「残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法」 橘玲 著
    * 親しい友人は何もしてくれない理由
 生きてきて感じることに、「親しい友人は何もしてくれない」という厳然たる事実がある。当たり前のことだが、
親しい友人に物事を頼ること自体が間違っている。 が、全く違う理由がある。 ーその辺を著者は次にように述べている
≪ 親しい友人同士は、長い付き合いのうちに、頼りあった友人関係は責任が伴うため淘汰されることを経験上知っている。
 また強い親しい友人は似たような仕事か環境であるため、助け合うに不向きである。 知人の方が弱い絆で責任も伴わないし、
違う分野の世界だけ広い世界を持っている。そのため貨幣世界の人の方が割り切って紹介しやすい。 貨幣空間の成功者は、
人と人を結ぶことに喜びを見出している。優秀な人材を紹介することで人間関係の貸借対照表に資産を加えることが出来ることを
経験上、彼らは知っている。 紹介された方は心理的負債は負うが、これは金銭と違って返済義務はない。世界中のすべての人と
6次以内でつながるスモールワールドの貨幣空間では、たくさんの弱い絆の向こう側に大きな鉱脈が眠っている。グローバル
時代のビジネスでは、その‘真理’を本能的に知っている人が、成功を確実に手に入れることが出来る。・・・ ≫
 ▼ ビジネス社会をみると、有能の人の人間関係の貸借対照表の資産が本当に多い。私など人間関係論を専門にしてきた割に
  全くというほど資産がなく、逆に負債もない。独りの世界も良いが、それにしてもである。ビジネスの世界を離れれば、
  その資産もアテにならない。そこでネットで検索すると《 友情は、共感や信頼の情をもって互いを肯定し合う人間関係、
  もしくはそういった感情のこと。友達同士の間に生まれる情愛のこと。しかし、それはすべての友達にあるものではなく、
  自己犠牲ができるほどの友達関係の中に存在する。》とあった。 基本は、「人は人 我は我 されど親しく」である。
  群れた老人ほど(若者もか)、不釣合いのものはない。最近、暴力団にかわって「半グレ」が話題になっているが、
  自立できない半ガキの群れそのもの。半子供だから群れるしかないのも分かるが・・ やはり法律で締め上げるしかない。
  何かしてもらう目的で、セッセと人と人を結びつけ、人間関係の資産を増やす貨幣空間も、これまた面白いようだ。
  逆に、それとは全く違った資産勘定も必要だが、歴史上の偉人とか、小説上の人物でも親しい人は作ることが可能である。
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3987, 宇宙論コペルニクス以上の大転換 (宇宙は本当にひとつなのか)
2012年02月24日(金)
      宇宙は本当にひとつなのか ー1
 * 我々の宇宙は10の500乗分の1個でしかない!
 2003年を境に宇宙論は、コペルニクス的大転換に匹敵する以上に大きく変わった。
コペルニクスが地球が宇宙の中心と思っていたところに、実は太陽が中心で、その周りを地球が周っているに過ぎないと
主張した以上の大きな衝撃的進展という。 それは、観測の結果から宇宙全体のエネルギーの内訳が明らかになった。
星や銀河、それを形作るすべての元素のエネルギーは宇宙全体の4・4%で、目に見える星や銀河は、宇宙の中のほんの
一部分でしかないものだった。 ここで、残る96%は何か? というと23%が暗黒物質で、約73%が暗黒エネルギー。
それを合わせると、残りの96%になり、元素のエネルギーを合わせると100%。しかし、その正体は殆ど分かってなかった。
つまり、宇宙の殆どが分かっていなかった。 ところが、その暗黒物質が分かる一歩手前まで来たのである。
この暗黒物質の研究から出てきた考えが、宇宙はもっと沢山、もしかしたら10の500乗個もあるかもしれないという宇宙多元論。
たくさんある宇宙の「たまたま」真空のエネルギーが十分小さかったものがわずかあり、私たちの宇宙は、その一つだったという説。
殆んど宇宙のことが分かってなかった事実と、我々の宇宙は、気の遠くなるような多くの宇宙の一つでしかない裏ずけがで始めてきた。
 学生時代にビッグバンとブラックホールの理論を知ったときの新鮮な驚きを今でも憶えている。その後の科学の飛躍的進展で、
宇宙のことが格段に知られるようになった。その一つにブラックホールの先が違う宇宙への入り口ではないかという説。
それが2003年を境にコペルニクス的大転換以上に変わったというのを最近、知ることになった。
哲学が宇宙の外があるかどうかを論じているが、科学は、宇宙はもっと多くあり、10の500乗もある可能性を論じている。 
科学が哲学を遥かに超えたことになる。 永遠の中の有限の存在を知った人間が、その苦しみを緩和するためつくり上げた神も、
多元宇宙論を知ると、所詮は、そこまでということが分かる。 私にとっても、衝撃的大転換である。137億年前のビッグバンで
我々の(今度から、我々の、を付ける)宇宙が出現し、その広がりには千から2千億の星からなる銀河が、100億もある。
そこには星の消滅の時に生じる空間の歪みが、ブラックホールになり、周辺の星を吸い込んでいる。それは、どうも他の宇宙に通じる
通路と思われる。これが、私の知っていた宇宙である。それが、気の遠くなる数の多くの宇宙の一つというと、根本が変わってくる。
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3622, お姥捨てるか裏山へ
2011年02月24日(木)
            「日本の名著名言事典」より ー1
* お姥捨てるか裏山へ    「楢山節考」 深沢七郎
  ーまずウィキペディアの「あらすじ」からー
 山に囲まれた信州のある村。今年も楢山の歌が歌いだされる季節になった。村の年寄りは七十になると楢山まいりに行くのが習わし。
 六十九のおりんはそれを待っていた。息子の後妻も無事見つかって安心したし、山へ行く時の支度はととのえてある。
 済ませることはあともう一つ …。
 −塩屋のおとりさん運がよい 山へ行く日にゃ雪が降る−
 自分が行く時もきっと雪が降る…おりんはその日を待ち望む。孝行息子の辰平は、お供で一緒に行くのだが、気が進まず元気がない。
しかし家計を考えて年明けも近い冬の夜、誰にも見られてはいけないという決まりで背中に母を背負って楢山まいりへと出かけていく。
辛くてもそれが貧しい村の掟なのであった。
  ー以下の部分が凍りつくようである              ―「日本の名著名言事典」紀田順一郎著より
「 お姥捨てるか裏山へ  裏じゃ蟹でも這って来る  這って来たとて戸で入れぬ  蟹は夜泣くとりじゃない 」
 山深い村で昔、年寄りを裏山に捨てた因習がある。或る時、老婆を捨てたところが這って帰ってきてしまったので、
家の者たちは「這って来た、這って来た、蟹のようだ」と騒いで戸をぴったりと締めて中へ入れなかった。
家の中では小さい子が蟹が本当に這つて来たのだと思い込んでしまった。 老婆は一晩中、戸の外で泣いていた。
その泣き声を聞いて子供が「蟹が泣いている」と云ったのである。家の者が「蟹じゃないよ。蟹は夜泣いたりしないなよ、
あれはとりが哺いているのだ」と子供などに話してもわけがわからないので、そう云ってごまかしてしまったのである。
この村では、白米は年に一度の楢山祭の時や、重病人でなければ食べられない。 早くに嫁を貰うことは愚かなことで、
それは少ない食料が減るからである。「曾孫が生まれる」のは多産や早熟の者が続いているということで、嘲笑の対象。
老いても丈夫な歯を持っているのも恥ずべきで、食い意地が張っていて、浅ましいと見做される。この村は七十になった老人は、
裏の山へ捨てられる。 息子が背板に老いた親を乗せ楢山に登っていく時に一言も喋らず、後ろを振り返らないが山の掟である。
 ▼ それほど遠くない時代に日本の山間部には、こういう風習があったようだ。現在の日本は不況不況と騒いでいるが、実際に、
  こういう時代が来ないとはいえないことを知らない。隣国の北朝鮮が、これに近い惨状といっても、現実としては考えられない。
  それにしてもリアルである。都会などの餓死などの孤独死があるが、楢山考と何処が違うのだろう。
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3257, 閑話小題
2010年02月24日(水)
 * つれづれに
  半年に一度ぐらい、この随想日記、書くネタも何も尽きて呆然とすることがある。
  この数日が、それだろう。 そういう直後に多くのネタが湧き出てくることも経験的に知っている。
  書き続けることの効果を実感しているから維持できているが、書く気力が萎えるのは如何しようもない。
 * 消費税のアップ
  今年度の国家の税収が、予算より2割のダウン。 90兆の支出に対して37兆の収入しかないという異常事態。 
  こうなれば、消費税のアップしかない。 ということで、緊急に「来月から議論に入る」という。
  それしか目先の増収の手立てはない。それにしても、あれだけの綺麗ごとで支出をしておいて、何おかいわんである。
  パーセントのアップは、我われの収入が5パーセントダウンと同じことである。これでは、ますます消費意欲が減る。
  消費税分を値上げはできないところが大部分だろうから、恐慌にますます拍車をかけることになる。
  5年先は、いや3年先の景気を考えると背筋が寒くなる思いである。
 *政界の再編成が動き出した
  民主、国民新党自民党切り崩しで、二人が移動し、参院過半数を確保した。これで社民党の連立からの
  離反が時間の問題になってきた。次の仕掛けは、公明党との連立か、自民党の若手をゴッソリと狙うかである。
 *保険業界の現状
  昨日、取引先の保険会社の社長が来社、少し早いが長岡まで車でおくってもらう。保険業も3〜4社の大手の寡占化が始り、
  弱肉強食が鮮明になりつつあり、保険のオバサンや、中小の保険会社の淘汰が激しくなるという。
  5年で200万人が40万人に激減し、保険屋難民が彼方此方で溢れるとか。 何処も同じである。 
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2009年02月24日(火)
 納棺師ーおくりびと
米ロサンゼルスで行われていた「第81回米アカデミー賞」の外国語映画賞部門にノミネートされた「おくりびと」が
外国部門賞に決定した。 この映画の概要といえば、ひょんなことから遺体を棺に納める“納棺師”となった男が、
仕事を通して触れた人間模様や上司の影響を受けながら成長していく姿を描いた作品である。
 10年ほど前に長岡市内の叔母が亡くなった。分家でもあるので葬式の主催者として準備を手伝うことになった。 
たまたま喪主の弟の知り合いが葬儀場の担当者で納棺師であった。 納棺師という職業に興味をもって、
色いろたずねたところ、転職の経緯から、納棺師からみた色いろの人生模様を詳しく聞くことができた。 
以前に火葬場の火夫の手記を読んだことがあるが、納棺師の話は初めてである。
 印象に残ったまま書いてみると
・小さな子どもが亡くなった葬儀は、正視できないほどの哀しみが満ちている。
(字数制限のためカット 2012年2月24日)
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2008年02月24日(日)
 2517, カキクケコの精神
 何気なく本棚に塩月弥栄子の「冠婚葬祭入門」を手に取ったら
「カキクケコの精神」があったが、それが面白い。  「カ」は 感謝することに照れない。
  「キ」は 緊張感を楽しむ。          「ク」は くつろぐ。
  「ケ」は 決断力。              「コ」は 好奇心を持ち続けること。
  美空ひばりも、この言葉気にいっていたというが、他にもカキクケコの精神として
 「カ」感動、感激。神の心 。           「キ」聞く、気配り、協力。
 「ク」クエスチョン(疑問をもつ)。クリエーティブ 「ケ」健康。ケセラセラ(なるようになる)
 「コ」行動。向上心。
(字数制限のためカット 2012年2月24日)
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2007年02月24日(土)
2153, 幸福に驚く力 −2
     オッ(*^○^*)ハ〜ヨウ!         ー 読書日記
幸福に驚く力とは、日常の中にある見落としている幸せに気づくことです。
それは大自然の中で己の小ささを自覚すること、その小さな自分の中の、小さな幸せに気づくことが第一歩である。
まずは、その抜粋から ー自分の小ささを知るということー
 *世界の広さと深さを感じとる
子どもって小学校も高学年になれば、大人たちを冷徹な目でみますよね。
卑しいなとか、えげつないとか・・・・。でも本の中にはもっと卑しい、えげつない人がいっぱい登場してきますし、
周りに素敵な人だなと思う人がいても、物語の中にはもっと素敵な大人がいっぱい出てくる。イメージできる
人間の幅がぐっと広がってくるわけです。これは今にして思えば本当によかった思います。何故そう思えるかというと、
今の学生は人間を殆ど知らないと思うからです。生の人間に会っていないのではないかと思う位です。
すべてあるのに、何もないって感じ。学生たちは「どうせ大人なんて」とか、「どうせ社会なんて」とよく言うんですね。
「そんなことはない。大人の中には凄い人はいる。人間ってそう簡単にタカをくくれるものではないぞ」と知らせたいのです。
人間の素晴らしさを知り、世界の広さを知ることで、自分が限りなく小さい存在だということがわかってくる。
でも、小ささを知ることが、喜びにもなる。そういう体験を、無意識だったかも知れないが、私は子どもの頃より
ずいぶんしてきたような気がします。学生たちに、「自分がうんと小さいことが、喜びになるような体験をしたいね」
というと、「そんなことをしたら、生きられなくなる」と言いますが、それは、言いかえると、人間というものは
こんなに素敵なんだ、世界はこんなに奥行きあって広いんだと知っていくことなんですね。
苦しみや悲しみは生きているかぎりあって当たり前。それらと闘うことは、その時は苦しいが、でも面白い体験なんだ
ということを、本を読めば徐々に知ってくることができる。自分と周りのわずかな世界しか知らないと分らないんですね。
学生たちは情報が大切というが、でもいくら情報を集めても生きたことにはならない。
しかし物語は読み方によっては疑似体験ができるし、体験を積み重ねることができる。
 解)ライフワークの秘境旅行に惹かれる理由の一つは大自然との一体感の感動の中で「自分の小ささを思い知らされる」
  ことである。その実感が歓喜に変わる瞬間、この一ポイントが永遠への窓である。
  求めなければ何度でも永遠を感じとることが可能なのが、人生の面白いところである。人間はアナザー・ワンで
  あると同時に、オンリー・ワンであることを知らされるということです。
 *「傷つく権利」と「怪我する自由」
若い人たちは、愛することを知らないで、愛されることばかり願っている。悩む力、悲しむ力、あるいは苦しむ力が最近
非常に弱っているように感じられます。現実的に難しいなら、せめて文学を読んでこういう力を少しでも養わなければ。
 (字数制限のためカット 2011年2月24日)
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2006年02月24日(金)
1788, 愛のアフォリズム−3     ≪( \(・ω・)/ )≫オハヨゥ☆  −読書日記
ー情熱
情熱はさめると氷より冷たくなります。  (ジャ・シャガール
情熱を癒すことができるのは分別ではない。 別の情熱だけである。(ルートヴィッヒ・ベルネ)
私たちが情熱から解放されるのは、その情熱をとことん味わいつくした場合だけである。(マルセル・ブルースト)
                    ーそりゃそうだ!でも、そうでもない場合もあるが!
火が欲しかったら、煙ぐらい我慢しなくては。 (ドイツの格言)−その煙がむせぶからね〜?  (〃 ̄ω ̄〃ゞ
カップルが幸せになるケースはごく少ない。情熱が荒々しい炎が燃えつきる前に、愛着というおだやかな火を
なんとか焚きつけることが出来た場合だけだ。(ジェローム・ジェローム) −そうか・・  性格もあるけど!
愛は生理的欲求であり、不可避の身体機能である。 (エルベシェス)  ― 一升瓶?
愛とは、心に感じられるものとなった空間・時間だ。 (マルセル・ブルスト)
      −牢獄にもなり、宇宙空間にもなるということ?(●ゝω・)ノ【 love = 時・ 空間 ☆】
頭は真理によって輝き、心は愛情によって輝く。    (ロシアの格言)
愛情によってのみ、人間は自分自身から解放される。(フィリードリヒ・ベッヘル) ー相手からも解放される
恋人を棄てるのは、空想力が衰えたことを証明する。(ホーフマンスタール) ーその反対もあるからね〜たくもう〜!
       (*・ω・)(・ω・*)ずっと一緒にいようね! な〜んてのは一年まで!ー
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 2005年02月24日(木)
1423, 名画200選 −読書日記
購入して数ヶ月、時々読んでいるが味わい深く飽きない。その半分は観たことがあった。思ったより多く観ていたのには自分でも驚いた。
そのうちTVで観たのが、半分だろうか。この本を読んで初めて「成る程!」と、今になって感心をしているものが多い。
(字数制限のためカット 2011年2月24日
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2004年02月24日(火)
1056, 千回の力
「何事も千回続けると、何かが見てくるか、何かを感じるようになる」という。散歩時に「ありがとう」を
言い続けて、千回を越えたあたりから何かが変わる。心から「ありがとう」の言葉が出てくるのだ。
そういえば、この随想日記も千回を去年の暮れに達成をした。千回を達成した安堵感の為か、その後何も考えた
ことがなかった。そこで改めて「何か変わった事や感じることがあっただろうか」を内省をしてみることにする。
・ものを見る眼が全く変わった。 ー記者の目、書き手の目で現象を見る習慣がついた。
・テーマ探しを無意識にするようになった。       ・そして、そのテーマに対し内省をするようになった。
・脳内サテライトの面白さを実感できるようになった。  ・自分が知らない読者や、子孫を意識をして書くようになった
「何かが見えたか」と問われれば、別に何も見えないし、「何か感じたか」と問われても、何も感じない。
しかし、書き始めた以前と、それ以降という感がする。脳内を公開することが想像する以上のインパクトを
自分に与えていることになっている。書いている内容に対してコンプレックスも自信も、全くない。
ただ考え、感じた全てを、書き込んでいるだけだ。その集積が、基地としてのネット上にあることは異様な感じである。
「石の上にも三年」も大よそ千日である。一つの言葉を気持ちを込めて千回いえば、大よそのことが達成可能になるという。
「駄目だ駄目だ!」と自然に流されれば、繰りかえしてしまうものだ。言葉は、意識して使わなくてはならないと解っているが・・
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2003年02月24日(月)
691, 「わたしを認めよ!」  −2「読書日記」        
 ー 気になったところを書きうつしてしてみた。
「ふつう」の意味とは・・ 普通の生き方というのがどういうものかは教えてくれない。当然である。
 だれも知らないからだ。 わたしが考えるふつうとはこういうものである(普通」と区別する)。
 奴隷みたいな退屈な生き方が上と下の中間(中流)に落ち込んだ普通だとするなら、
 目指されるべきふつうとは、みずから選びとった〈中間〉のことだ。 普通が惰性なら、ふつうは意思である。
(字数制限のためカット 2010年2月24日)
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 2002年02月24日(日)
 341,遊びについて−1
人間にとって「遊び」は最も重要の一つである。そこで「遊び」とは何かを考えてみよう。まずその達人を事例で考えてみる。
一番身近では母がそのプロ?であった。戦前、戦中、戦後の動乱期に10人の家族が生きていく中で、父とともに苦労の連続であった。
そして長男、次男の連続の不幸な死で今の重症のノイローゼーになった。心筋梗塞、死の一歩の手前までいった。亡くなった時、
医師の要望で心臓を解剖したら、心臓の4分の1が壊死していた。それを乗り越えた後は、それまでのエネルギーを遊びに全て向けて
いった。約40年近く遊びきって亡くなった日本舞踊、短歌、お花、旅行、茶道、写真。毎日いそいそと何か遊びを見つけ楽しんでいた。
子供ながらに、そのエネルギーに感心をしていた。遊びの重要さもそのため学んだ。重点としてだが父は「働く人」母は「遊ぶ人」と
役割分担がハッキリしていた。ただ父も仕事の合間に、結構遊びを作っていた。「遊び」を儒教的影響の為かキリスト教的倫理観の為か、
罪悪と教えられてなかったか。子供のころ誰もが、毎日目を光らせて遊んでいた。ただただ無心に遊んでいた。
あの遊びをいつの間にか我々は忘れてしまった。人間は生きていかなくてはならない。その為に働かなくてはならない。
競争に打ち勝たなくてはならない。その為に勉強もしなくてはならない。しかしそれだけでは、それだけの人生だ。
それがクロなら、その対象の白が必要になる。どちらが大事かでない、どちらも必要なのである。それを特に母の生き様から学んだ。
一般的にいうと、遊びの優先順位があまり高くない。どうしてだろうか、やはり生活をしていかなくてはならないからだ。
そして厄介な不安という心理がある。その為に、お金をセッセと溜め込まなくてはならない、「馬鹿な?生き物」である。
遊びとは、「好きな事をして、それを楽しむ事」をいう。そうすると、仕事も遊びになりうる。天才はその典型であろう。
あの子供の時の遊びを我々は忘れてしまった。何でも遊びの対象にした「遊び心」を。純真の心を失っているからだ。
「純真な遊び心」をいつの間にか忘れてしまった。「遊んでないで、笑ってないでもっと真面目にやれ!」と暗示をかけられてないか?
 私の趣味の一つにウオーキングある。初めは腰痛対策であった。今は大事な趣味ー遊びになっている。純真に楽しいーのである。
その中に純真な遊び心が躍動を始める。何々のためにといった場合は、遊びでなくなる。それを乗り越え、純真な遊び心になった時点で
「遊びに昇華」する。パソコンもそうだ、このホームページもそうだ。そこまで持ち上げる必要性を人生で学んだ。
「遊びになるまで集中する」という事か。これから散歩だ!