* 過去は変えることはできないが、過去の意味は変えられる
 何気ないが心に響く言葉、「過去は変えることはできないが、過去の意味は変えられる」がある。
40年近い事業人生と、この結末を如何に受容するか。所詮は、人生も事業もバブルと、その崩壊過程の側がある。
何事も始まりと終わりがある。その行蔵は残るが、変えることはことはできないが、意味は変えられる。 
それは、自分が何を目指すか、楽観的か悲観的か、などで意味の捉え方で変わる。 過去の意味(価値)を変えることは、
未来と現在に対する考え方を変える。過去を結果に言い換え「結果は変えることはできないが、結果の意味は変えられる」
として、人生、事業を総括すると多くの視点が見えてくる。現在こうして存在していることは奇跡である。
全てがベストであったから今の私が、ここに存在している。(この宇宙、地球、人間など全てだが)
 それでは「過去の意味を変える」とは如何なることか。意味に近い言葉に価値があるので、意味=価値として考えてみる。
価値とは、その人にとっての優先欲求、優先順位でもある。ということは、何を目指しているかに行きつく。
過去の価値は、現在の価値で解釈が変わって当然、作り変えられ、加工される? 歴史が、時間と共に解釈が変ると同じ。
意味には真実も含まれるが、その真実もあてにならない。当人が信じていること、それが真実といわれるケースが殆ど。
 そこで、真実と意味を辞書で調べると
・【真実とは、虚偽の反語。本当のこと、偽りでないこと。歪曲や隠蔽や錯誤をすべて排したときに明らかにされること。
 漢字の意味は、事柄の中身を開いて見たときに、実(じつ)として充満しているもの ...】
・【意味とは、表現に対する「なかみ」。意図するところ。表現(結果)をさかのぼる真意、意図、目的。
 ある現象(行為・言語・その他)に添付される、ある種の上位概念。】とある。
真実も、意味も、言葉の解釈で如何様に変わる。あるのは現在しかないとすると、過去は記憶でしかない。
その記憶も曖昧ときたら、成り立つ基盤は在って無いようなもの。「過去の意味は、現在の解釈で如何様にもなる」ということ。
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4070, 主義とは、内に貫く一つの信条
2012年05月17日(木)
    * 勇ましい、高尚の人生こそ最大の遺物!     ー「人生を励ます黄金の言葉」中野孝次著 より 
 「金も、事業も、文学も、思想も、これをもって最大遺物ということが出来ない。その訳は、誰にでも残すことが出来る遺物でないから
 最大遺物ということが出来ない」と、内村鑑三は論じて、こう訴えかける。
『それでドウゾ、後世の人が我々に就いて此の人等は力もなかった。富もなかった。学問もなかった人であったけれども、己の生涯を
 めいめい持っていた主義のために送って呉れたと云われたいではありませんか。是は誰にでも残すことが出来る生涯ではないかと思います。』 
▼「内に貫く一つの信条」こそ、その人となりである。 私は、「人間として生まれたからには、人生を全うをすること」を信条にしている。
  一度だけの人生、自分で納得できてこそ。納得出来なかったとしても、それも人生だが・・・ 主義とは言葉の通り、その人の主たる義。
  内に貫く一つの信条を実践することが義である。他人の思惑など入り込む余地など、そこには微塵もないはず。 貫き通せば、勇ましく、
  高尚の人生が、そこに残る。しかし、人間は所詮、動物の進化系でしかない。 勇ましい、高尚の人生も、見方でどうにでも解釈はできる。
  そうとでも思わなければやってられないということ。やり抜くには刷り込みも必要である。その刷り込みを、いかに加工するかである。
    * 長い期間にわたって不幸なのは、その人が悪い!
  誰でも長い期間にわたって不幸なのは、自分が悪いにほかならない。 死も生も堪える勇気のない人も、
  抵抗しようとも逃げようともしない人、こういう人にはどうしてやればよいのだろうか。  ーモンテーニュ『エセー』より
 ▼ どこにでもいる、不平家。 勝手に不幸と決め込んでいるから始末に悪い。悪いことに親から相続しているため直しようがない。
  現実を全く疑い持たない一般にいう世間人間。いっけん純粋で素朴のため、世間幻想を現実と信じている。
  まともに思考をしたこともなし。 傍によらないことだ。不幸、幸福など、これまた解釈の仕方ひとつ。
  不幸の時期ほどベストのことが隠されている。ベストよりベターが良いモノと、信じているんじゃないのか、彼らは?いや、自分か?   
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3704,自己を見つめる −22
2011年05月17日(火)                
   * 死について ー?          「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)
  死に際し、結局は神に頼りざるをえないのが人間。絶対者への希求に行き当たるのである。 最後は絶対者の支えなしには、
 人間自身が、己を支えることが出来ないのである。私という主体が死という終わりに、根本態度として神様無しにはいられない。
【 神の子であるイエス自身が、ゴルゴダの丘で十字架に架けられたとき、「わが神、わが神、なぜわ私をお見捨てになったのですか」と、
大声で叫んだ。 西田幾多郎が、言ったように、有限性の極みのなかで、その逆対応的に、絶対者への希求が現れてくるのである。
もちろん、その絶対者をどのようなものとして思い描くかという立ち入った内実は、宗教的信仰によってさまざまであろう。
しかし、そうした観念の根底に、すべてを知る者としての絶対者という概念が潜むことだけは明らかである。なぜなら、この現実の悲惨を
すべて知り尽くし、その上で、さらに、それを裁き、審判し、あるいは、善き者を許し、嘉し、こうして、すべてについて、正義の秩序を
保持して、万物を支え、生かし続けるであろうところの絶対者というものの観念の根底には、その根本前提として、その者が、生起した
いっさいの出来事を見抜き、知り尽くし、記憶し、けっして抹消されることのない全知のなかにこれを映し出す働きを行うということが、
予想されているからである。万物を知り、そのあるべき秩序を保持し、それらすべてを見抜いて、審判と恩寵を与え、そのようにして、
それらを本当の意味で生かす根源的な働きを行うところに、絶対者の絶対者たるゆえんがあることを、誰もが理解しているからである。
そうした絶対者が、実際にどこかに、この世界の内にか、あるいはその外にか、確固として、人間を越えて、現実に存在するかどうかが、
問題であるのではない。そうではなく、むしろ死の限界意識および、それと連なる人間の悲惨という事態の自覚を介して、私たち人間に、
懐疑と絶望と憂悶のなかで、それと矛盾するかのように、こうした絶対者への希求が湧き上がってくるという、その抑えがたい
祈願の強靭な根源性そのものが問題なのである。 そこに、絶対者の観念の生まれ出る根源があるということが大切なのである。
言い換えれば、死の問題意識は、こうした絶対者の観念を生む土壌であるという根本事実が重要なのである。おそらくは、そうした
絶対者の観念は、私たち人間自身の救いようのない現実意識の裏返しにすぎないのかもしれない。 しかし、私たち自身のうちには、
時を越えた不滅の全知の存在を要請する根強い希求が、最後の時に至るまで、燃え盛っていることだけはたしかである。
それが、人間の生存とその努力を内面から支える根拠をなしている。 その根拠への確信が引き抜かれるとき、おそらく、人間の生存は、
その究極の意味と支えを失い、人間自身が、崩壊するであろう。 人間の生存の営為が無意味でないためには、その精進と努力の
いっさいを移ろうことなく見届け、意味づける絶対者の眼差しがどこかに存在しなければならない。 誰もが、みずからの心の奥深くに、
そうした絶対者の眼差しの影を宿している。そこに、人間の存在の、畏怖すぺき尊厳の最終根拠がある。
それは、死をも越えて光輝く人問の尊厳であり、人間をとおして瞬く絶対者の眼差しである。 ーP・291 】
 ▼「死の問題意識は、絶対者の観念を生む土壌であるということが重要なのである。 絶対者の観念は、人間自身の救いようのない
  現実意識の裏返しにすぎない」 絶対者の眼差しが人間には必要欠くべからざるである。大部分の凄惨な最後は、それを示している。
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3339, 2011年新聞・テレビ消滅  −2
2010年05月17日(月)
               「2011年新聞・テレビ消滅 」ー佐々木 俊尚 (著)
 現在のマスメディア崩壊の原因の1つとしてメディアのプラットフォーム化の進展をあげている。
これまでは新聞社の社員が記事を書き、紙面をつくり、印刷し、それを販売店に届けた。
売店も専売店としてネットワーク化されている。これを3つの層に分けて説明する(もとはグーグルの及川卓也氏の説)。
   その3つの層とはコンテンツ、コンテナ、コンベヤというモデル。
 ● コンテンツ=内容  ● コンテナ=内容を納める媒体 ● コンベヤ=媒体の流通経路  という形で説明している。
* これから旧来の新聞を分類すると、
 コンテンツ=新聞記事
 コンテナ=新聞紙に印刷された記事(新聞紙そのもの)
 コンベヤ=新聞販売店 となるが、
  インターネットでニュースを読む層が増えてきた今は、
 コンテンツ=新聞記事
 コンテナ=新聞紙、またはニュースサイト
 コンベヤ=新聞販売店、またはインターネット  と変化してきているとのこと。
*  テレビだと、コンテンツ=番組、 コンテナ=テレビ、 コンベヤ=地上波、衛星放送、CATV。
 これがコンテンツ=番組、コンテナ=ユーチューブ、コンベヤ=インターネット、という形に移行し始めている。  
   (字数の関係でカット 09年05月17日) 
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2964、「未婚社会」
 2009年05月17日(日)
  先日のNHKの特番「未婚社会」をみたが、収入に対して女性がシビアな現状に驚いてしまった。。
 長期停滞景気などの時代背景が、そうさせているのだろう。 最近は男性の収入も少ない。
 平均収入が200万円の男性が一番多いが、女性が男性に望む最低年収は400万円。
 20代の独身男性で年収400万円以上は4分の1しかいない。男の非正社員の既婚率は正社員の約2分の1。
 30歳になっても、この時勢では給料が右上がりにはならないなら、互いにミスマッチになる。セクハラを恐れて職場の女性に
 近付けない男性の声もあった。それなら男は自分の趣味に没頭するしかない。女性の魅力も情報化で減少する。 
 法的に縛った現行の結婚制度に対する反対もあったが、頭でっかちの感も。ドイツの新しい制度が紹介されていたが特徴として
 (1)減税あり、(2)お互いに貞操の法的義務なし、(3)一方的に「結婚」を解消化が可能。 日本とは背景が違う。 
  未婚者増加の原因は「草食系男性の増加?」と、背景にワーキングプアの拡大がある。 
  いま、この国の若者の置かれている状況は深刻。 情報化社会も、結婚を躊躇する要因になっている。
  ・女性の立場からみれば、豊かな社会がTVなどを通して入ってくる。そうすれば「金のない男と苦労覚悟で
   何で結婚しなければ?」と疑問を持つのも当然。
  ・男の立場からしても、「高慢な女性とワザワザ結婚するより、好きな趣味の世界を保っていたい」もの。
  私たちの時代は、男は30歳まで、女は20歳半ばまで結婚するという世間的圧力があった。
  しかし、現在では就職戦線が氷河期の中で、収入が大きな壁になっている。
  渡辺淳一が昨日のモーニングショーで、草食系の現代の若者に対して「欲情の作法」を語っていた。
  ・心を込めずに褒めろ ・テスティングをしろ(触れ、誘え)・片っ端から口説け 等々。
  いちいち真面目に考えずにチャンスをつくれということ。 しつこくする、のは違う。
  一時代前なら当たり前のことが、現在では教訓になる。男諸君、先日の週刊誌の見出しに「独身男は、9歳も早死にする」
  とあった。 理想が高いのは解るが、自分を見つめなおして見切りをつけなさい!ということ。 
   しないよりは良い。  いや、どうか? 過半数は破綻するから、どうともいえないか〜?
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2600, 一点集中力
2008年05月17日(土)
  「一点集中力 」伊藤 真 (著)
 図書館で見つけた本だ。今さらと思ったが、借りて目を通してみた。著者が東大在学中に司法試験に合格。
その後、受験指導を始めたところ、人気講師になり、95年に「伊藤真の司法試験塾」を開設して「伊藤メソッド」と呼ばれる
革新的な勉強法を導入して、司法試験短期合格者の輩出全国トップクラスの実績を不動にしていると、著者履歴に書いてあった。 
その彼の恐らく最も基本が一点集中主義なのだから、説得力のある本であった。表紙裏の紹介文は簡単にー何かを成し遂げる人は、
みな「一点集中力」を持っているーである。まだ憶えているが、小学校の5年生になった時、ある姉が勉強法を教えてくれた。
「いい点数をとりたかったら、一教科だけとにかく集中して一度良い点数をとってみなさい。そうすると、他の科目も良い
点数がとれるようになるから」であった。 そこで算数に狙いをつけて一番になってみた。そうしたら、他の科目も何時の間に
取れるようになった。これも一点集中だったのだろう。とにかく、やはり借りて読んでよかった。もし受験期の子供がいるなら、
迷いなく、この本を買って与えることを勧めます。 私自身の一点集中は、
・この7年間は、この随想日記を欠かさず書き上げること。
・秘境ツアーに行き続けること。
・良い習慣を少しずつでも付け加えること。それ以外で捨てること。
  私も一点集中ということに関しては、知っていたつもり。
「錐の先の一点集中のエネルギー」「レンズで太陽光を一点に集中し発火させる」等々
 戦略・戦術のまず第一歩である。それを兵法でといたのが「孫子の兵法」である。
 まあ自分の話は、この辺にしておいて、
ーこの本の印象に残った部分を抜粋してみようー
 (字数の関係でカット 12年05月17日) 
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2007年05月17日(木)
2235, 男は女のどこを見るべきか  ー2     (゚∇^*)オハヨ♪
                 ー岩月 謙司 (著)
 第四章 女性は記憶をかいざんする がなかなか面白い。この歳になり初めて知らなかった女性の心奥の魔性の一部を
垣間見た思いがする。一番身近な家内の心の内の未知を幾つか知って驚いた箇所があった。
なるほど男の知恵と女の知恵は大きく違う。まあ、それが良いのだろう。
 *記憶の改ざんについて*
特に記憶の改ざんについて、なるほど思い当たる部分があまりにも多い。 女兄弟や女性の職場にいたこともあり、
多くの特性を把握していたつもりであったが、所詮は男の立場の理解でしかなかった。
 (字数の関係でカット 09年05月17日)
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2006年05月17日(水)
1870, ブラジルの襲撃・暴動                   おはよ?!(*^ワ^*)i
(字数の関係でカット2,008年05月17日)
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2005年05月17日(火)
 1505, ドッグ・ファイトー2
一昨日の朝、散歩をしていると川原でカラスがシギ?を追い掛け回していた。ところが他の二羽のカラスがそのカラスを攻撃を始めた。
何か仲間を諌めているようで、微笑ましい世界を垣間見たようだった。これを見て以前ドック・ファイトについて書いたことを思い出した。
異種の動物同士のテリトリー争いを「ドック・ファイト」というが、現在は「戦闘機同士による空中戦」を意味する。
電線にとまっている一羽のカラスの周りに鳩が10羽ほど囲んで威圧をしている姿や、セキレイが鳩が数十羽もとまっている中に入って、
一羽ごと追い掛け回している姿や、雀と燕が、巣の奪い合いをしている姿や、鳶をカラスを攻撃している姿など、異種の鳥同士の争いを
目にすることがある。 去年、オーストリアに行った時も、鳩とカラスの集団が空中戦をしていた。「いずこも同じ」と、見とれてしまった。
この文章を書いていて、「ドッグ・ファイトについて」殆ど誰も書いてないことに気がついた。 いくらでもネタがあるのだ。
あまりドッグ・ファイトを見かけないのだろう。4年前の今日、やはりドッグ・ファイトについて書いていた。
ー後日談だが、燕の巣は雀が勝って棲んでいたが、燕が来なかったためか、その後きれいに取り除かれしまった。
 2001年05月17日(木)  ドッグファイトー1
3月末いつもの土手を散歩をしていると、顔見知りの人が{ツバメが今日来たようですよ}と声をかけてきた。
バイパスの下のトンネルの蛍光灯の上に7?8個ツバメの巣がある。十数年来この時期になるとやってくる。 
そして春の到来を実感する。なるほど十羽ほどが飛びまわっていた。なにか異様な雰囲気によく見ると、
ツバメと雀が入り乱れて飛んでいる。数羽の雀がツバメを追いまわしているのだ。もちろんその速さが違う、
またそれが可笑しいのだ。巣のほうを見るとツバメが巣の中の雀と戦っている最中。
  (字数の関係でカット 11年05月17日)
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2004年05月17日(月)
 1140, 自由について-1
学生時代より『自由とは何』を考えてきた。そして自分の自由を優先して生きてきた?
しかし考えてみたら、自由は自分のやりたいことをみつけ、それを追及することである。
自らの自己実現に対して忠実に生きることであった。 字のとおり「自らに由り、生きること」である。
そして自由な生き方ー周囲の因縁や世間といわれている束縛から解放されている状態を理想としてきた。
調べてみると、自由には多くの意味やとらえ方があるようだ。手の自由といっても、しょせんは人間の体の一部としての
腕の範囲内の自由でしかない。しかし使い方は自由である。自由には当然、自由なだけの自己責任がともなってくる。
アイザリア・バーリンは自由を「消極的自由」と「積極的自由」の2つに分類した。
 ー「消極的自由」とは「他者からの強制・干渉を受けずに自分のしたいことができるという意味での自由」であり、
 ー「積極的自由は自己が自己を支配している状態」ととらえられる。
 例えばカントは、恣意に従うのではなく「理性」に従う状態が自由であると主張している。
また、ハンナ・アレントは政治活動を通じての自己実現こそを自由の本質と看做している。
これは「より高次の自己」を獲得するための手段・条件としてとらえられることになる。
このような積極的自由は「個人主義的積極的自由」ととらえられる。
キリスト教世界においては、人間存在の根源的価値を「自由」としている。
ルソーは、その著書「社会契約論」で「人間は自由なものとして生まれた」と述べたが、
「全ての人間が社会において等しく自由である」という事は絶対に不可能である。
かつてホッブズは、各自が己の自由を守る為には「万人の万人に対する闘争」に陥る。と指摘した。
キリスト教世界において、人間が自由であり続ける為には、戦い続けなければならない。
「自由」という言葉には、英語では2つの単語が存在します。
 「Liberty」と 「Freedom」である。
 「Liberty」とは「束縛からの自由」を意味し、束縛から逃れる為には、戦わなくてはならない。
 (字数の関係でカット 11年05月17日) 
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2003年05月17日(土)
 773, 日本が真に独立をするためには
評論家の福田和也氏が寄稿しているテーマ
日本は『核武装』しかないのか」が、なかなか説得力があった。
    (字数制限のためカット 2010年5月17日)
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2002年05月17日(金)
 409, いろいろな悩み
3年前まで20年近く中学の同級会が開かれていた。 3年間休み今年から再開とのこと。高校もしかり、本当にまとまりのあるクラスだ。 
もう10年少し前の話だが、丁度、中学の担任の先生が定年退職の年だった。そのときは、先生にとって至福の一年となるらしい。
受け持たれたクラス単位で、それぞれお祝いの会を開いてもらえるという。湯沢の旅館で泊り込みでクラス会が盛大に開かれた。
そして次の日の夜まで、30時間延延と続いたクラス会になった。長岡である女性がスナックを開いており、翌日の2次会はそこで行われた。
その時、たまたまカウンタの隣の席に座った先生が、浮かない顔で、俺の悩みを聞いてくれという。 先生「俺の両親が90歳と87歳、
同居しており今もカクシャクとしている。両親とも先生をしていた。別に自宅と別に、マンションを持っていて時たまそこに行く。
実をいうと、この年で実感として自分の人生が無かった。それが無念だ!本当に深刻の悩みなんだ。」
 自分には、その先生の悩みが理解できた。父が亡くなった時、自分にとって溺愛してくれた喪失感が大きかった。その時の家庭の事情等で、
あと頼れるのは自分ひとりという精神的自立ができた。丁度、千葉で事業の立ち上げの時期と結婚も含め、自分にとってタイミングが、
ぴったりであった事も確かであった。親の死は子供に対する最大のプレゼントというが。その要素も確かにある。その意味で、
先生の悩みが理解できた。でもその状態を「無念と考えるか最大の幸せと考えるか」もあるだろうが、本人しかわからない悩みだろう。
その数年後、両親が亡くなった。 先生に「実際亡くなると、違うでしょう」というと、
「いや何の悲しみも、喜びも感じなかった。やっと死んでくれたという気持ちと、ただ無念だけが残った」
といわれた。その先生も4年前に脳梗塞になり、東京の子供のところに引っ越していかれた。  人生はいろいろある。