だが、挫折ではない?
金沢時代も挫折とは違う。目的もしっかりあったし、絶好の体験をしていると
いう実感はあった。創業を目指して彷徨いながら準備をしていたという明確な
絵図があった。そうこう考えると、「挫折体験はないのでは?」という指摘も
正しいことになる。先が見えないで暗い心情になっていた時期で挫折とはいわない。
そうこう考えると、挫折などと軽々しく言わない方がよい!ということか。
ネット辞書によると「挫折とは計画が達成できないで心が折れてヤル気を失うこと」
とあった。挫折は、それまでの自分を一度破壊して新たな自分の創造を促すチャンス
になり、竹の節目に譬えることが出来る。 そこに大きな鍵が隠されている。 
超越者の声に敏感になることもある。それまでが横の時間なら挫折の時節は
縦の時間。「節目を打て!」というが、そこで超越者に試されことでもある。 
物語なら、そこを節目としての転換期になり、「起承転結」の「転」の時になる。
挫折の状態は、追い詰められた状況ほど芸術作品や本などを通した超越者の
語りかけに鋭敏になる。 「予定挫折」という言葉がある。挫折を意図的に入れて
置いて、人生の踊り場にするのである。そこは枝葉を切って根を養う時節であり、
超越の時節になる。「そうか~挫折と思い込んでいただけか~」と思ったが、
それでは、挫折が無かったかというと、勿論ある。実は見落していたのである。 
大学浪人や創業時の準備は勘違い? しかし深傷だったが。最近になって
「自分は中学浪人だった」と、何人かの知人から聞いて驚いたが、一番傷つきやすい
時期の、それから見れば、当時の大学は半分近くが浪人経験者で、挫折でない。
また私の姉夫婦と実兄夫婦の倒産劇で、大きく挫折をしたのを間近で見たが、
壮年、老年近い挫折は厳しい。最近はリストラで日常が挫折だらけになっている。 
他人事ではない。予定挫折ともいかないし。幸福というビルの最上階の4Fならいいが、
屋上から何は? 挫折を茶化すこともないが・・・
「挫折とは計画が達成できないで心が折れてヤル気を失うこと」か~! 
  なら日々挫折である。計画が甘いだけ?。

・・・・・・・
哲学について
3087,挫折を考えてみようか -2
2009/09/17
哲学者のヤスパーの「限界状況」と「包括者」は、なかなか含蓄がある。
ヤスパーは第二次世界大戦でナチへの協力を拒否したため、大学教授を剥奪され、
身の危険を感じスイスに亡命せざるを得なくなった体験がある。そこから
「限界状況」という考えが、色濃く反映している。
『限界状況』とは、突き当たり、そこで挫折するしかない壁、具体的には、死、
闘争、悩み、歴史による規定などをいう。それらの乗り越え難い厳しい壁を目
の前にして、逃避するなら人間は自分を失ってしまう。
反対に、その試練を真摯に受け止めることよって初めて、我われは自分の
生きる姿を知ることになる。しかし受け止めたところで、限界状況では挫折は
避けられない。しかし、この挫折が私たちを超越者(=包括者)の世界に導い
てくれる。もちろん、ヤスパーが考えたのは、挫折(無力感)から神のような
超越的なものへ目が見開かれるという宗教的なことではない。包括者を認知する
とは、この世の中に決して合理的に理解できないものがあることを知るという
こと、理性の限界を知るということである。理性の限界を認識してこそ、私たち
は理性的に思索できる。それをヤスパーは包括者の認知と提示したのである。 
20世紀から、このかた原爆、世界大戦、ナチ、毛沢東などが、大量殺戮を繰り
返してきた。 それは徹底した合理主義の下である。理性そのものの疑問が生じる
のは当然である。我われの挫折も、それを逆バネにすれば自分の無力感を、超越者
(作家や芸術家など)から救ってもらう切っ掛けとなる。
挫折は、それから学びプラスに出来れば、これほど効果的なことはない。 
その限界状況が芸術、思想、自然、歴史などの暗号を解いて、包括者を受け入れ
やすい環境として最適な状態となるのである。挫折は、自分の壁が破壊すること
でもある。 その壁は、自分を守ってもくれるが、反面、殻にもなってくる。
養老孟は、それを馬鹿の壁と表現した。そうこう考えると、人間にとって
(特に若いときの) 挫折は必要欠くべからざる経験ということになる。 
ところで先日・・・・    ~つづき  

・・・・・・・
2009/09/14
3084,挫折を考えてみようか -1
「挫折」については誰かが考えているはず、と調べたら、ヤスパーがいた。
ヤスパーは、挫折を「自己に目覚めるきっかけ」として捉え、自分自身を乗り
越える機会とみる。人間は日常の生活に明け暮れで生きているが、それでは真に
生きていることにはならない。なぜ己が世界に生きているかを問い、自分の
あり方を求めることが生きる出発点になる。ところが、それを真正直に守ると
最後には挫折が待っている。人は最期は死ぬのである。それを考えると生きて
いる根拠がなくなり、行き着く先の挫折を「限界状況」とヤスパーはいう。 
色いろの挫折を重ね、最後に「死」が厳然と待っているのは、身近な死が我われ
に教えてくれる。しかし死を含めた多くの苦悩を通して、人間は真の自己である
実存を自覚し、そこから苦悩を乗り越える「超越」への基盤となる。しかし
人間は死の戦いや苦悩を、実存の最終的なあり方と受けとめることが出来ない。
本来は、愛、永遠、無垢に惹かれる存在だからである。 ヤスパーは、
《 実存は苦悩のうちに挫折しつつ、指し示す絶対者=包括者へと
超越することが要求される。その超越が促すのが「暗号解読」である。それは
一種の象徴で、有限な現実の存在が自らを越えて絶対なる超越を指し示すのである。 
芸術、思想、自然、歴史など、そうした暗号によって、それを包括者へと超越せよ、
という指示として受け取るのが暗号解読である。》
と、挫折=限界状況の先のアップスケールとして、自己に目覚めるきっかけ
とする。人間が生まれ存在しているから挫折をするのである。そして最後の挫折
としての死を受け入れるプロセスが超越だったり、真に生きることであると指摘。
人間は誰かに人生を代ってもらうことはできない。限界状況をひとりで背負う、
本質的に孤独な存在である。だからこそ独りに閉じこもらず、自分の実存を他者
に開示すべきとヤスパーはいう。他者との交わりを通して、自分を振り返ることが、
更に自分に近づくことになる。実存に目覚めた人間同士の交わりを
「愛しながらの戦い」と呼んでいる。人生を振り返ると、挫折から多くのことを


・・・・・・
4728,近代化が進むほど、幸福感が少なくなるのは何故? ー2
2014年02月23日(日)
  * クラインの壺と、パラノ型、スキゾ型人間 ~?   
          ー「経済予測脳で人生が変わる!」中原圭介著
 時代はバブル崩壊辺りから変わってしまった。と共に人間の生き方も、
ここで大きく変化を始めてきた。資本主義の論理の限界もみえた中で、
貨幣に縛られ振り回されている枠を見直そうという動きも出てきている。
先進国といわれてきた人たちと、後進国といわれる地の人たちの文化と、
果たしてどちらが優れているか? それが構造主義である。  
 ー以下の解釈が、明快であり、納得できるー
《「脱コード化」社会においては、貨幣が王に代わって社会の頂点に
 君臨するわけではありません。貨幣は、頂点と底辺の間(言いかえれば
「王座」と「世俗」の間を行ったり来たりと、めまぐるしく回転運動します。
人々は貨幣を追い求めるため、それを資本として活用することで商品や
サービスに換え、より多くの貨幣を手に入れるという生産活動を繰り返す。
「もっと豊かに」「他人より幸福に」という人々の思いに突き動かされて、
貨幣は資本となり、資本はさらに貨幣を生み出し、それが資本として再投下
されます。貨幣はそのような無限の運動を 繰り返すのです。
このように、貨幣が「王座」と「世俗」の間をぐるぐると回り続ける様子を、
浅田彰氏は『構造と力』の中で、「クラインの壺」をモデルに使って解説。
「クラインの壼」とは、境界も表裏もない壺のことです。 
実際の三次元世界では存在しえない形状ですが、円錐形である「超コード化」
社会との対比として、動的な「脱コード化」 社会のイメージを明確化
するために、このモデルを採用した。ここで注目したいのは「脱コード化」
社会においては、「貨幣が、人間の欲動をクラインの壷における反復運動の
エネルギーに転換させることによって、秩序を維持するための装置として
機能している」ということです。・・・
 ここの狙いは、哲学的な「ものの考え方」や「もののとらえ方」を身につけ
「経済予測」に生かす方法を説明することにある。・・現代の資本主義社会は、
人間がお金によって動かされ、生かされる社会であり、人間が幸福になれない
理由はそこにある、という話をしました。では、どうすれば人間は幸福に
なれるのでしょうか。そのひとつの答えとして、浅田彰氏が『構造と力』に続く
『逃走論』で提示するのが、「パラノ」人間から「スキゾ」人間への転換です》

▼ 最近、シルクロードの一つの村々の人たちの姿と、アメリカの都会の人たち
 の姿を比較すると、果たして彼らが先進をしているか疑問に思わざるをえない。
フンザの老人と子供の澄んだ姿と、あのファッションの姿を比べれば一目瞭然。
アメリカの主軸通貨のドルと、米国債を、貨幣と資本に当てはめると面白い。
アメリカ資本が二種類の紙切れで世界を牛耳ってきたことが見えてくる。
その循環の大元を握っていれば、紙切れの発行をするだけでモノが手に入る。
パラノ人間が、スキゾ人間から、ものを収奪してきたのが人類の歴史といっても
過言ではない。ブータンのように、地政学的に隔離されていれば、それはそれで
良いが。だから、生き方として、実社会人の時は、パラノ型で、50歳を過ぎた
辺りから、スキゾ型になる、そのため定年がある。森からサバンナである。