「ある明治女性の世界一周日記―日本初の海外団体旅行」野村 みち (著)
 何気なく、図書館内を彷徨っていたら、この本が目につき借りてきたが、現在の朝のNHKの連ドラの
花子とアン」の、出身校の東洋英和女学校出身とあったことも借りる動機にもなった。そして、読んでみて、
面白いこと。ランダムに、どのページを開いても、その日その日の、本人の視線が、そのまま直に伝わる。
  ーAmazonの内容紹介よりー
「母親からの厳しい「良妻賢母」教育と共に、東洋英和女学校キリスト教と英語という新しい教育を受けた
明治の女性、野村みち。豊かな感性と柔軟性で、真摯に、率直な心情を綴った世界旅行記。」
 ーレビューよりー
《 元横浜YWCA会長を務めた野村みちの「世界一周日記」。若い頃から洋行に憧れを持っていたことが書かれていた。
その「世界一周」は、1908年3月18日から96日間にかけて行われた。冒頭に旅のルートが掲載してあり、米太平洋郵船
会社のモンゴリア号で横浜港を出港し、ハワイを経由し、サンフランシスコ、ソルトレークシティ、シカゴ、ボストン、
ワシントン、ニューヨーク、英国ホワイトスターライン社のセドリック号で大西洋を渡り、ロンドン、パリ、ローマ、
ナポリヴェネチア、ベルリン、サンクトペテルブルク、モスクワ、シベリア鉄道を利用してウラジオストック敦賀
帰ってくるという世界一周旅行です。一行54名、女性3人。
 筆者の夫は、横浜の実業家・野村洋三氏で、外国人相手の古美術商のサムライ商会を営んでいました。
本町通りにあったサムライ商会は横浜の古い写真集を見ていると必ず登場するようなエキゾチックでユニークな
外観をしています。258ページに写真が掲載してありますので。筆者の家族の写真や世界一周時の集合写真も掲載してあり、
文章だけでなく当時のイメージが理解できるようになっていました。旅行中の装いも和装で通す意味合いも書いてあり、
このあたりに聡明さが伺えます。アメリカのルーズベルト大統領との謁見や、パリで名バイオリニストのサラサーテ
演奏を聞いたことも記されています。
 巻末に番外編として「野村みちとは」と題する生涯を、北川原美乃さんが25ページにわたって紹介していました。
戦後すぐマッカーサーが占領下の日本で初めて接した民間人が野村夫妻だったことも書いてあります。そのような生き方を
貫いた女性であることが分かる書でした。》
 ▼ 100年前の96日間の世界一周日記、そこに女性が3人、加わっての旅行、それは大変だっと思われるが、幕末、
  明治初期の一女性の目で見た当時の、外国への視線が面白い。長年にわたり、多くの人が様ざまな経験をして記録に
 残されているのに、改めて感心する。情報端末がノートしかない時代に、その人の記録が逆に、生々しさとして、
 後世の者の心に訴える。横浜で外国人相手の古物商をしていたため、カルチャーショックは、さほど、無かったようだが、
 そうでなかったら、その参加自体してなかっただろう。
  ところで、居間の座椅子の横に、二年以上も、「世界の旅行記100」が置いてあり、毎日、数分間、読んでいる。
 2〜3ページに要約した100の旅行記が、それぞれ何人かが分担して書いてある。ところが、どれもこれも、重いため、
 せいぜい、一日、数分しか読めないが、それでも門前の小僧で、少しずつ、階段を下りるように、何とか読んでいる。 
 それらから比べれば、ツアーで内容が軽いが、それ故に、親近感がわいてくる。 世界は広く、それぞれが深い!
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4442, 閑話小題 ーリタイア後の幸せ度
2013年05月15日(水)
   * リタイア後の幸せ度
 退職後の幸せ度は、一番高いのは創業者、二番目は違う会社で勤めている人、三番目が、そのまま再雇用している人、
最後は、そのままリタイアした人、という調査結果がある。一番高いのが創業者は自分が、そうだから分かる。それも、
私のように会社を倒産させた人がいうと、強がりにように聞こえるだろうが、複雑な実感である。
挫折感より遥かに達成感が強いことは確かである。 自己完結してキレイサッパリするから。意外なのは、完全リタイア組の
幸福度が一番低いこと。長年かけたライフワークを持ってないためだろう。「自分が、まだ有用の存在でいたい」のか。
後は、解釈になる。収入の関係もあるのだろう。幸せの感じ方は様ざま。 鼻歌でスキップしていくしかない?
そのためには、少々のお金と、知恵と、意欲が必要である。一番の問題は、やはりお金に行き当たるのか。
   * 節目を超えたようだ!
 昨日、もう一つのブログ《バードウォッチ》に。「一月ほど前か、現在の自分と娑婆に対し、底知れぬ可笑しさを感じて、
知らずに独り腹から笑っていた。これで節目を乗り越えたようだ。こういうのをアップスケール(脱皮)という。独り万歳!
あとは、心置きなく流しの遊びの世界で我を忘れればよい。割り切るのに、やはり二年。節目としての4分割の最後のシリーズ。 
心の還暦になる」と書いた。50歳になった時が、これかと思ったが・・、もう一破壊が必要だったようだ。そして少し楽しめ!
ということになる。まだまだ重いし、最近、何事にも面倒が先に立つ。ただ、バイアスが日ごと取れて好奇心が強くなっている。
遊びに対して、まだまだ修行が足りないようだ。 「節目を打て」というが、なるほどである。
 (後記)ところで偶然だが、去年の以下の文章が、これに連動していた。面白いもの。決して傷は浅くないということか!

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4068, 疲れたら憩がよい、彼等もまた、遠くにはゆくまえ!
2012年05月15日(火)
   * 挫折について            ー「人生を励ます黄金の言葉」中野孝次著 より 
≪「人間のプライドの究極の立脚点は、あれにも、これにも死ぬほど苦しんだ事があります、と言い切れる自覚ではないか」
太宰治・〈走れメロス〉)という科白もある。これなぞは負の体験こそ人間に正当な自負心を与えうる唯一の立脚点ではないかと、
負をプラスに転化しているのだ。・・・たえず自分の弱さや、醜さや、愚かさを思い知らされているというが、それがしかし、
自分というものを知る第一歩なんだ。そして自分の悩みを知ることを通じて以外にどうして他人を知ることが出来るのだろう。
その点からいえば君の悩みは、まだ浅すぎるかもしれない。自分はもっともっと悩むべきだ、と考えてみる必要があるかもしれない。
「ひょっとして、人間が愛するのは、太平無事だけではないかもしれないではないか? 人間が苦痛をも同程度に愛することだって、
ありうるわけだ。いや、人間がときとして、恐ろしいほど苦痛を愛し、夢中にさえなることも、間違いなく事実である。」
(ドフトエフスキー「地下室の手記」より) ・・・世に文豪と呼ばれるほどの人びとの書いたものを読めば納得できよう。
彼らが作品に描いてみせた人間的苦悩の深さは、とても凡人には耐え難いほどだが、そういう深い苦しみ苦悩を通じてこそ彼らは、
その反対に光り輝く美や愛や幸福やを、あれだけ深く生き生きと感じることができたのだった。・・・
「疲れたら憩がよい、彼等もまた、遠くにはゆくまえ!」(尾崎一雄「痩せた雄鶏」) おそらく挫折して世に出れなかった日々、
尾崎さん自身、この言葉を自分に言い聞かせ、じっと耐えていたのだろうと思う。 ≫
 ▼「死ぬほど苦しんだと言い切れる自覚がプライドの立脚点」には考えさせられる。負の体験を現在しているが、
  これをプラスに転化にするには、結果から、原因を徹底的に見つめなければならない。まだ、悩みが足りないのは分かっている。
  しかし、盛んだった日々の光りがあれば闇もあって当然と思ってしまう。幸せも、不幸も解釈次第。死んでしまえば、全てチャラ!
  だから人生は面白い。負の節目が挫折になるが、プラスの節目もある。しかしマイナスの節目ほど次のステップには効果的である。
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3702, 自己を見つめる −21
2011年05月15日(日)
  * 死について ー�                  「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)  
【 元気旺盛のただなかで、突如、不治の病を宣告された人は、初めは死を、不条理な運命として呪誼し、憎悪し、拒否するが、
次第にやがて、その苛酷な宿命を受容して、死を覚悟し、承認するようになるという心理学的研究も存在する。
人間が死と立ち向かう心理的状況は、種々様々である。 死を迎え入れ、その定めを覚悟し、その準備を整える用意は、
憂き世の終末に向けて身辺を整理することを含む。 そこには、種々雑多な俗世間的な事柄が絡みつくが、それらはみな、
老境の責務だとも言える。 ありうべき介護や臨終、葬儀やさまざまな後始末、それらをすべて、何らかの仕方で見越しながら、
誰もが、終末に身構えざるをえないのが、死にまといつく憂き世のしがらみである。
 たいていの日本人なら、死んだら、草場の蔭から子孫を見守り、お盆には憂き世に帰り、生者と交わることを望み、しかし
やがて年月が経てぱ、往時茫々、すべては諸行無常のなかに消え去ってゆくのがこの世の定めだとして、それを、詮方ないことと
心得る諦念を、心中密かに保持しているであろう。 あるいは、永遠の生命の流れとしての浄土に、自己が繋がり、久遠の仏性に
救い上げられるという強い信仰をもつ人もあるかもしれない。 さらにはまた、西洋からの宗教思想の影響のもとで、死に際して、
神の恩寵と審判が下され、裁きが行われるという終末観を抱き、神に救済されることを祈って、日夜、信仰と精進に励んで生きる、
敬謙な人々も存在するであろう。 死という終わりに直面する私たちが抱くさまざまな不安や、懐疑や、憂悶や、希望や、希求や、
欣求には、果てしがない。 
 それらの種々の想念と気遣いのすべては、いかに人間が、死の影のもとに、蜉蝣のような自己の身の上を、儚いながらも、
充実した有意義なものとして構築して生きようとするかという、胸痛む事実を、告知している。人間は、徹頭徹尾、
死の影のもとに生きる存在者なのである。 この憂悶にみちた現実が、人間の生存の真実である。】
 ▼ 結局は、大部分の人にとって壮絶な死に際が待ち構えているが、敢えて知らないふりをし、日々の細事に気を紛らわせるしかない。
  それも、物心とも準備を怠ってきた人は、ただ動転し、目先を辛うじて生きるしかない。その結果、事故や、争いに巻き込まれ、
  老醜を曝す結果となりがちでなる。それは、家系とか、持っている体質にも関係してくる。やはり人の死は大方悲惨と覚悟をすべき。
  問題は、当の本人が、それに独り直面し、ギリギリの極みの中で、苦痛の中で最期を向かえ、意識が消えていくことである。
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3337, サイバーとは超格差社会
2010年05月15日(土)
 ー「知の衰退」からいかに脱出するか? ー大前研一 (著)  ー8
 * サイバーとは超格差社会
  ー まずは、その部分を抜粋してみる ー  P−236
 私は過去のコラムで「サイバーとは超格差社会」と書いたが、一方でこれは持たざる者、立場の弱い者に大きな恩恵を
もたらすものだとも考えている。 その格差といえば情報と知恵の差である。仮に判らないことがあっても質問できる双方向性。 
実はこれこそがサイバーの最大の特徴でもある。そこから自然にコミュニティが生まれ、互いのノウハウを交換しあうことによって
更に自らを高めることができる。電子町内会の誕生である。 こうしたことも、かつてなかったスタイルの「恩恵」であろう。
サイバー社会の格差を埋めるのもまたサイバーなのである。 この事実に我々はもっと注目すべきだ。
なのに現状、インターネット上の最大の産業がポルノ、またはポルノまがいのコンテンツになっているのは情けない話である。
「あらゆる技術は軍事目的で開発され、ポルノ目的で広まる」ともいうから(写真もビデオも、もちろんインターネットもそう)、
ある程度は仕方がないことなのかなとも思う。 しかしインターネットが我々の身近なものに降りてきて10年あまり、
そろそろ次の段階にステップアップすべきなのではないか。
 「次の段階」、それは前述したように人々が学び、情報武装して賢明な市民となり、甘言を弄する政府の嘘を見抜き、
健康で文化的な生活を生涯に渡って維持することである。 そして、そのためにこそサイバーを有効活用することだ。
サイバー社会が人に恩恵をもたらすものである限り、私はそこを自らの事業ドメインとして関わり続けていこうと考えている。
 ▼ 現在、サイバーに対してマイナーの視点で論じる傾向があるが、負け犬の遠吠えでしかない。
弱い立場の者に大きな恩恵をもたらすが問題は知恵である。 知恵と才覚があれば、その中で格差を埋めることが可能である。 
そのためには哲学の基礎も必要になる。 哲学をもってネットを使えるかどうかで、その差は大きく左右する。
考えないでネットにハマッタら、底なしのバカ?になる。 HP・ブログに10年前に気持ちを集中してなかったら、
良し悪しは別にして現在の世界観とは全く違っていたはず。これからiPadと簡易ブログのツイッターが爆発的に普及した時に、
この蓄積は何ものにも変えがたくなる。 知らないうちにサイバーに移動していたことになる。
    ますます情報=通貨の度合いが強くなる。恐慌も含めて、こんな時代が見れるとは思ってみなかった!
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2962,若者たちは今 −2
2009年05月15日(金)
 −若者が危ない!ー
いつの時代にも「今時の若者は」と言われてきたが、少し前の経済週刊誌に「現在の20歳代が危ない」という特集があった。
その特徴として、
・上昇志向なし             ・10歳代で「失われた10年」を経験
・二年で3割離職            ・20歳代前半の43パーセントが非正規社員
・親との同居率6割           ・職場に不満は過半数
・海外志向のない若者が半数    ・あまりモノを買いたがらない 等々である。
 今さらだが、彼らには弱肉強食の意識が欠落、若いときに辛い体験をして、それをバネにして上を目指そう
という気持ちが欠落している。韓国、中国などの若者に比べて、全く人生に対する姿勢が劣っているようだ。 
例の「ゆとり教育の犠牲者」なのである。 こういうマイナスの回転に引きこまれた世代は、何処までもマイナスが
ついて回るのだから、気の毒といえば気の毒。我われの世代が逆にプラスの回転だったから、それが鮮明に見えるのである。
  (以下、字数の関係でカット11年05月15日)
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2598, 中国の地震について
 2008年05月15日(木)
中国の地震は、死者行方不明は十万人以上の可能性も出てきた。産経新聞が行方不明9万人と報道していたが、
まだ真偽は解らない。中越中越沖地震がマグネチュードが6・8、今回の中国の地震が、7.8 。 
震度が一違うと32倍というから、いかに大きな地震だったか!が推測できる。
32年前の文革真っ只中に24万人の死者の地震があったというから、日本の最近の地震とは規模が違う。
この地震もも、マグネチュードが7・8だったという。最近は誰もがデジカメか携帯電話のカメラや、ビデを撮ってしまうから
情報管制は難しい。連日、生々しい写真が出始めいる。スマトラ沖地震と、ミャンマーのサイクロン、そして、
この地震と大規模の災害が続いている。それも中国にとって華やかなオリンピックの聖火リレーの最中に。
  (以下、字数の関係でカット09年05月15日)
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2007年05月15日(火)
2233, しお壷の匙  ー2        (´∀`σ)σ オハYO!
この中の「銭金について」の上司の言葉と、本人の動揺が面白い! 「学生気分が抜けない頭でっかち」を注意された時の
カルチャーショック。誰もが一度通らなければならない精神的脱皮の時である。働くとは何か?金を稼ぐことである。
生きるためである。そして、その中に生甲斐を見出していくことである。一度、徹底的に自分を破壊して、金を稼ぐプロとして
再生しなければならない。これが三年目にくるか、十年目にくるか、それぞれ違うだろうが。
  ーまずは、その部分を抜粋してみるー
「・・ある日、私は上司に呼ばれ、きみはまだ学生気分が抜けていないんじゃないか、お世辞、お愛想の言い方がへただ、
と注意された。突然のことに当惑していると、上司は自分の机の抽出しから一冊の本を取り出し、いきない「これは何だッ。」
と呶鳴った。見れば、それは私の本だった。当時、新潮文庫の一冊として上板された、プラトーン・田中美知太郎訳
「ソークラテースの弁明」であった。私は己れを慰めるためにそれを書店で求め、通勤の往き帰りに電車のなかで読んでいた。 
上司はそれを私の机の中から取り出し、咎めているのだった。「俺はお前が週刊誌を読んでいる姿、見たことねえぞ。
これは何だ。こんなもの読みやがって。こんなもの読んでて、金に頭を下げられると思ってんのか。人間の心は捨てろ。
そうすれば、どんなことだって平気で出来る。人におべんちゃらを言うことだって、人を騙すことだって平気で出来る。
俺たちは人に頭を下げることによって、飯を喰ってんじゃねえぞ。金に頭を下げることによって、喰ってるんだ。
いいか。お前はその屈辱にもよう堪えん男じゃないか。金に頭を下げることのありがたさを知ったら、どんなことだって出来る。
屈辱に堪えること、それがお前の喰う飯の味だ。お前だって、金なしには飯が喰えん男じゃねえか。
その金は誰からもらうっているんだ。おう、どんな別嬪も便所へ行ったら、パンツを脱いでしゃがむんだ。
人間の心を捨てろ。いいか。」 ・・・  私にあっては、この小事件は大きな意味・価値を持っていた。
  (以下、字数の関係でカット11年05月15日)
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2006年05月15日(月)
1868, ブログは社会革命ー 2   おはよ?!(*^ワ^*)i
 いま一つ劇的なポイントがあった。それはブログに書かれた記事は検索エンジンにとっても検索されやすいということ。
わかりやすく言えば、ブログの記事や日記は一本一本が独立したHPのような形式になっている。
   (以下、字数の関係でカット10年05月15日)                  
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2005年05月15日(日)
1503, 平等について ー1
 ー不平等が人間の基本ー
フランス革命の旗印は「自由・平等・博愛」である。その自由に重心を置いたのが、自由主義であり、平等に重心を置いたのが、
社会主義である。博愛に重心を置いたのが宗教というところか。「自由」については何回か書いたが、今度は「平等」
について考えてみよう。『日常生活に哲学は必要だ』ー三浦朱門と鷲田小弥太の対談集ー
の中の「平等について」の一節に明快に書いてあった。 これから考察してみる。
ーまずは抜粋してみるが、「平等」に対して、これだけ解りやすく納得させてくれるのも珍しい。
   ー「不平等が人間の基本」ー
・三浦 社会主義の基盤は平等です。さっき、人間は共産主義者が好きなのではないという話がでましたが、
それは実は平等が好きだということなんです。実際、遠見に見ると、人間なんてどれもこれも同じなんです。
たとえば学校を見ると、卒業式とかなんかで、クラスの記念写真を撮りますね。これが制服など着たりしているとなおさら、
みんなと同じである。だが、少し近づいてみると、男の子がいたり、女の子がいたりする。 偏差値も違うし、
歌の上手い子もいる。ハンサムな子、美人な子、逆にブスな子もいる。これだけの要素を順列組み合わせしてみても、
千差万別といってよいほど違う。まして人間の要素というのはこれだけではない。 本当に一人ひとり違う。
 だから、社会を構成上で大切なのは、平等の適用範囲なのでしょうね。平等の心地よさは大事です。
それは社会を安定させる重要な要素です。人間を遠距離で見るか、中距離で見るか、近距離で見るか。
市民的平等、遺伝子的平等、文化的平等などさまざまな局面を考えてみると、やはり平等は社会保障や法律の局面に
限るべきだと思います。その部分の平等が保障されていれば、その社会はまずはよしとしなくてはなりません。
ところが平等とはなんでも同じでなければならないととらえられている。
・鷲田 まず人間は基本的に不平等であると心得なくてはなりません。その基本的に不平等である人間が社会的生活を
営む上で、なるべく円滑にいくように考えだされてのが平等という概念であることを知らなくてはなりません。
そのためには、法律に定められた平等以外に不平等であるのが人間の姿なのです。それを心得させるものは
哲学であるということなのです。「平等と権利の主張」
・三浦 平等は社会生活を営む上で便宜的な概念であって、人間の本質でないということことですね。
だが、その平等の概念がしばしば混乱するのは、ほかでもない、
権利意識と平等が混同されるからではないでしょうか。
・鷲田 権利を主張するのに平等を楯にする。しかしね、平等を楯にした権利の主張は利己主義に過ぎないよ。
その証拠に、こちらに何かを寄越せ!という権利の主張なら大いに平等を口にしますが、
平等にするためにこちらの何かを削らなくてはならないような場面では、平等のビョの字も出なくなる。
・鷲田 いまの政治家や役人の二代目なんてのは世襲化しているが、これを如何考えるか。
・三浦 何代目であろうが、一応外交官試験を通ったり、選挙に当選しているのだから、やはり平等と見なくてはなりません。
・鷲田 平等は聞こえがよいし、居心地がいいかもしれない。また、社会生活を円滑に回転させるための円滑油としての効果もある。
だが、それはあくまでも法律的な枠組みに限られたことだとわきまえなくてはならない。
良識などという言葉は私にはもっとも似合わないが、やはりそういう良識を持ち合わせてないと、
品位のない社会になってしまいますね。その良識を確立するためにも哲学を持たなくてはなりません。
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以上、書き写すのに時間がかかったが、私にとって、それをするだけの価値は充分あった。 まずは、「平等が基本」という
前提が突き崩された。しかしよく考えてみれば、子供の時から社会を見ていても「不平等が基本」にあった。
裕福な家庭の友達と、貧困の家庭の友達は厳然とあった。 学歴の差も、美人とブスの差もあった。 
成績の良い子もいれば、劣等性もいた。 弱い子は虐めの対象になっていた。色いろな人がいるのが社会である。 
   (以下、字数の関係でカット12年05月15日)
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2004年05月15日(土)
1138, つれづれなるままにー駅の風景
(字数の関係でカット2,008年5月15日)
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2003年05月15日(木)
771、ゆっくり急げ!
(字数の関係でカット2,008年5月15日)
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2002年05月15日(水)
407,ホームページを開いて一年
 以前「テーマ随想日記を書いて一年」を書いたが。このテーマはホームページである。
「ホームページつくりを通して、パソコンをわがものにする」と目標を立て、実行して一年半経つ。
(字数の関係でカット2,013年5月15日)
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2001年05月15日(火)
 赤面ー自嘲ー入力ミス
(字数の関係でカット2,013年5月15日)