ー「死ぬのが怖い」とはどういうことかー 前野 隆司著
  * ルート4:主観的時間は幻想だと理解する道
   ーまずは、この概要を主観的にまとめてみる。ー
≪ 客観的な「今」と主観的な「今」の違いからみると、客観的時間は、時間が一定速度で進むという前提に基づいている。
 時間を秒、分、時間、日、月、年、ディケード(10年)、世紀といった絶対尺度で捉えるから、そのような結論になる。
客観時間は、一定速度で進む。それは、人がそのように定義したからに過ぎない。しかし、主観時間は、そのように
捉えるべきものではない。 主観的時間を考えるに、「今」を考えてみよう。「今」は、客観的には時間軸のある一点である。
客観的な今は時間の幅を持たない。どんなに短くても、時間が幅を持っていたら、それは今でなく、過去と未来になってしまう。
今とは、それが千分の一秒前と、千分の一秒後の間が、今になってしまう。 千分の一などどうでもよいと思いがちだが、
数学や物理の世界ではそれを認めない。ということは客観的今とは時間幅を持たない。 では、主観的な今とは何か。
クオリアとして知情意を感じている、この今とは何か?」と問う以上、主観的な今は時間の幅を持っていると考えるべきだ。
ここに、時間的幅を持たない客観的な今と、時間幅を持つ主観的今。両者の定義は異なる・・・
 私たちの心は、「今」しか考えられない。過去を思い出したり、未来を想像できるが、それらを行うのも「今」だ。
私たち人間には、過去も未来もない。実は現在もない。 過去のことを思い出せるが、エピソード記憶に残っていることを
思い出しているに過ぎない。過去はクオリアではない。単なる記憶だ。その過去の体験のクオリアに戻ることは出来ない。
人間には「今」しかないのだ。・・・ 僕たちは「今しか感じられない機械」。今と、生まれてから今までと、今から死ぬまでが、
あなたにとってのすべての時間なのだ。それだけだ。 主観的時間には、「死」なんてない。死ぬ瞬間は、もはや主観的な
「今」はない。死の直前には「今」を感じられるが、それは死の瞬間ではない。主観的には死はないのだ。生まれる前は
主観的には生まれていなかったのだから当然、時間は流れていなかったのだ。主観的な過去の時間は過去にさかのぼるほど
圧縮され、ついには物心ついたとき以前の時間は完全につぶれゼロになると考えるべきだ。未来も、先に行くほど圧縮される。
物心ついたときより前の時間がぺしゃんこにつぶれてゼロだったように、いつか死んだ後の時間もぺしゃんこのゼロだ。・・・
つまり自分が死んだ後の無限の時間、という想定も、過去と同様、見直すべきだ。 そんなのは無いのである。≫
 ▼ 当たり前のことを論じているが、これが自覚できないのが人間。過去も未来もゼロ、現在も幻想。ただクオリアがあるだけ。
 「自分が死んだ後も世界は無限に続く」ということが、間違いである。死ぬと同時に今も、過去も未来も、ゼロに潰れる。
 「今」しかないのに、過去や未来にこだわる人間は奇妙な生きもの。過去は記憶に過ぎなく、未来は予測に過ぎない。ならば
  可能な限り、嫌なことを忘れ、良いことを繰り返して思い出すよう努め、今だけを考えること。所詮、未来も、過去もない。
  それで良いのだと。亡くなった両親を考えてみると、その道理が理解できる。死んだ後の時間はペチャンコに潰れている。
  クオリヤを感じている今こそ、生きているのである。だったら、私たちも、この「今」を生きるべきである。
  主観的時間が幻想としてもである。今しか活き活き生きることが出来ないのである。ケセラセラと今を活き切るしかない。
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4061, 我事に於て後悔せず
2012年05月08日(火)
   * 我事に於て後悔せず。  宮本武蔵五輪書』より    ー「人生を励ます黄金の言葉」中野孝次著 より 
 この本で著者は、五輪書の武蔵の「我事に於いて後悔せず」を取り上げている。一流のプロなら、引退後の後悔などせぬはず。
 後悔するのは腐った?のような人物がするもの。 ー 以下の部分は、その辺りを微妙に書いてある。
≪ これをふつうは「われ事に於て後悔せず」と読む。小林秀雄は「わが事に於て」と読むほうがよかろうと言っていて、その意は、
「その日その日が自己批判に暮れる様な道を何処まで歩いても、批判する主体の姿に出会ふ事はない。別な道が吃度あるのだ、
自分といふ本体に出会ふ道があるのだ。 後悔などといふお目出度い手段で、自分をごまかさぬと決心してみろ、さういふ確信を
武蔵は語ってゐるのである」(小林秀雄『私の人生観』)と説明している。 自分の過去の行動についてあとから、あれは間違っていた、
などとそのたびに後悔するようでは、後悔というものを受け入れるようでは、ひとは本当の自己に出会うことはできぬ、というのだ。 
小林秀雄は武蔵の言葉をかりてつまりはそれが言いたかったのだが、このことは今ぼくらの考えている「自己への忠誠」にあてはまる・・・
◎『自己に対する何という無礼だ、その決心をした時より今の自分の方が利ロだと、どうして思うのか。』スタンダールパルムの僧院
 これぞ言葉の中の言葉だ、これほどにひとを励まし、自己への忠誠を元気づける言葉を、ぼくはほかに知らない。 武蔵の箴言
 いささか道学者くさいが、ここには自己であることの純粋なよろこびがある。・・これはスタンダールの全作品に鳴りわたっている言葉。
◎ ースタンダールはそのすぐ前で公爵夫人の性格についてもこう言っている。公爵夫人の性格には二つの特徴があった。
 彼女は一度欲したことはあくまでも欲した。また一度きめたことはけっして論議しなかった。
◎ ー彼女は偶然にまかせ、そのときどきの快楽のために行動してきた。しかしどんな行動に身を委ねる場合でも、断乎として行なった。
 あとで冷静に返っても、けっして自分を非難しなかった。まして後悔しなかった。自己にたいする忠誠とはかくのごときものであるかと
 若い日に讃嘆させられて以来、これらの言葉はそのときどきにつねにある内耳器官のごときものとなって、ぼくを導いてきた小説の
 主人公ではないか、とバカにしてはいけない。    ≫ 
▼ 小林秀雄に「無私の精神」という文章がある。実践家は、自我を押し通す人と思いがちだが、実は無私の人である。
 彼は無私に徹しなければ物事は成就しないことを知っている。極限に立ってきた人は後悔などしない。 そこで自分を押し殺し、
 己を抑えるほど物事は大きく成就してきたことを知っているからだ。  後悔は、実践の中では後々、害になることもである。
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3695, 自己を見つめる −17
2011年05月08日(日)            「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)
 還暦もとうに過ぎ、更に65歳になったとたん、事業は、これ。 それは本格的な老いへの第一歩を踏み込んだ現象だろう。
歳には勝てない現実が誰にも待っている。それに対し抵抗を諦め、従うしかない。それが老いと著者はいう。
そして、それが恵まれた状態で向えようが、悲惨な状態であろうが、直ぐにやってくる死を前にすれば、誰も彼も大して
変わらないことは、今更言うまでもない。それぞれの年齢の老いの景色は変わっていくが、殺風景になっていく経験も
辛いものがある。 しかし、それでも、生きているだけでも有り難いと思えるうちは良いが。
  * 老いについて ー?    −P262
【 老いは、端的に言って、心身の変化や不調、障害や不全、病気や悩、生計の面での困難や窮迫、人間関係における亀裂や別離、
忘恩や裏切り、さらには長年の人生遍歴における事故や災害、対立や紛争などの側面の出現といった、ありとあらゆる不幸な事態の
顕在化という姿を取って、人生の暗い側面を表す顛末の様相を帯びながら迫ってくる傾向が強い。もちろん、明るく幸せな老年という
ものも存在するであろう。 けれども、老いは、もともと死の予感とも結びついて、悲惨な様相の影を本質的に内在させている。
老いは、総じて、誰もがそこから眼を背けたがる暗黒の象徴を含むものとして受け取られる面を含んだ現象であることは否定する
ことができない。 実際、ショーペンハウアーも指摘したように、年を取って、生計に困り、病気がちとなったら、その人の晩年が
暗いものとなるのは必定である。したがって、誰もが、早くから、その点に留意して、自分を守る必要がある。 しかし、いくら
用意周到を心掛けても、予測しえない出来事の起きるのが人生である。 老いと高齢化の行く手は、誰にも予測することができない。
むろん、老いとともに円熟する人生というものも考えられる。しかし、人間は、受肉した自分自身を、自分自身の思いどおりに、
させたり、若返らせたり、あるいは好きな姿で老化させたり、終わらせたりすることはできない。 自己の自然的かつ社会的な
存在のうちには、自分の思いどおりにならないもの、いわば自己の根源的受動性が潜んでいる。自己は、自己を越えた宿命の定め
委ねられた側面を、その根底に抱えている。 いかに自発性に富み、能動的で、いわゆる勝ち気で、理性的な人といえども、
自分の老化と死を、自分の思いのままに支配することはできない。 人は、老化と死の歩みを停止させることはできない。
それどころか、老化し、瀕死の身となった自分自身を自己は、自分で処置することもできず、そこでは自己の能力の限界に突き当たる。】
▼ 定年などを切欠に職を終える時期に、人は、老いの段階に入ったと認識させられる。特に定年制は、まだ活力のある逸材を含めて、
一律に世の中から排除する一種の姥捨てとして、世代交代の作用にもなる。姥捨ても見方の一つだが、現実には山中で悲観にくれる
のも辛い。 二人称である親族、知人などの最期を傍でみていても、壮絶である。そこに向かって一日一日が歩みだした自覚を
持ったとき、本当の老いが始るのである。 起承転結でなく、起承転々というが、これが難しいはず。老いと向き合う時期に入ったか。
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3330, スモールハッピネスの「少年ジャンプ世代」
2010年05月08日(土)
 「知の衰退」からいかに脱出するか? ー大前研一 (著) −3
   * スモールハッピネスの「少年ジャンプ世代」
 いまの日本を語る上で、以下のように著者独自の観点で世代を分けている。
≪ 偏差値の次に指摘するのが「少年ジャンプ世代」である。この世代は「偏差値世代」より、さらに考えることが出来ない世代。
 彼らが育った1980年代後半は、「少年ジャンプ」が部数的に大飛躍した時代で、1990年に入ると、実に600万冊以上も売れた。
 その「少年ジャンプ」で描かれるのは、編集方針である「努力・友情・勝利」という、3つの要素の入った物語。
 この3つの要素で1つの物語が完結をする。 しかし、その物語というのは、‘近くのラーメン屋の娘と仲良くなれたらラッキー’
 というふうな世界である。 勝利は社会的な勝利ではなく、極めて身近な勝利である。小さな夢と身近な友だち、そして幸せ。 
 それもいいが、言い換えれば、「非常な内向き」ということになる。 このような、外向きでない人間たちがいまの日本の
 働き盛りの中核を占めている。 これは憂うべきことで、日本だけの閉じられた世界ではグローバルは立ち行かなくなる。
 少年ジャンプの世界は、最後は勝利である。 そこには、ものを考える余地がなくなっている。 2000年代に入ると、
 その少年ジャンプが部数低落に歯止がきかなくなってしまった。主人公が努力している姿を見ても面白くなくなったなど、
 色いろ分析されている。 この世代に続くのが、「ゲーム・キッズ世代」である。 ≫ 
▼ 以上が要旨だが、国が衰退するときは、頭と尻尾から腐ってくる。 それにしても幼稚である。草食系は、アメリカと、
 その手下の自民党社会党、そして官僚の長期政策の結果だったのである。
 ここで思い切った政策の変更を根底から変えなければならない時期に来ているが、果たして可能かどうか。
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2955, マネーはなぜ暴走したのか?
2009年05月08日(金)
 * アタリの経済危機を考える 
NHKの連休の二日間のジャック・アタリのインタビューの内容が考えさせられた。
 二時間近い内容を、頭に残っているまま思い切って要約すると、
《 この経済危機の大きな要素は、ベルリンの壁の崩壊である。これは人類3千年かけて望んできた
(自由)と(個人)を最終的に獲得した画期的な大事件。その結果として、まずは経済のグローバル化が始った。
 それが市場原理主義と情報化がマッチして世界の流れになってしまった。
 しかし、それには絶対的なルールが必要であったが、アメリカの金融関係の連中が自分の利益を追求するあまり、
 ルールのできる前に金融工学とかいう美名を楯に世界中に得体の知れない金融債権をばら撒いてしまい、
 再起不能なほどの金融危機を起こしてしまった。
 その結果、今後10年、20年、30年と、大きな津波が押し寄せることとなった。
 第一の波は、アメリカ一極支配体制の崩壊(アメリカは、一極支配は捨てても、決して弱体化はしない。内向きになるだけ)
 第ニの波は、多極支配体制への移行
 第三の波は、グローバルな超帝国の波 ー市場そのものが帝国化して、国単位では規制不可能になる
 第四の波は、超紛争の波 ーあらゆる武器が開発され、誰もコントロール不能になる
 第五の波は、超民主主義の波 ー人々は利他主義に気づいて、その力が加速して結果として、プラスの流れが出る。
       アイデアは他人に与えても減るものではなく、むしろプラスの相乗効果が出てくる。
 世界の人は、自家用のヘリコプターを持っていても誰も賞賛しないが、持っている者を惜しみなく人に与える人を
 賞賛するようになる。それこそ、人類が求めていたもので、合理的利他主義という。 紛争や、移動の簡易さで、
 ノマドといわれる遊牧の民が増えていく。 ノマドにも三種類あって、?超ノマド=世界中を気楽に何処にでもいける人、
 ー下層ノマド ーバーチャルノマド=誰もがなれるが存在してくる。 第一から第四の波は、多くの痛みが出てくるが、
 その結果として、第五の超民主主義が出てくるというのが、 楽観的といえば楽観的だが、それはインターネットが
 大きな役割を果たすことになるだろう。 こうして要約すると、この流れは当然起こって然るべきことと納得できる。
 流れの背景は、やはり世界の人は「自由」と「個人」という言葉を獲得したのである。
 その最も有効に働いたのが、インターネット、携帯電話である。これは、どんな権力者も阻止できない流れとなってしまった。
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2591, 日本壊死
 2008年05月08日(木)
三年前なら、読み過ごしたが、サブプライムローン問題が大きく露出した現在では、この本の内容は決して
絵空ごとには思えない内容である。特に、ここにきて日本がアメリカの属国とう著者の論は、的を得ている。
彼の主張していることは、彼からすれば当たり前のことで、誰も現実を直視しようとしないだけなのか。
安部前首相、福田首相の姿を見ると、数年後の修羅場が目に見えるようである。
「日本壊死」ー新しき人目覚めよ   船井 幸雄, 副島 隆彦 (著)
ー 表紙裏の説明文
アメリカ帝国主義とロックフェラー支配の終焉、1ドル60円時代の到来、ユーロの台頭、借金1000兆円国家・日本の地獄絵図、
財務省の重罪、預金封鎖と老人税の導入、行革が進まないワケ、脱米入亜の可能性、次世代国家を作る新しい人たちの登場
 …日本が歩むべき道を徹底討論。
 *面白そうな部分を抜粋してみた。
副島隆彦
・「米国債400兆円を買わされ、さらに毎年30兆円分買おうとしている日本」
  (字数の関係でカット11年05月08日)
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2007年05月08日(火)
 2226, いい男とは? ー2             (p≧w≦q)オッ☆ o(≧▽≦)o ハァァァァァァヨウ♪
この本「女は男のどこを見ているのか」で一番面白く印象に残ったのが、次の一節である。
 ≪字数制限のため、カット2010年5月8日≫
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2006年05月08日(月)
1861, グーグル Google            おっ w(゚Д゚)w ハァョ?
「グーグル Google」 文藝春秋  著者 佐々木俊尚   ー読書日記
  (字数の関係でカット09年05月08日)
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2005年05月08日(日)
1496, いま・現在について?4
 「記憶のない男」ーDVDレンタル
レンタルDVD で観た「記憶のない男」が、「いま」と「私」を考える上で面白い内容であった。
 ー知らない街に仕事を捜しに来て、暴漢に襲われて記憶を全て失った中年男の物語ー
それぞれの人の「いま」は、それぞれの過去を背景を持っている。過去が記憶喪失で失われた場合、その人の「いま」は無いに等しい。
ストーリーの中では、そこまでは表現しつくしてはいなかったが。しかし、その空白を「いま・現在」という現実の中で、必死になって
埋めようとする主人公の心を、静かに淡々と映し出していた。過去の想起がなければ、[私]は存在しないに等しい。動物に[私]はない。
それは想起ができないからである。もし自分が過去の記憶をなくしたら、「いま」という感覚は希薄になる。
青年時代の日記を偶然倉庫で発見。それを、悪趣味的?に、この随想日記で露わにした。その過去の「いま」を、思い出せば出すほど、
現在の「いま」との重なりが見えてくる。そして現在の「いま」がより濃く深くなっていく。それは現在が過去より成立しているからだ。
過去や、未来より、「いま」が全てだと考えがちだが、過去も未来も重要であることを教えてくれた映画。
{「いま」を人間の手とすると、過去と未来は人間の身体}と例えると解りやすい。手は手としては存在し得ない。
   (字数の関係でカット11年05月08日)
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2004年05月08日(土)
1131, 「藤沢周平」ワールド
この一年以上、藤沢周平にはまっている。新幹線では、行き帰りの半分以上は藤沢周平を読んでいる。
庶民のひたむきな生き方を真摯な目で見つめているのがよい。小説の多くは似たような内容であるが、
それでいてストーリーが面白い。生きることの重みと哀しみを知り抜いた人でしか書けない内容である。
  (以下、字数の関係でカット2,008年05・08) 
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2003年05月08日(木)
764, 「カリスマへの階段」
いまマスコミで連日報道されている白装束の集団「パナウエーブ研究所」を見ていて、誰もが「何故真っ当な大人?が、
かくも幼稚な教祖様の御教えを信じてしまうのだろ?」と首をひねる。マインドコントロールというヤツで洗脳されてしまうのだ。
7~8年前に『オウム真理教』が騒がれていた時に、図書館でコリンウイルソンの「カリスマへの道」を借りてきて、
あまりの面白さに蔵書として買ったのを思い出して、また読み返した。何度読んでも面白いものは面白い。
9年前にスイスのカルト『太陽寺院』のメンバーの集団自殺がおき、その前後して麻原の『オウム教』の問題が出てきた。
彼らは決まって終末思想がある。そして、その信者だけが救われるという教えを繰り返し教え込んでしまう。
オウム教のそれは『世界の終末は1997年に起き、オウム真理教の信者のみが救われる』と説く。
 この白装束の主張は
・この5月15日に何処かの流星が地球に衝突する
・また共産ゲリラが彼らに電波で攻撃を仕掛けているという。
このような幼稚なカルトに何故ごく普通の人たちが、妄想にひた走る「メシア」様の命令を唯唯諾々と従うものか?
その原理を「カリスマへの道」では歴史を遡って書いている。
その中で一番面白く本質をついていると思われるところを以下に書き写した。
≪ 西暦1666年の初頭、全欧州が人類の歴史上の最大イベントを待ち構えていた。ユダヤ民族を昔日の栄光に導くメシア登場である。 
この神の使者はサバタイ・ゼビという40歳のユダヤ人。今はスルミナに住んでいるが、やがてトルコのスルタン(皇帝)を打倒し、
龍に乗ってエルサレムに入城する手筈なっている。そしてその後は戦いで次々と敵を倒して世界の王になる予定。
ユダヤ人が『我々が今にあなた方の主人になる」と言うと、 キリスト教徒も心配を始めてた。・・・
 大都市の多くではこの期待は早くも混乱を生みつつあった。ユダヤ人社会が商売を止めて最後の審判の準備に入ったため、
まずは商業が機能停止になった。ハンブルグでは人々は家と土地を売り至福千年期に備えた。・・・・・・・・
だが年も押しつまる頃に信じがたい噂がながれ,歓喜は落胆に一変する。イスラムにサバタンが改宗したという。
サバタンが若いメフメト4世の前に引きずり出され「イスラム教に改宗するか、さもなくば生きたまま串刺し」と二者択一を迫られた。
これに応じたメシアのサバタイは直ちにユダヤ帽を地に投げ捨て唾を吐きかけ、白いターバンが頭に巻きつけられるに任せた。
そしてスルタンー皇帝はこの改宗を優雅に受け入れと新しい名前と門番の職を与えた・・・ }
▼ こういう新興宗教のメシア様の色いろな内容が次々と出てくるのだ。神の名での教祖様のハーレムがつくられ、組織内での多くの殺人が
繰りひらかれるのだ。宗教ごっこならよいが、セックスと殺人が終末思想の元で日常になって自己破滅を始めていくのである。
オウムのようなことは、宗教の創立期にはどこでもつきものである。理想社会は教祖様にとっての意識下の世界でしかない。
95パーの従順タイプの更なる他人志向を求めている人は、その理想社会の空想社会の餌にごく簡単に飛びついてしまう。
そして全財産を剥ぎ取られてしまう。世界中がそれに満ちているといってよい。精神的に傷つき癒されたい人が、それだけ多いのだ。
自分で本を読みつづける中から癒されるのが、一番効果があるのに!! それしかないのに!?
 「カリスマへの階段」コリン ウィルソン (著)
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2002年05月08日(水)
400, 末っ子はつらいよー2
姉が見たら、なにをいっているか!と怒鳴られそうだ。「両親に、兄姉にみんなに可愛がられて!とんでもない」と。
確かにそれもそうだ。特に両親にとって、いつも傍において置きたいペットみたいなものであった。
死ぬ時もしかり、傍にいた。そして遺言も財産に関しても、一番有利に書いて亡くなっていた。
また両親が死ぬまで常にお手伝いがいる家だった。チヤホヤされてきたことも事実だ。 末っ子の特権を充分享受した。
それと孤独に強くなる。一人で何かいつも遊んでいた。長姉がいうに、いつも一人で三輪車で遊んでいたという。
  (字数の関係でカット11年05月08日)
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2001年05月08日(火)
 BSTVについて
ハイビジョンTVを入れて5ヶ月、その鮮明さに驚いている。8年前にハイビジョンTVを入れた当時その鮮明さに驚いたが、
今は一般放送が前のハイビジョンなみになり、今のBS放送は格段に良くなった。映画を見ると劇場にちかい感覚といってよい。
(字数の関係でカット12年05月08日)