[哲学 心]


          「ナミヤ雑貨店の奇蹟」 
               監督、「余命1ヶ月の花嫁」の廣木隆一
   * リボーン
 昨日のテーマ「老人の壁〜‘生まれ変わる快感’」を書いた当日に、呼び
込まれるように、この映画を観ることになった。時空を超えた魂の交流と再生
をテーマにしている。「老人の壁」で(養老が)〈自分が知らなかったところに
行き着けば、自分が変わり、世界が突然、変わってしまう。「それまでのわたし
は、そのことを知らなかった」という発見です。〉というが、まさに、知らない
ことの恐ろしさ、知ることの大切さを暗示している。  評価:90点
  〜HPの解説より〜
【 東野圭吾の同名ベストセラー小説を、「Hey! Say! JUMP」の山田涼介と、
 西田敏行の共演で実写映画化。過去と現在が繋がる不思議な雑貨店を舞台に、
現実に背を向けて生きてきた青年と悩み相談を請け負う雑貨店主の時空を超えた
交流を描く。2012年。養護施設出身の敦也は、幼なじみの翔太や幸平と悪事を
働いて1軒の廃屋に逃げ込む。そこは、かつて町の人々から悩み相談を受けていた
「ナミヤ雑貨店」だった。現在はもう廃業しているはずの店内で一夜を過ごすこと
に決める3人だったが、深夜、シャッターの郵便受けに何かが投げ込まれたことに
気づく。投げ込まれていたのは1980年に書かれた悩み相談の手紙で、敦也たちは
戸惑いながらも、当時の店主・浪矢雄治に代わって返事を書くことに。やがて、
この雑貨店と浪矢の意外な秘密が明らかになり……。 】
  〜ネット検索による‘あらすじ’
【  第一章 回答は牛乳箱に
 コソ泥をして逃亡中の敦也・翔太・幸平は突然盗んだ車が動かなくなり、仕方
なく以前翔太が見つけた廃屋「ナミヤ雑貨店」に逃込み夜が明けるのを待つことに。
三人が店を物色していると、突然シャッターにある郵便口に手紙が投げ込まれる。
手紙を開けるとそこには、月のウサギと名乗る者からの悩み相談が書かれていた。
店に残っていた雑誌によると、ナミヤ雑貨店はかつて店主が投函された相談に一生
懸命答えてくれる事で有名だった。敦也は放っておこうというが、翔太と幸平は
こんな機会でないと人の相談に乗れないと返事を書く事を決意する。
   第二章 夜更けにハーモニカを
ミュージシャンを目指す克郎は、慰問演奏で児童養護施設「丸光園」を訪れた。
子供達は演奏を楽しく聞いてくれていたが、その中に一人だけ克郎を見ようと
しない女の子が居た。克郎はその子を喜ばそうと様々な曲を演奏するが、全く
効果はなかった。音楽に興味がないんだと諦め演奏会の終わりに必ず演奏する自分
のオリジナル曲を演奏すると突然女の子は興味を示し、克郎に話しかけてきた。
   第三章 シビックで朝まで
 ―以下、カット  】

▼ たて続けに二人の義兄が亡くなったが、6人きょうだいの半数、3人の連れ
 合いになる。この年齢になると、70年のスパンの広がりの人生は、それぞれ
広く深い。人生の悩みに、正しい答えなどあろう筈はないが、それでも、助言は
当人にとって大きな助けになる。 少しネタばらしになるが、3人が悪事を働いた
女実業家が何と30年前の相談者。迷う当人に、「バブルと、バブル崩壊、IT化
の潮流を教え、その知識が成功に導く」という、何とも奇抜な設定。
 昨日のテーマ日記と映画の「クロス」は私に何を暗示しているのか? 
< 知ることで、自分の壁を乗越えて、世界を広げ続けるべし!
 世界は広く、深い!無知は罪である> 人は原罪を背負って生きている。

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5684,閑話小題 〜 第四人称について
2016年10月07日(金)
           <「20歳からの人生の考え方」外山滋比古著>
  * 第四人称とは何ぞや
 この本の目次で、「第四人称」という言葉があった。〜その意味とは〜
< 通りを歩いている人が、よその家のケンカをしているのを見たとする。
 実際には犬も喰わないケンカであったりするが、通行人には、わけもなく、
気が惹かれる。家のなかにいるのは、第一人称、第二人称、そこにいない
のが第三人称。通りすがりの人はその第三人称に入らないことに気づいて、
第四人称の範疇をつくった。第一から第三までの人称の世界で起こっている
ことは、局外の第四人称ではまったく別の受け取り方をされる。
当事者が面白くないことも、第四人称の人にとっては、面白く、見える。
その人にそなわっている感性である。p164 >
 〜アマゾンの評論に簡潔に以下の説明があった。
<著者が定義づける「第四人称」は、小説の作者ではなく、また作者の想定
した読者でもない、作者作品読者といったコンテクスト(文脈、状況、背景)
の外にいる”アウトサイダー”。要するに、作品世界の作者を第一人称、
それを読む読者の立場が第三人称、そして≪翻訳≫の立場にある者が第四人称
といったところ。
 傍観者の視点を第4人称と定義し、多種多様な状況に置いて第4人称の果たす
役割を考察している。傍観者であることの効果、傍観者がいることの効果という
切り口で様々な物事を読み解く視点が面白い。>
▼ 40,50歳代に、年2回の割合で、異秘境を中心にしたツアーに参加して
 きた。30,40,50回と、数を重ねるうちに、成田に向かう電車に乗ると、
「ああ、戻ってきた!」という気持ちになる。その先々での非日常の視点が、
旅行の度に、広がっていき、「第4人称」としての自分が確立したような。
それぞれの旅が数珠のように繋がり、別世界を拡大していく感覚になる。
そこは、日本での日常とは全く違った別世界。この良さは、普段、目を
瞑って、思い起こせば、何時でも入っていけること。
 オリンピック個人総合優勝を持つ内村航平選手が、インタビューで、
<自分の脳内に、『小さな自己』がいて、そこから競技の指示をする。>
と語っていたが、これは何人称? 
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5319,不平等を歴史に学ぶ 〜?
2015年10月07日(水)
      【『21世紀の資本』トマ・ピケティ を私はこう読んだ 特集】
     〜‘不平等を歴史に学ぶ’柴山桂太著(新潮45・2015年3月号)
 * アメリカの格差拡大と、そもそも「“資本”とは何か」
 「アメリカの千分の一世帯が、九割の世帯とほぼ同じ資産を持つ!」という。 
情報化によるグローバル化は、その格差を更に大きくする。TPPで、世界の
GDP40%の環太平洋の経済圏が出来ることになった。関税の垣根が低く
なることは、競争の激化は、アメリカ並みの格差の拡大を意味する。 
 恐ろしいが、この流れは止めようがない。 〜その辺りから
≪ アメリカは、先進国でも別格に富の集中が進んでいる。
 上位1%の所得が国民所得全体に占める割合(所謂“1%占有率”)は、
1986年には9%だったが、2012年には19%にまで増えている。小さい数字に
見えるかもしれないが、日本(2010年の段階で9.5%)やフランス(8%)
と比べるとこの数字は際立っている。資産格差のほうはもっと深刻だ。
エコノミスト』誌の記事によると、アメリカの上位0.1%に当たる16万世帯
の資産総額は、下位90%の1億5000万世帯の資産総額にほぼ匹敵するという。
21世紀の資本』は、所得や資産の上位層への集中を示すデータ
(“1%占有率”や“10%占有率”)を用いて、それがなぜ生じたのかを
歴史的・理論的に明らかにする本である。今までのところ、富の集中は
アメリカで顕著に表れているが、本書の議論に従うなら、これはアメリ
社会に固有の現象ではない。先進国なら今後どこでも生じるだろうと予測。
 今現在、日本ではアメリカほど極端な富の集中は起きていない。
“1%占有率”は1980年代(7%台)から現在(9.5%)までそれほど変わって
いない。だからこれまで日本の格差論争では、富裕層とそれ以外の不平等は
それほど重要視されていなかった。ところが、ピケティ氏らが整備した
『世界高所得データベース』を見ると、上位10%の占有率は日本でも上昇中で
あることがわかる。2010年には40%と、先進国でもアメリカ(48%)に次いで
大きい。因みに、日本の上位10%の平均所得は約900万円である。
日本ではアメリカのような大金持ちは少ないが、“小金持ち”の割合は
着実に増えている。“1%vs99%”の対立はまだ起きていないとしても、
“10%vs90%”の対立なら日本でも既に始まっているのだ。ピケティ氏は
複数のインタビューで、「日本も遠からず上位層への富の集中が激しくなる」
と警告している。では、なぜ富の集中が起きるのか。そこにはどんな
カニズムがあるのか。 『21世紀の資本』の内容を確認しておこう。
 格差や不平等の説明には、これまで様々な説が存在した。工業化の初期段階
で起きるとする説(クズネッツ仮説)はよく知られているが、それ以外にも
最近では、IT等の新技術の登場に適応した高技能労働者の賃金が上昇している
とする説(賃金プレミアム仮説)や、労働節約型の技術進歩が失業や低賃金を
生んでいるとする説(“機械との競争”仮説)、また金融の規制緩和等政治
と一部の利害団体の結託が不当な利益を生んでいるとする説(政治原因説)等、
様々である。だが、どの仮説も実証的な見地からの反論が多く、決定打に
欠けていた。他方、『21世紀の資本』でピケティ氏が提唱するのはもっと
シンプルな仮説だ。タイトルにもあるように、「“資本”が不平等の
歴史的な推移を説明する有力な変数となる」というものだからである。
「“資本”とは何か」というのは経済学における大問題だが、ピケティ氏は
これをあっさりと「人間以外の資産として所有できて、何らかの市場で取り
引きできるものの総和」と定義している。具体的には、工場等の物的設備・
不動産や住宅・株や債券等の金融資産がそれに当たる。日常的に用いられて
いる用語では、資産とほぼ同じ意味と考えて良い。資産を持つ者が持たない者
に比べて多くの収入を得るのは自明だ。労働による所得に加えて、利子や
配当等資産から発生する収益も得られるからである。・・・ ≫
▼“10%vs90%”の対立は、既に起こっているのは実感する。それが、端的に
 現れ出るのが、現役勝組と、資産を持たないリタイア負組の格差である。
その勝組も、準備不全だと、直ぐに下流老人の仲間入りになる。 水面下で
世界恐慌に入った現在、株価の大暴落を切欠に、我々を直撃する。
他人事ではない。現に私はリーマンショックで、事業清算をしている。
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2050年の世界 ー16  
2014年10月07日(火)
    「2050年の世界 ー英『エコノミスト』誌は予測するー」
                   〜英『エコノミスト』編集部 (著)
    第九章 おぼつかない自由の足取り ーのまとめ
・民主主義は、先進国と自由主義国で後退し、後進国と独裁国で前進する。
・中国は、一党独裁国家ならではの脆弱性に直面しなければならないだろう。
 インドは、複数政党制ならではの欠点と挫折に苦しめられるだろう。
一党独裁の政治体制のもとでは、民主主義という言葉は、人々がウェブ
 などを使って反政府活動をする共通のキャッチフレーズになりうる。
・逆にある程度の民主主義が保証されている国では、複数政党制のなか、
 ロビイストの暗躍や、圧力団体と官僚、政治家との癒着腐敗、政府の巧妙な
 マスコミ操作など、民主主義ゆえの欠点が見えやすくなっている。
・前者を中国、後者をインドに当てはめればわかりやすい。中国では民主主義が
 前進し、逆にインドは、複数政党制ゆえの混乱で民主主義は苦しむことになる。
・民主主義のアキレス腱は二つある。ひとつば金で、ひとつは選挙に対ずる
 さまざまな形のバイアスのかかり方である。
・第一のアキレス腱は、企業や企業の圧力団体が、政治家に献金をし、
 規制当局に圧力をかけるということだ。
・第二のアキレス腱は、民意がマスコミ、等を通じて操作されやすいこと。
 ウェーブの力はそうは言っても限定的で、マスコミはさまざまな形で
 情報操作を受けている。
・こうした民主主義の脆弱性を補う一手段として、法の支配の貫徹がある。
・さらに他人のことを思いやる「公共心」が、この民主主義の欠陥を補う。
・しかし、二〇五〇年までに、すべてを効率と個人の利益に換算して考える
 「経済第一主義」とこの「公共心」が大きな対立事項となり、民主主義を
 揺るがしていくことになる。
▼ 民主主義が果たしてネット社会でベストの政治体制だろうか?という疑問
 が出てくる。ある意味で、法による絶対的な支配も必要になる。特に、この
変動期において考えなければならない問題。世界は、ある一握りの権力者で
支配されているという。実際のところ、そうだろう。自由、平等、博愛が、
民主主義の前提にある。しかしグローバル化には、その前提を受け入れない
世界が無数に存在している。それらが距離の壁が取り払われ、一緒になれば、
そこに争いが出てくるのは当然のこと。自由にも色いろある。しかし、
そこには自ずから、制限があるが、その制限が違うから問題が多く派生する。
それが世界を混乱に陥れることになる。
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4212, 閑話小題 ー旅行仲間の便り
2012年10月07日(日)
   * 旅行仲間から便り
 先日、7年前に北イタリアのツアーで一緒した神戸の夫妻からアイスランド
のビデオ(DVD)が送られてきた。ご主人は元NHKのカメラマン。リタイア後に、
ご夫婦で世界各国を旅行している。当時、私たちがアイスランドに行った
直後で、「そこを勧められたことを思い出して送ることにした」と、手紙に
添えてあった。その直後に手紙で、イングランド南部のツアーに誘われたが、
既にギリシャに決めていたこともあり、次の機会にと、お断りをさせて
もらったいきさつがあった。それもあり、その次の旅行先にイギリス一周
コースを選んだが、ウェールズなど片田舎は何ともいえない歴史の深さの趣き
があり、「あのツアーも良かったはず」と思ったもの。 ビデオは、ご主人が
元プロでカメラ視線が決まっており、奥さんがナレーターをした本格的な内容で。
羨ましい趣味である。ご夫婦は旅行先は欧州が中心だったようだ。
ツアーのキャリア組みには、価値共有の仲間意識が出来ている。自慢するで
なく、互いの行ったところを披瀝し、情報交換の楽しみが共有できる。
イスラエルパタゴニアも、新羅ウィグル地区からカラコルム・ハイウェーを
抜けアフガン国境のツアーなど、現に行ってきた人の「生の話」を聞いたから
こそ行けたもの。財産として、金か、土地として残すか、「こと=行蔵」として
残すか、その人の考え方による。私は、感動、感激を求める「こと」の方を
選択してきたが、それで良かったと思っている。秘境ツアーなど贅沢の極みだが、
本気になり探すと信じられないほど格安で、内容のあるツアーは幾らでもある。
また、それを探すのが面白く楽しい。現在、隔日ごとに、行った先の世界の旅
番組を見ているが、それぞれの旅行の延長を、そのまましている気持ちになれる。
ツアーとしても、それぞれの旅は、帰ってきてからも続いている。
先も短いこともあり、来年から年一度の旅行を再開したいが、
世相が悪くなる中、いざとなると迷いが出るだろうが?
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3847, 創造的破壊
2011年10月07日(金)
「創造と破壊」について考えてみる。何か新しいものが創造される時に、
古いものの破壊が、そこにある。新しく創造されたものも、時間と共に古くなり
破壊される運命にある。破壊をマイナスだけで捉えるのではなく、創造のベース
として捉えることが創造的破壊である。 人生での挫折は、新しい自己へ生まれ
かわるための破壊になる。但し、それを糧に生まれ変わった場合だが。 
社会的な立場だけでなく、内面も重ねての人生の再生である。破滅の際だから
こそ変われる。順調に来た人ほど後半になっての挫折は、心に大きい重石となる。
しかし挫折は人生の節目をつくる機会でもある。竹の節は、これがあるから
大風の時に折れない機能として全体のシナヤカさのバネになる。
予定挫折のいう言葉もあるとおり、人生で無くてはならない節目は必要のこと。 
半年前の挫折?で、比較的平然でいられるのは、人生の前半に、多くの節目が
あったためである。 節目時は耐えるしかない。 しかし挫折経験こそ人生を
充実させてくれる。 どちらにしても人生に挫折の2や3つはつきもの。  
創造というと、まず「創造的破壊」が浮かんでくる。 ネットで調べると、
【 創造的破壊とは、オーストリアの経済学者シュンペーターによって
 唱えられた考え方で、非効率な古いものは効率的な新しいものによって駆逐
されていくことで経済発展するという考え方であり、その新陳代謝のプロセスを
そう呼んだ。不況は創造的破壊に必要であり、政府による介入はこれを妨げる
ものとして否定した。 現在ではこれを読み替えて、 企業活動の中で古いもの
を打破し全く新しいものを生み出す行動、という意味合いで使われることが多い。
 ドラッカーは、これに近い意味として体系的廃棄という言葉で述べているが、
組織でも何でも発展にはイノベーションが不可欠。「脱皮できない蛇 は死ぬ」
も、脱皮しおえた蛇はまたその外皮が支えられる体型までは急速に成長するが、
そこまでいくと、退化が始ってくるという意味。 創造と破壊は、対をなして
いるといってよい。・・・ 】
▼ デジタル化、ネット化は、この創造的破壊を加速する。
 情報化とグローバル化は、NO1以外のものを即座に駆逐するため、
創造利益を得るのが一部に限られる。しかし効率性からみて、最良のものが
生き残るシステムも決して否定できない。現在の世界の政治、経済の大混乱も、
ネット世界が現実世界とは別に出来、上位にたってしまった結果生じている
創造的破壊。この中で生き抜くことは至難の技。 全ての技がデジタル化し、
合理化を促すからだ。「面白こわい時代」である。 今回の私の挫折を
創造的破壊とすると、如何いうことか?考えるほど、人生の際(きわ)
が見えてくる!次の段階に踏み込め!ということ?

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3482, ライフログのすすめ −2
2010年10月07日(木)
  『ライフログのすすめ―人生の「すべて」をデジタルに記録する! 』
                ゴードン ベル , ジム ゲメル (著)
 この本を読んでいると、SFの世界に足を踏み込んでしまった気持ちになる。
デジタル機器の進歩と、値段の劇的な安さの実現と、その記録も無限大に可能
になり、その分析も可能になってきた背景がある。モバイル携帯など、それらを
可能にする端末を身につけて、超小型のデジカメ、ビデオ、ナビなどで収集し
ネットに記録保存をすればよい。それらは眼鏡や帽子のツバなどに埋め込んで、
モバイル携帯などで自動的に転送されて記録されていく。これに近いのが
モバイル携帯である。 万歩計、GPSがつき、デジカメも、デジビデオも、
ついている。それが記録されるサイトに自動送信すればよい。モバイル携帯の
一回り大きい更に多機能のタブレット式パソコンが爆発的に普及を始めたが、
これに身体に付けたライフログの情報端末が連動すれば、より多くの種類の
記録が可能になる。 何処に出かけたとか、その道筋とか、誰と会ったとか、
何をしたとか、誰と電話をしたとか、血圧はどの位だったとか、何を鑑賞し、
どんな写真を撮ったとか、自動的に記録保存して、牽引をつけ整理し、
パターンごとに振り分ける。電子メール、デジカメ公開サイト、ソーシャル
ネットワーキングサイト、写真や動画の管理サイトなど、ライフログ技術が
利用されている一方、多くの部分がつながりに欠け、バラバラだ。 共通の
ツールセットで統合されてないし、共通のインターフェイスでまとめられてない。
 私のHPと著者のライフログの決定的な違いがある。 私はライフブロガーで、
著者は公開を否定している。公開は妨害とかのマイナスが多くなるという。
自分の全てを電子記憶にし、自分の存在を発見し、記録として残すことを目指す。
公開は自ずから正直なことが書けないうえ、制限がでてきてしまう。 
ライフブログの多くは露悪趣味になりがちである。
 ここで仲間のビル・ゲイツの著書の言葉を引用している。「僕たちはいつか、
自分の目にしたものや耳にしたものすべてを記録できるようになる」と。
その何時かは必ず訪れる。何故なら、電子記憶がことごとく実用化されているから。
その何時かは、誰かが生きている間に訪れる。それが著者自身じゃないという
理由はないという考えに夢中になったのである。
 私が、ライフブログを続けてきたのは、10年前に書斎HPを推奨した
久恒啓一の著書の「ブログ=墓場」という言葉である。この本を読んで自分の
Web上の書斎を持ちたいと強く思ったからである。しかし書斎というより
「居間」、兼「応接室」、兼「書斎」になってしまった。 したがって、
私と著者のそれは、根本が違うのである。著者は「人生の「すべて」をデジタル
に記録する! 」であり、私のWEB書斎とは違うのである。 前回に書いた
「ライフブログを続けていたことになる」は、正確にいうと、間違い。
著者は人生の完全記録であるが、私のHPは主観的な毎日の「随想」であり、
思い付きの記録。しかし可能な限り写真や、毎日の読書や日常をデジタル化して
ファイルしていることは、同じである。「ライフログブログ」いや、
ライフログ」のシステム化されたものが、あるはず。これを読んでいて
デジカメの記録をHPに、より多く載せる気になってきた。 
二度とない人生の記録か!