「余命半年  満ち足りた人生の終わり方」大津 秀一著
   * 遺伝子からみれば、古い個体は新しい個体のため消え去るのが運命
 人生なら良いが、何時までも会社にへばり付き、新しい目を摘み取る人、それを、自分で気づいてないからタチが悪い。
「老兵は、ただ黙って去るのみ」である。死も時節がある。 ただ悄然と消えていきたいもの。 ーその辺りからー
≪ 科学の発展は、おそらく一つの答えを用意したと思われる。つまり人間は生物であり、だからこそ本能が、
 正確に言えば遺伝子が、「生きるように」「殖やすように」そして「死ぬように」命じているという考えである。
生物は遺伝子によってマッピングされて出来上がっている。遺伝子は自らが生き残るために様々な戦略を取る。
別の遺伝子と組み合わさって、さらに優れた遺伝子となるのもその一つの戦略である。そのためには、生物に交配して
もらわねばならない。だから遺伝子によって形作られた本能に従い、生物は交配し、子孫を残し、種を繁栄・存続するように
「なっている」のである。
 要するに、生きるとは、遺伝子の命じるままに従い、結果として「その種の繁栄のために動く」あるいは
「その種の繁栄のために動かされること」なのである。遺伝子を残し、遺伝子をより良いものにして、その遺伝子が
長く存続できるようにすることが遺伝子の欲求であり、それが本能に刷り込まれている。 だから皆、相手を求め、
おまけとして快楽が付いて来る交配を行い、危険を冒して子供を産み、子供が一人で生きられるまでは惜しみない愛情を注ぐ。
それはすべて、「人類という種を生き長らえさせる(人類の遺伝子を残し続ける)」ためなのである。
 この考えによると、死が到来するのも理解できる。まず交配が行われて新しい個体ができれば、親の遺伝子は子に受け継がれる。
しかも遺伝子の容れ物(肉体)も新しくなっているし、遺伝子の組み合わせによってより優秀な個体が生まれているかもしれない。
そうすれば少なくとも「自分の遺伝子を残す」という目的を、遺伝子は果たしたことになる。つまり古い遺伝子や容れ物は
要らなくなる。だから、多くの動物は生殖期後、長い時間を生きずに死んでしまう。生殖という非常に大事な役目を終えて
しまった以上、もう他に大きな役割はないのである。次に、もし「死」が訪れなければ、限られた空間に、個体は限度を
超えて殖えてしまうであろう。そうすれば、結局その生物の相当数は淘汰されなければならない。 ≫
 ▼ 死ぬのは自然の摂理、それに従うしかない。その時になり慌てふためくが、諦めきれないのが知識を持った私たち。
「余命半年!」と宣言された時の衝撃は、計り知れない。昼の間は、まだよいが、独り夜半に目が覚めて、その恐怖との
 闘いは生き地獄だろう。死ぬのが怖いが、余命半年と悟った時から死ぬまでの苦痛が恐ろしい。だから準備が必要になる。
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4090, 老いの見本帳ーダークサイト −10
2012年6月6日(水)
   * 老いを受け入れる     「老いへの不安 歳を取りそこねる人たち 」春日 武彦 (著)
 60歳前後に初老性鬱病の人になる人が多い。人生に充実感が無く、未練や不満が渦巻いて恨みの気持ちが、世の中から落伍した
感情として被害者意識が生まれる。それが定年などで独りで判断しなければならなくなると、異様な自己中心的いじましい行為が現れ出る。
それは「尊厳を保った肯定的老人」とは程遠い姿である。次の文章は、高度成長期を竜宮城と見立てた団塊世代を浦島とみるとよい。
≪ 【浜辺の煙】 浦島太郎の昔話は、なかなか不気味な物語である。竜宮城における快楽の日々はともかくとして、浜辺に戻ってきたら
様子がおかしい。家々の停まいも景色も微妙に変わり、知っている人は誰もいない。わずか数日を竜宮城で過ごしただけだった筈なのに、
驚くほどの年月が故郷では経過していた。太郎はすっかり世の流れに取り残され、強烈な違和感と孤独感とを味わうことになる。
さらに二段構えの不幸として、玉手箱の煙で太郎は老いさらばえてしまうわけである。 故郷へ帰った浦島太郎を、現代における「老い」の
アナロジーとしてみるとどうであろうか。孤独死だとか家族の崩壊、地縁血縁の希薄化といった問題はあるいっぽう、今や「老い方」を
知らない世代が雪崩を打って老いに突入しようとしている。エレガントな、ナチュラルな、さりげない老いの作法や見当すらつかないものの、
それこそ数を頼んでどさくさまぎれに「これが今どきの老人だ!」とばかりに、賑やかに事態を乗り切ってしまえそうな気もするのである。
ストーンズだってとっくに六十歳を過ぎてるぜ、といった調子で。つまり老いに孤独や寂蓼感はつきものだけれども、考えようによっては、
結構アナーキーなノリで老年期に身を投じられるのではないか。そんな妙に楽観的な気分もどこか心の中に居座っているのである。だから
独りで浜辺に停む浦島太郎のイメージに我々自身は重ならずに済むかもしれない。その一方、玉手箱の恐怖の方が我々にはリアルではないか。
玉手箱なんか開けなければいいだけといった話ではあるまい。生理的な老化のみならず、諦めや気落ちや悲しみや絶望が、玉手箱の煙となって
我々を老け込ませる。アンチ・エイジングなどと称して誤魔化そうとしても、玉手箱の煙は我々の心の中にまで染み込んでくるだろう。 ≫
 ▼ 浦島太郎の教訓は、時代の現象に浮かれ、飲めや歌えで生きてきた人が、何かのキッカケで自分の老いに気づかされ、
  周囲を見渡すと若いときの友人は亡くなっていて、独り残されていた現実に呆然とする、ということ。あの玉手箱と、ケムリは
  何の例えだろうか。玉手箱は、それまで生きてきた時空での行蔵、煙は時間?だろうか。 
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3724, 全米N0・1弁護士の勝ち抜きセオリー  〜?
2011年06月06日(月)
                    『議論に絶対に負けない法』ー ゲーリー・スペンス著
 10数年ほど前に読んだ本だが強烈な印象が残っている。 軽そうな題名だが、内容は重厚で味がある。
全米1の弁護士が書いた「議論の勝ち方というより人生の勝ち方のセオリー」の本。アメリカ的プラグマチズムとして読めばよい。
しかし、生の法廷の中で勝ち抜いてきた人生のセオリーの凄みも見逃せない。とにかく、面白い本である。 4〜5年に一度の割りに
三十数年来の友人が、人生の大きな分岐点の決断の問題や、経営上の深刻な悩みを持ち込んでくる。私の場合、自分のこととなると何?だが、
ひと様の事となると、冷静な答えを出すことが出来る?と自負をしている。学生時代の武澤ゼミの特訓と百数十回以上のセミナーの蓄積もある。 
数年前も、「実は現在、属している会社が吸収合併した会社のことで裁判沙汰になる。 自分は現在、その専任になっているが、
どうしたらよいか助言して欲しい」とのこと。「2〜3千万レベルか、数億レベルか、それによって私の聞き方と答えが違ってくる?」と言うと、
「もちろん後者で、前回、そこを買収するときに相談をしてもらったが、その買収後に派生した問題」とのこと。これ以上は書けないが、
直ぐに、この本を思い出し紹介をした。 内容は、ほぼ忘れていたが、残っていた記憶で「一に準備、二に準備、三、四がなくて、五に準備。 
それも戦いの構えを時間をかけて作っていく準備を説いている。それと正攻法を第一にして、問題の中心点に全エネルギーをそそぐこと。
それと自分のサイドの勝ちの物語を作ること」が書いてある等、自然にスラスラと言葉が出てきた。その意味で、この本を消化していた。 
考えてみると、この本、孫子の兵法そのもの。「勝つための構えを充分に備えておけば、勝利は自ずと決まってくる」のは道理である。
分かりやすくいえば勝ちの陣形をコツコツ作ること。アメリカの現代哲学的な考えの枝葉の一例とみると、法廷闘争の中で勝ち抜いてきた
弁護士の自信に満ちた論理が見えてくる。
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3359, ギリシャ問題の深層
 2010年06月06日(日)
 現在、欧州ではギリシャを発端にしてPIIGS(豚ども)といわれるラテン系を中心にした国々の金融破綻が問題になっている。
アメリカ発の金融恐慌が欧州に飛び火をし危険な状態になっている。 ギリシャがユーロ通貨圏に入りたかった理由は防衛面
イスラム教諸国に隣接)と、(万年金融破の)金融面があった。 02年ユーロ通貨加盟を検討していた際、
財政赤字をGDPの3%に抑えなければならない」というハードルがあった。 そこにゴールドマン・サックスが
「とにかく財政赤字の帳尻を合わせる施策を」と、エサを差し出した。 追い詰められたギリシャ政府はその誘いにのってしまった
(当時の政権は現政権と同じパソック、首相はシミティス。現首相パパンドレウは当時の外務大臣)。財政赤字を3%以下に抑える
“魔法”(虚偽)と引き換えに、GSは観光国としては大きな収入源に目をつけた。ギリシャが空港税の30年分の収益と
将来の宝くじなどの収入を差し出すなどの契約を交わした。 ギリシャにとっては加盟さえすれば当時のギリシャの外国からの
借入金利が13〜4パーセントから、3〜4パーセントに引き下げることが可能になる。
加盟の結果、さらにお金を低金利で借りまくった結果が深刻な財政危機である。 加盟のための粉飾決算をしていたのである。
そのことを国民はなんの説明も受けていない。 その上に、ある日突然の「財政破綻寸前宣言」である。ゴールドマン・サックスは
このような誘いを他にも、複数国に持ちかけていた。 ギリシャの公務員は4人に1人もいて、国民も納税意識が非常に低い。
    (字数制限のためカット 2011年6月6日)
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2984、閑話小題
2009年06月06日(土)
 * 資産家夫婦の惨殺事件
少し前の話になるが、資産家夫婦の惨殺事件があった。 月の小遣いが300万という。ポケットに百万単位の金を入れていて、
飲み屋で他のお客に驕っていたという。世の中には、まだ、こういう人もいるのである。その辺のヤクザ者に狙われるのは当然。 
(字数制限のためカット 2011年6月6日)
 * インフルエンザの第二波、第三波は?
 * 昨夜は長岡で飲み会
(字数制限のためカット 2012年6月6日)
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2008年06月06日(金)
2620, あわや大事故!
 まったく、この男、よく変な事件を起こすよ!というのが、起きざまの実感! 昨夜、長岡で飲み会。 
普通は第一金曜日だが、上さんの都合で一日早めた。長岡の飲食街、道路には人っ子一人も居ない。 それだけでない、
タクシーも一台も並んでいない。平日のためだろう。 丁度0時頃、タクシーを拾うとして旧八号線にいっても車自体走ってない。
そこで信号を超えて川沿いの道を歩いていたら、左折をしてきた乗用車と出会いがしら撥ねられる。ガソリンスタンドの角で
見通しがよい筈。 かなりの衝撃であった。 ところが、左に担いでいた革鞄が振り向きざまで身体を防御してくれた。
右腕と左足の脛の右を痛打しただけで済んだ。運転手は若い男で、青い顔をして平謝り。大きい衝撃の為、かなりの人身事故と
勘違いをしたようだ。車に乗って病院に向かったが、触ってみたがそれほどではない。しかし、後遺症が出る可能性がある。
事故届けに長岡駅前交番に進路を変える。 しかし、交番は電気が消えて誰も居ない。そこで、電話をして本署からか来てもらう。 
そして現場で事故の詳しい聴取。それも運転手のみ。駅でパトカーが来るまで、「私は、問題を大きくするつもりはない、ただ、
事実を正直に言ってください。下手に自分の都合のよいことを言うと、貴方は不利になりますよ。私は後遺症の時に、
保険の問題などで公にしておきたいだけです。」と言い含めていた。 そのためか、処理は20分ほどで済んだ。
やはり、これを書いている現在、足の脛が痛み出した。 しかし病院にいくほどではないようだ。全く何が起きるか分からないものだ! 
九死に一生とは。 それが突然に自分にとは!やはり人生、したいことをして、悔いのないように生きなければ、それにしても
警察沙汰が二度も続けて起きるとは! (二ヶ月前に呼び込みに強引に店に連れ込まれそうになり、大騒動になった。)
これまで、個人として警察沙汰は一度もなかったが・・(普通なら当たり前だが)
 その運転手に、「こんな時間に、何してるの?」と聞いたら、 「スナックをしています!」という。 
生きているうち、健康のうち、元気なうち、そして若いうち! 人生は!
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2007年06月06日(水)
2255, まあ、いいか!            ヽ(★>з<)。o○ オ?ハヨ 
 この随想日記の中に数十回以上?も「まあ、いいか!」といっている。そこで、検索に「まあ、いいか」と入れたら、
その題名の本が数冊も出版されていた。自分を慰める言葉で、私の常用語「あ?あ!」の言葉の裏に含まれている。
「あ、しまった!」の「あ!」とは、仏教語で「許し」が入っているという。それを延ばしたのが「あ?あ」か、これは屁理屈。
「まあ、いいか!」は、「私は私のままで、仕方がないだろう」ということになる。 ゜≫q(´I`●) マアマア!
「まあ、いいか!」の前後の言葉として、「しょうがない」「なんとかなる」「こんなものか」が出てくる。
イライラしたり、落ち込むようなミスをした時、目を瞑って十回ほど心込めて「まあ、いいか! それがどうした」
と唱えれば、7割かたは気持ちが軽くなる。「あ?あ」「で、どうした」「まあ、いいか」は、瞬間の癒しのの三言である。        
♪? ヽ(´π`)ノ まあ、どうでもいいや! しかし、ものごとを突き詰めた後に使っている分にはよいが、最初から、
この言葉が先に立つのも問題である。「中途半端な、あの人」になってしまう。金沢に「まあ、いいや男」というアダナがいた。
バカ?の常套語にも成りえる言葉でもある。 何でも使う人間次第だが、この言葉は特にそうである。
  (字数制限のためカット 2010年6月6日)
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2006年06月06日(火)
1890, 村上ファンド崩壊の衝撃
                   おはよ?!(*^ワ^*)i
ライブドアの堀江の逮捕時に「最終ターゲットは村上」とスポーツ紙が報じていた。
当時はまさか村上ファンドが、そんなドジを踏むわけがないと思った。 
 (字数制限のためカット 2010年6月6日)
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2005年06月06日(月)
1525, わたしの酒中日記ー4
  金沢編ー2      1972年2月某日
武蔵が辻の職場からバスで、20分位のところに寮がある。 その中間点にある繁華街の香林坊で降りて、老舗風の飲み屋を探す。
今夜は片町の大和百貨店の裏にある飲食店のおでん屋に飛込みで入る。人品の良い美人の母娘がいた。聞いたら、三代も続いている店。 
隣の客が話しかけてくる。「言葉が違うようだが、観光客か?」「いや、勤めの関係で、一年います」地元の人からすると微妙な立場のよう。
とにかく、金沢の人は人なつこいのが特徴だ。それと金沢べんの言葉が心を優しくする。言葉の最後に(?じ)をつける。
「?だよね~」という意味である。 それと「?しまっし」という言葉もよい。 「~しなさい」という意味である。
そのアクセントが何ともよいのだ。特に女性がいうと「あ~金沢」になる。それとおいしい店が多い。ここの土手焼きが美味い。
それと次に頼んだスジ肉の煮込みも絶品である。おでん屋のおいしい店を彼方此方で食べたが、この店はまた格別である。
立て込んできたので、その店を出る。このまま帰るのは、惜しいので大和百貨店の隣の飲食ビルに入る。安そうなスナックに入って、
カウンターに座る。まだ8時なので、お客は誰もいない。素人っぽい20代半ばの店の女性が話しかけてきた。
まだ金沢に来て2ヶ月で、1〜2年いたら、何処かに流れていくとか。若いうちに、彼方此方にいって転々としたいという。
こういう生き方もあるのか、驚いてしまった。「この仕事の接客のポイントは何か?」と聞いたところ、
「期待を持たせること」とか。 まさか「何の期待?」とも聞けないし。「それじゃ?、何か期待してよいか?」と聞くと、
「今度、兼六園を案内してくれる?」というから、「今度ね!」と、空約束をして?店を出る。
バスの定期あるが、歩いて帰ることにした。浅野川の橋を渡って、20分ぐらいはかかったが酔いを冷ますのに丁度よい。
まあ、一人で飲むのも悪くはないが、それにしても金沢には美人が多い。それと金沢の文化と風情がよい。
金沢には、3年間が目安だ。能登半島や、金沢の街を貪欲に知っておかなくては。 もっと一人旅をしなくては。
加賀100万石の城下町の歴史が観光だけではなく、飲み屋や喫茶店などに色濃く残っている。
ここは地元の人には非常に厳しいコントロールがある。 反面、部外者には優しいのだ。
この文化的な特徴は数年住んでみなくては知りようがないが。明日は同期入社の連中との飲み会だ!
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また偶然の一致か、去年の今日も金沢関連のことが書いてあった。
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2004年06月06日(日)
1160, 「武士の家計簿」ー2
いまの時代にタイミングよく出版された、時の書といってよい。現在の日本は、第二次大戦の終戦時や、江戸末期から
明治維新の時期より大きい大転換期にある。
(字数制限のためカット 2011年6月6日)
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2003年06月06日(金)
793, 起業についてー2
 起業について実感のキーワードは「発狂」である。精神の爆発といってもよい。よし!やろうと決めた瞬間から、もう全ては
プロジェクトの完遂をイメージして突き進むだけである。よほどの粘りと信念がないと突き抜けることはできない。当然の事だが、
簡単には事業を興して軌道に乗せることは不可能。可能にするのは「的」が間違ってない事と、周到な準備と、信念だけである。
いまの事業を興した時は500?の成功確率という確信があった。失敗は許されないし、初めの一歩の重要さを知っていたため、
考えられるだけのことは考え抜いていた。それと、それまでの成功体験の裏付けがあった。何事にもいえるが一番大事なことは、
成功体験である。それが実績ということだ。 それと育ってきた家庭環境が大事ではなかろうか。
10歳位までに,両親の立ち上げをみた経験がなければ、計画も準備も甘くなっていた。また20歳で起業をするという決心をして
準備していた事もある。その瞬間から女性に対しては、気を許さなくなった?どちらを取るかといえば、迷いない事業の立ち上げであった。
若い時の最大の難関はまずは女性、創業以外の事を割り切ることであった。つまらない男になっていた!それが陰になっていた?ようだ。
 事業を始めるとき、まずは自分の心の問うたことがある。「経営資源として金を含めた資産を全て『博打の札ー事業』
に変えるが、全てを失っても後悔しないと自分に誓えるか? そして事業を本当にしたいのか???したい!!」
一人の誓いである!今更だが、それだけ勇気と覚悟が必要だった。おそらく大小にかかわらず誰もが、その位の自問自答は
しているのだろう。いろいろな危機があったが、最後はいつもこの言葉を繰り返していた。
結局は事業経営は博打でしかない!当たり続ける事はない。最後は裸になる覚悟は出来ている?のが強みである。
 しかし、まだ憶えているが、事業の準備をしていたときのことである。何か一人でTVを見ているとき、急に不安になり
「屋上の手すりの上に立っているような末恐ろしい感覚」になったのを憶えている。確か借金を初めてしたときである。
この意識下に隠れた不安が意外と経営の原動力になっているのだろう。
立ち上げで判断を迫られるとき、夜半の2時35分が一番冷静な思考になっている。
しかしこの大津波ー大不況に対して、まだそこまで意識がいってないのは、どういうことだろう?!これからか?
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2002年06月06日(木)
429,両親の死
両親が亡くなった時、一緒に住んでいた。 そしてその死に様から「生きるとはどういうことか」を学んだ。
死ぬとは如何に大変な事を知った。今ひとつ、死の視点から生を見るということを。
世間とか、娑婆の事を徹底的に割り切って見れるのも、両親の死から、それがいかに幻想である事を学んだからだ。
結局,残るのは「子供と愛情」だけ。それと‘生きてきた事’ー乗り越えてきた「行蔵」それだけだ。
意味とは最後の自己慰めかー心の印ということか? 死を自覚した瞬間の人間の「生に対する渇望」のすざましさに、身震いした。
その瞬間?死を覚悟した瞬間‘砂漠の真ん中に立たされる残酷さ’を直感した。‘心’は「主体」と「イメージ」で成立している。
心を失っている状態は、「主体をなくして何も考えられない状態」と考えれば逆に解かる?
何で‘心’が両親の死の話しから出てくるかと言うと、両親が死と直面した時に「主体」と「イメージ」が
湧き出てくる事実を見たからだ。それは死の恐怖感からくるものである?特に「主体」が凄い。
人生の全てのことは自分の戯曲でしかない。それに満足できるか、できないかだ。死ぬ事はそう簡単のことではない。
昨日の朝、隣の主人が亡くなられた。 今夜通夜、明日葬式に出る予定!
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2001年06月06日(水)
[44] 何の為のホームページ
何でわざわざ個人のホームページを立ち上げ、公開するのか?
 まずはこの疑問
 1・わざわざ写真を撮って入れたり、           2.貧しい内面の公開をしたり
 3.せっかくとった最重要情報?の公開をわざわざしたり  4.とにかくエネルギーを使わなくてはならない
でもそんなこと、この巨大情報空間から見ればどうでもよい事。むしろさらす事により、リンクの可能性が大きくなる。
インターネットとは考えてみてば、ホームページ間のネットである。基本はホームページである。その拠点を個人や会社で
持つことは、情報空間に自分の基地を持つ事になる。この時代あたりまえと言えばあたりまえである。
ウエブ上に拠点を持つことにより、他のホームページと相互関係になる。その事をホームページ持ったことで実感できた。
もしホームページを持つまでもないと考えるなら、‘お気に入り’の集積と、その分類を自分のパソコンにきっちりしておくべきだ。
そうした場合どうしても自分拠点を持ちたくなる。それは自分のパソコン内でいいのだが。
公開してもかまわない場合ホームページがよい。  巨大情報空間にさ迷い出た子羊というところか。