つれづれに

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 今日のYoutube
http://www.youtube.com/watch?v=nW9DxwjCxIM
 
 連休も終わったが、今週あたりから全国的に倒産が表立ってきそうだ。
新潟のディスカウントの一つが、話題になっているが・・・
アベノミクスで、一部の不動産が値上がりを始めたようだが、末期現象の一つ。

 昨日は映画でもと、映画館に行ったが、見たい映画が不都合で上映中止。
こういうこともあるのだ。アピタというSCは家族連れで客は溢れんばかり。
これだけの賑わいは珍しい。 遠出をしなかった家族連れが最後の日に遊ぶにきたようだ。

 信濃川の土手の八重桜が昨日、今日と満開。

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2005年05月07日(土)
1495, いま・現在についてー3
「どうせ死んでしまう」-2 -読書日記
 ーいまの生成ー
というコーナーに、「いま」について深く掘り下げてあった。
「一つの連続的自然現象を多様な関心に従って多様に区切る仕方」という言葉が解りやすい。
ー面白そうなところを抜粋してみるー
P-39  ー「いま」の生成すべての科学(大脳生理学・心理学・物理学等々)は現在と
過去との差異性を塗りつぶすことによってかろうじて成立している。
・・・・・・・「いま」は△T1というような一定の時間を指す概念ではない。
「いま」は一つ前の「いま」という相関ではじめて意味を獲得する。
この「いま」をえぐり出すことは、とりもなおさずその外に一つ前の「いま」をえぐり出すことである。
今日を「いま」としてとらえることは、昨日を一つ前の「いま」としてとらえることである。
今年を「いま」としてとらえることは、昨年を一つ前の「いま」としてとらえることである。
「いま」とは、自然現象ではなく、一つの連続的自然現象を多様な関心に従って多様に区切る仕方なのです。
「いま」の出現は、互いに否定的な二つ(いまに対応した未来と過去)の「いま」の出現にほかならず、
そこにはお互い否定的なものを繋ぐ作用が必要である。それが想起であり、その想起の主体こそが「私」なのだ。
つまり、「私」は知覚においては登場してこず(川を眺めているあいだは「私」は登場してこない)
川を眺め終わって帰る時に想起したときに初めて登場してくる。
正確な知覚能力を具えているが(エピソード記憶に対応する)想起能力の完全に欠如した生物を考えてみよう。
彼は次々と知覚しその内容を記録する。しかし、次々と忘れていく。彼は自分が記録した内容を過去の
事象として理解することができない。そこに日付があったとしても、それが過去の日付であることを理解できない。
つまり、彼は連続的な自然現象を正確にとらえることができても、そこに「いま」と「いま」の楔を打つことが
できないのである。そういう彼は「私」という意識をもたない。
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以上が、「いま」を哲学的に書いてあるところである。「いま」は、過去の上によって初めて成り立つ、
と解りやすく説明している。そして、「いま」は想起能力がなければ存在し得ない。
「いま」を大事にするということは、過去を大事にすることになる。過去を想起し得てこそ、
「いま」が存在をする。それからみると、日記は「いま」にとって大きな要素になる。
文章として書き残すことは、「想起のための楔としての記録」になる。
「いま」の意味を、もう少し納得するために記憶喪失を例に考えてみる。先日レンタルDVDで観た
[記憶のない男]の姿の中に[いま]の希薄をみた。彼の「いま」は全く過去を持たないため、
虚空を彷徨っているようであった。その「いま」は小さな点ーエネルギーでしかないように見えた。
過去の「いま」の積み重ねをバックに持ってこそ、私の「いま」がある。
それは、未来に対しても同じことである。
深い過去をもってこそ、深い「いま」が存在をしてくる。「いま」だけが全てではないのである。
           ーつづく
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2004年05月07日(金)
1130, 「ライフレッスン」-11
 ー 許しのレッスン
誰も人生には、八つ裂きにしても許せない人間は何人かいる。
そして、自分も、他の人間にとって、そのうちの一人になっている。
相手を許すということは、けっきょくは自分を許すことである。
許すということは、自分の内面の魂の問題のかかわってくる問題である。
「ならぬ堪忍、するが堪忍」であり、それは自分を如何に納得させるかの折り合いの問題でもある。
許すというのは、ある意味で奇麗事なのかもしれない。しかし、その奇麗事は最も大事ではなかろうか。
許しは、主体的なことである。許そうと努力していれば、そのうちに忘却の彼方に消えていくものである。
残ったとしても、自分の記憶には「許し」という言葉が包んである。
ー以下は抜粋である
・人生まっとうにしようとするなら許すことを学ばなければならない。
許しは苦痛や傷を癒す方法であると同時に、ふたたび他者と自己を結びつける方法である。
わたしたち全員が、他人を傷つけたことがあったはずだ。
問題は傷つけたり傷ついたりすることよりむしろ、その経験を忘れられないこと、
それを忘れようとしないことである。傷の痛さはそこにあるのだ。
わたし達は傷をためこみながら生きているが、その傷を手放す方法はだれからも
教わっていない。許しを必要とされる理由はそこにある。
許す人生を選ぶか許さない人生を選ぶかは、その人が決める問題である。許しは自愛的な行為といえる。
許さないということは、むかしの傷や怒りにしがみついているということである。
恨みの感情に栄養をほきゅうして、過去の不幸な部分を生かし続けることである。
許すことができなくては、自分自身の奴隷になるしかない。
・もうひとつ許しの障害になっているのは、報復してやりたいという欲望である。
報復という低次元な行為をした自分にたいして、あとで罪悪感をもつことになる。
自分を傷つけた人に対する攻撃的な行為が,けっきょくは自分を傷つけるのだ。
・相手の過ちだけをみているあいだは、自分の内面をみる必要はない。
相手を許したときに、はじめて人生に力がよみがえり、傷を乗りこえて花開くことが
できるようになる。
・皮肉なことに、だれよりも許す必要がある相手は自分自身である。
自分がやったことに対して、やらなかったことに対して自分を許さなくてはならない。
過ちを犯したと思ったら、そのつど自分を許してやることだ。
まだ許しのレッスンがついてなかったと思ったら、身についてない自分自身を許してやることだ。
・許しは一生に一度の大仕事ではなく、毎日つづけていく精神のトレーニングである。
それは精神的・霊的生活のメンテナンスのようなものである。許すことによって平和が得られ、愛が維持できる。
だたひとつの課題は、ふたたびこころをひらくことである。

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2003年05月07日(水)
763, 地方差別

 東京では、地方出身者は田舎者と露骨に差別される。学生時代に東京に住んでみて、
驚いたのが地方差別であった。解らないでもないが、都会生活での初めてのカルチャーショックであった。
今でも海外旅行のパックの同行者の意識で驚く事がある。それも強い負け犬の立場の人?に露骨に顕れている。
 一番面白かったのが「ケニアのヌーの河渡り」であった。都会のハイミス・ゴールドミス
(グランド・オールドミス)がすざましいひと達だった。具体的には書きたくないが、その傷口の血は濃厚だ!
もう二度と、その血を浴びたくはない!洗っても数年は落ちないほどだた!
自分のプライドを守る為に弱者を探すと地方差別が一番手っ取り早いのだろう。
 何処かのヨーロッパの空港の待合で、江戸っ子の職人風の父子がいた。
話しかけたら「貴方は地方?それとも東京出身?」と聞いてきた。
新潟と答えたら、一切話をしないで露骨な可愛い差別を始めた。こんなものである。
学生時代に外国旅行に行った時、ある同行の女性が思わず本音が出た。「最近帝国ホテルも、
地方のお上りが多くって質が落ちていますわ!」その一言で最後まで嫌われて、総スカンをくらってしまった。
「父親は同行の女性の会社の子会社の下っ端の役員でしかないないのに!」とすぐに陰口が入ってきた。
結局はすべては「コンプレックスの隠しの芸の追求」が人間の本質なのだろう。
「お上り」という言葉が、典型的な軽蔑言葉だ。地方差別を書くこと自体がタブーでもある。
公平という意味でー平等でなくー差別をされても仕方がないのも解るが!?
毎日二つの街を通っていて、長岡と新潟でさえもあまりに違いすぎるのは事実である。
都落ち」という言葉もあるとおり、特に都会で生まれ育った人間は地方に住むということはアジアの
何処かというくらいの響きがあるようだ。アメリカのニューヨークなどは、もっと複雑に絡んでくるという。
民族や人種や宗教や収入や肩書きなどで露骨の差別があるという。
まあどうでもよい田舎者の話だが。

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2002年05月07日(火)
399, 末っ子はつらいよ

8人兄弟の末っ子である立場を書いてみる。少年期まで、末っ子は上からの虐めがきつい。
特にすぐ上の2人のそれがきつい。常に気を張っていなくてはならないのがその宿命だ。
食事も気を抜くと自分の食べ分がなくなる為、早食いが癖になってしまう。
常に周囲の情勢を把握していなくてはならない。
誰かに聞いたが、多くの兄弟で育った末っ子は社長に向いているそうだ。
他人の気持ちを常に読んでいなくてはならない事が、それに向くのだろう。
それと結婚の相手は長女がいいと最近聞いた。たまたま家内がそうだった。
そういえば知人のW氏も長姉もその組み合わせだ。上手くいっているようだ。
そういえば過去に惹かれた女性は長女で、A 型で、160cm、
おっとりしたタイプが多かったー今もそうだ。末っ子は口が堅くなくてはならない。
それぞれの兄姉の秘密を知ってしまうからだ。万一告げ口をしたら、袋たたきにあってしまう。
家族はまず出会う初めての社会だ。

・・・・・・・
2001年05月07日(月)
ユニクロが面白い

半年前に自宅の一^二分のところできたユニクロがますます面白い。
とにかく体形にフィットするー着心地がよい。それと安い。
土日曜は開店から閉店まで客のとぎれることはない。’服は服装のパーツ
である’という考えのもとの品揃えがはっきりしているのだ。
あそこまで客に支持されるのは、普段着と重ね着のサブに徹している為もある。
今まで腰まわりだけのサイズのズボンしかなっかた。今は股下のサイズもヨウイしてある。
エスト79のサイズの股下80と70とでは当然形が当然形が違ってくる。
今まではそれだけ種類が増え在庫が増えてしまうという川上の論法ででつくられなっかったが、
売れ筋を 絞り込む事と在庫管理の徹底で用意すれば安いコストでそれぞれの人が着やすい品を
提供できる事が彼らに解ったのだ。本当の意味での顧客サイドの商品つくりがおこなわれていなっかたのだ。
その意味で当分ユニクロの一人勝ちは当分つつくだろう。