* 序章 初老期と不安  ー?      「老いへの不安 歳を取りそこねる人たち 」春日 武彦 (著)   
 人生で一番大切な時期は50歳代と思って、悔いの残らないように過ごした。今から振り返ってみて、良かったと思っている。
「残り20〜30年分を10年に凝縮して生きる」と、本気で。 60歳を過ぎて、気持ちが非常に楽になったことはいうもでもない。
「老いの不安」からウツに陥り、初老にさしかかり医者から貰ったハッピードラッグで薬中に陥った人がいる。 それは惨憺たるもの。
  ー ここで「惰性から離れる不安=初老期の不安」を表している。
≪・・ となれば、定年とは惰性の喪失、マンネリの終わりということになるだろう。もちろん新たな惰性が始まることにはなろうが、
 その前に、よるべなさや心細さを痛感し、生きる意味といった類の根源的問題が脳裏をかすめることになる。そのような事態を
 先取りして想像し、自分で自分を追い詰め、自壊するかのように五十代半ばにして「うつ」に陥っていくケースはかなり多い気がする。
 しかも実際に定年に直面すれば、予想外の雑用や成り行きでどうにか乗り切ってしまったりすることのほうが案外普通ではないだろうか。 
 老いそのものよりも、想像力や予兆によって我々は老いに脅かされる。それはホラー映画の構造と相似しでいる。お酒落というよりは
「若作り」に励む中年男性が増えたような印象がわたしにはあるが、それはたんに異性にモテたいとか一目置かれたいとかの皮相的な
 理由ではなく、老いという未知なるものへ対する護符にも似た魔術的効能が求められているからだろう。
 老いることのネガティブな側面は、健康や金銭面で弱者になりかねないことと、世間から置き去りにされかねない不安、死への接近と
 いったことであろうか。必要不可欠な人物という立場から退場することへの寂しさ、敬して遠ざけられがちなことへのもどかしさ、
 切実な無力感といったこともあるかもしれない。核家族化によって、老人なりの役割分担を与えられなくなってきていることも問題だろう。
 そうなると老人は青年や中年の劣化バージョンということになりかねない。男性、ことにサラリーマンは定年と老いとの同義化と、
 それを先取りした不安が問題となっている。若作りというどこか滑稽な振る舞いにも、シリアスな意味が込められている。≫
 ▼ 初老期の人間の姿をシリアスに浮かび上がらせた内容である。「老人は青年や中年の劣化バージョン」は、言いえて妙である。
  ひと足先に定年をむかえた人が先年、「暇を持て余すと思っていたが、実際は毎日やることがある」と言った意味が最近分かってきた。
  人生は最大限に生きるべき、それが老いへの準備になる。年齢に従って劣化を劣化として受け入れるしかない。起承転々・・いや転倒
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3712, ジャズについて −7
2011年05月25日(水)
  モダン・ジャズの誕生 ー?       ー 「音楽の本」三枝成彰著 より
 ■ 四〇年代、ジャズの常識を打ち破った「モダン・ジャズ」の誕生!  P−195
   ▽ "踊る音楽"から"鑑賞する音楽"へ ーまったく新しい「ビバップ」とは?
【 時代は第二次世界大戦(一九三九〜一九四五)に突入。四一年の日米開戦によってアメリカは本格的な戦時体制に入り、
 ジャズメンの中にも召集を受ける人が出てくる。あわせて、歓楽街とりわけダンズホールへの課税も強化され、スウィング・ジャズ
 支えたビッグ・バンドの維時は雛しくなる。 そうした状況の中で、ひと旗上げようと全米各地からニューヨークに集まってきた
 ジャズメンは、ハーレムのミントン・プレイ・ハウスやモンロー・アップタウン・ハウスなどのクラブで、店が閉店したあとも、
 夜な夜な ジァム・セッション(独奏者が集まって即興演奏の腕比べをすること)を繰り返して腕を磨いた。
  小規模のコンボで演奏する彼らにとって、型通りのビッグ・バンド・スタイルのスゥィング・ジァズは、もはや古くさく物足りない
 ものであったことはいうまでもない。いかにありきたりの形式を打破し、自分なりの新鮮な要素をジャズに注入するかという実験に
 彼らは腐心した。 こうして生まれたのが、「ビバップ」(もしくは単に「パップ」)と呼ばれる新しいスタイルである。
  ジャズにおけるビバップ・スタイルとは、メロディー、リズム、ハーモニーすべてにわたって従来のジャズの常識を打ち破ったもの。
 なによりも驚くほどテンポが速くなり、不協和音の多用による音の飛躍、リズム・アクセントの変化によるビートの細分化など、
 全体の音色はより硬質化し、フレーズ(即興演奏における音の連なりの聴こえ方)の多様性はいちだんと広がった。 
  ジャズの醍醐味の一つは、ソロによる即興演奏にある。たとえば、同じ曲を演奏するにしても、ソロの演奏の仕方によって
 まったく別な印象を与える。そのソロ演奏が不可欠となったのも、この時代といっていいだろう。
 もちろん、このビバップは、従来のニューオリンズ・ジャズやスウィング・ジャズの、ある意味では単純な‘ほのぼの’とした
 ジャズを聴き慣れた耳には、複雑で"とんがった・印象を与えた。
  こうして、それまではもっぱら"踊るための音楽"だったジャズは、‘鑑賞する音楽’の色合いを強めていく。
 そしてそれは、大衆的な幅広い人気という面では、従来の輝きを失っていくことにもなるのだが、一方では、
 音楽としての芸術的真価を発揮し、熱心なファンを獲得することになる。 】
  ▼モダン・ジャズが第二次世界大戦の最中に生まれ、ビパップのスタイルに変わっていった。「全体の音色が硬質化し、
 テンポが速くなり、不協和音の多用による音の飛躍、リズム・アクセントの変化によるビートの細分化が特徴」というと、
 訳も分からず聴いていたモダン・ジャズの特徴を、それまでのジャズとの区別がつくようになる。 ジャムセッションという言葉は
 聞いたことがあるし、幾つかのバンドが次々と演奏を競うのもTVでみたことがある。あれがジャムセッションだったと、今回知った。 
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3347, YouTube の視聴回数 1 日 20 億回! −2
 2010年05月25日(火)
 一般投稿というアイディアをカタチにして1年半僅かでグーグルに16億ドルで売却するのだから驚きである。
最近、映画館に行くと開始前に「ビデオの撮影禁止の注意」を流すが「ビデオに何故撮る必要があるのか?」と疑問だった。
YouTubeに投稿するための盗撮だったのである。 少し画質の劣化を我慢すれば、このサイトで見れるのである。
 外国でも、日本のニュースなどや、人気のワイドショーなどが、ここに投稿されていてネットで見ることが可能になった。
晦日紅白歌合戦を、これで見る人が多くなっているという。 テレビが無くともパソコンで見れるのがポイントである。
当初、このサイトの動画は最長5分だったが、現在では10分。普通のテレビ番組が数百万人、数千万の視聴者を5~10分間、
釘付けにすることは不可能である。 実際にケーブルテレビのチャンネルが100もあるアメリカでは、平均滞在時間は
13秒でしかないという。 だから、5〜10分間見てもらえるユーチューブが広告メディアとして注目されるのである。
これまで外国の人たちと日本人の共通の話題がなかなか見出せなかったが現在では、この人気ランキングの話題が共通の
話題になることが多いという。 私のブログに面白いのを見つけると載せるようになったことから見ても、肯ける。
 TVボクシングを見ていた猫が立ち上がりボクサーに感情移入をしてしまい、左右のパンチを繰り出している映像が
人気ナンバーワンになっていた映像があったが、誰かに教えたくなるのも人情。また聞けば見たくなるはず。
日本にも独自の「にこにこ動画」が出来て人気サイトになっているが、そこから変わった人気者が出始めているという。
 数日前に、ソニーとグーグルが、パソコンとテレビを融合した未来型のテレビ開発で提携と発表があった。
この恐ろしさを一番感じているのがテレビ局だろう。グーグルはYouTyubeの親企業、その映像がテレビで気楽に見れるようになったら、
視聴者も広告スポンサーも、一挙にネットサイトの映像に向かうことになる。 ユーチューブには、これまで投稿された膨大の映像が
保管されているし、それをテレビを通して気楽に見ることができれば視聴者は直接、見ることが可能になる。さらにタブレット
パソコンが、この数年で爆発的に普及するだろうが、これもテレビに縛られていたカウチ族が、それを持って外に出てくる。 
これが「ツイッター」と連動すると、社会のあり方そのものが、さらに根底から変化するはず。だから情報発信だった百貨店が壊滅を
しているのである。他人事ではない、ビジネス関連と打ち合わせのための宿泊は激減している。情報革命が、これだけ激しいものとは。
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2972,閑話小題
2009年05月25日(月)
 * 大相撲
 今場所は、白鵬朝青龍の間に、日馬富士が割り込んだ三者の争いで面白い場所であった。
この三人のモンゴル人に、次の大関候補の鶴竜もモンゴル人。若手の将来性のありそうなのは、全てがモンゴル人である。 
大相撲は更にモンゴル相撲の世界の様相を示してきた。相撲に対する熱意とハングリーさが、日本人とは格段の差がある。
今さら外国人は排除できないから、当分の間は続くことになる。草原の中で自由に育った肉体も日本人とは違う。
彼らの金銭感覚からみて、関取になれば大成功の収入になるのもハングリーになる背景がある。
朝青龍は明らかにピークは過ぎた。 最盛期は歴代の横綱で私が知る限り一番強かったようだが。
日本人の大関、三人とも八勝七敗。 何時も似たような引退かどうかの塀の上。
  * 自殺が10年で33万人
 自殺者が、10年続けて3万2〜3千人を超えており、合計33万人が自殺をしたことになる。
自殺未遂が、その10倍はおり、一歩手前で踏みとどまっている人が、その10倍はいるというから、33万人が自殺未遂、
330万人が自殺の一歩手前で、30数軒に一軒の割ということになる。十数年前は、20万人前後というから、異常な数である。 
一つ踏み外せば自殺願望者になる。世界恐慌パンデミック、凄惨な事件が続き、周辺の環境も暗くなると、
何時の間にか鬱気味になる。その社会不安と環境が、何時の間にか鬱気分になっている。
その中で一人、鼻歌を唄いながらスキップでもするしかないが・・・。
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2608, 閑話小題
 2008年05月25日(日)      ヽ(。ゝω・)ノ☆;:*おはよう*:;☆
 *西堀ローザの衰退
新潟市の古町近くの地下の西堀ローザが、去年の売り上げが前年度の30?減だという。
オープンから30年が経っており、16年前の売り上げが三分の一、11年前の半分、6年前の6割、一年前の7割というから、
壊滅状態といっていよい。テナントも47店舗のうち7店舗も開いている。去年できた新潟駅から10分ほどのラブラ万代の影響が
20パー、郊外にできたイオンのSCの影響が10パー。 まあ、手の打ちようが無いのが現状だろう。
(字数制限のためカット2011年5月25日)
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 *五雨十風
「晴れの日ばかりではなく、5日に一度の雨、10日に一度の風が吹く。そんな繰り返しの中で自然の
豊かさがうまれる」雨や風は、その立場にとって良い場合と、悪い場合がある。
運動会の日の雨は、あいにくの雨であり、自然の環境にとって、五雨十風の天候は丁度良い。
こういう言葉が日本にあったのは、先日読んだ本で初めて知った。自然の中で住む我々は、五雨十風の恵みの中でこそ
生きられるのである。雨が降ったといって、気分がすぐれないとか、好きなことを言っているのは人間だけ。
このことは自然現象だけでなく人生でも、良い事だけでなく悪いこともアザナエル縄のごとく、
交互にやってくるという意味もある。           (σ・з・)σホナ、マタ!
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2007年05月25日(金)
2243, 耐震偽装 ?1 (p≧w≦q)オッ☆ o(≧▽≦)o ハァァァァァァ♪  
                 (藤田東吾著 自費出版)  ー読書日記
インターネットで取り寄せた本だが、読み出すとなかなか面白い。
国家権力による偽装と隠蔽をそのまま暴いてる。ヒューザーや、アパグループのマスコミ発表は氷山の一角!
平成元年?17年の間にわたって200万棟?の偽装のビルがあり、それを許したのは国交省である。
  (字数制限のためカット2010年5月25日)
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2006年05月25日(木)
 1878, <不良>のための文章術        おはよ?!(*^ワ^*)i  ー読書日記ー
 ーNHKbooks 著者 永江朗  ー長岡中央図書館・借入れー
5年間、テーマを立て文章を書き続けて思うことは、プロは凄いということだ。書き続けたからこそみえてきたこと。 
何が違うのだろうか? ここでいう<不良>は、良い子でない文章の書き手、という意味である。
私のプロの物書きに対する解釈といえば・・「絶対量が違う上に、奇麗事を一切捨てて本音で書いている。
更に現場に立ち、実際の経験の裏づけに徹している。」であった。この本では、そんな当たり前のことを書いてはいない。
そんなことは素人が書くことだという。この本でまずガツンとやらえるのが「自己表現を捨て読者を愉しませることに徹せよ!」
である。私の5年間書き続けてきた「テーマ日記」は駄目な典型である。どのように表現するか、それだけで必死であった。
読み手のことなど関係なく、自分の知識倉庫に入れるための手段であった。そこがプロと私の差である。
もっとも、それが動機であったのだ。動機からして、プロと比較するのがおこがましい。
こんなことを書くこと自体が素人である。本書の副主題は「書いてお金を稼ぐには」である。
動機が違うのだから仕方がないでは、文章は上達はしない。今まで読んだ「文章術」の本で、一番納得するものだ。
文章とは自己表現と思っていたのに、プロは自己表現ではないという。 なるほど足元には及ばないはずだ!
 ーまずは概略を書いてみたー
プロが書く文章は、貨幣と交換されるためのもの。読者が「ここに書いてあるレストランって、うまそうだね。
こんど行こうかしら」と、書いたライターのことを気にしないような文章である。こういう文章こそが
プロフェッショナルの文章である。おカネになる文章とは、どこか過剰だったり何かが欠落しているような文章です。
(字数制限のためカット2011年5月25日)
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2005年05月25日(水)
 1513, こころを凛とする196の言葉 ー2      ー読書日記
美容評論家の斉藤薫の書いた多くの著書のさわりが、この一冊に集約されているから、一言一言が強烈に響いてくる。
美容ジャーナリストという彼女の職業の立場が、美容を通して女の「こころのあり方」を見ているのだろ。
女も大変である。受けの立場であるからだ。さりげなく男を引き付ける努力をしなくてはならない。
こころを凛とすることも大事だが、もっと知的努力も必要だろうと思うのも、私の年齢のためか。
美容ジャーナリストの本に、読者も知的背景の勧めなどを求めてないのか。何事も努力・努力である。諦めたと同時に・・
・音の効果
自分の好きなCDだけを繰り返し繰り返し、一日で擦り減るほど聴く。じつはこれ、私にとっては立派な美容法。
好きな音は、耳に脳に心地よいだけでなく明らかに魂に響き、はっきりと共鳴を起こす。
その共鳴が体中をめぐるのを感じ、そういう時はなぜか必ず顔色がよい
・喜びの分水量
誰をどれだけ愛し、誰にどれだけ愛されてきたか、その喜びの量が、そのまま艶となって人を潤すってことなのかもしれない。
・女に学ぶ
よく「つらいことがあると、宇宙の広さを思う」という人がいる。チリの一粒にも満たないちっぽけなことで、自分は
悩んでいたんだ、バカみたい・・・そう思うためだが女は視野が狭くなりかけたら、宇宙のかわりに年上の女を思おう。
辛そうだけど、ときどき悲しそうだけど、くじけずに頑張っている年上の女性の姿を。つらいときこそ、女は女に学ぶのだ。
・女は姿勢がつくるいちばん身近なことに、いちばん気がつきにくく、そして人をいちばん醜くしてしまうのが「姿勢の悪さ」である。
背筋をピンと立てるだけで、毒が抜けたように、女は生まれかわってしまうのに。美しく、潔く、生き生きしていて、正しい女に・・。
世にも簡単な、変身である。
・「覚悟」は美しい
退社、独立、離婚、別れ、親との同居・・。「女の覚悟」はいつも人生に関すること。時に自分の幸せを犠牲にするもの。
だから、「覚悟した女性」は感動的に気高く、そして美しい。いちばん美しいのかもしれない。
・オーラは意志。 人間の意志の強さは、姿形にも現れ、人をとんでもなく美しく見せることがある。
誰が何と言おうが、自分の意志だけで自分の力を信じて歩いていける人は、目に見えない「美しい緊張感」
みたいなものを全身に張りめぐらせて、それが何ともいえない凛とした力強い美しさに変わる。
「オーラがでる人」とは、たぶんそれ。「強い意志を持っている人」を指すのだろう。
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2004年05月25日(火)
1148, 遺伝子の話
遺伝子の研究が進んだのはごく最近である。遺伝子の性格は、ほんらい利己的であるという。
「我々は遺伝子という名の利己的な存在を生き残らせるべく盲目的にプログラムされたロボットなのだ 。
遺伝子は、マスター・プログラマーであり、自分が生き延びるためにプログラムを組む。
個体というものは、その全遺伝子を、後の世代により多く伝えようとする。自然淘汰における中心的な役割を
演じているのは、遺伝子と生物個体である。」人間の身体を支配するものは遺伝子であって、
人間の個体が死んでも遺伝子は生き残っていく。自分というものは遺伝子にとって、仮の宿でしかない。
「父親や祖父などの祖先から、遺伝子は転々と住み変えている宿でしかない」と考えると、気が楽になる。
人間は、利己的遺伝子に貸している借りの姿で、すべてを支配しているのは、利己的遺伝子である。
最後は自分が一番可愛いのであり、それでよいのだ。
 ーあるホームページからのコピーですー なかなか解りやすくうまくまとめてあるー
生物は遺伝子の乗り物である生物が親から子へと受け継いでいくのは遺伝子である。
個体は寿命が来ればあっけなくこの世を去るが、遺伝子は子孫に受け継がれていくのだから不滅であるといえるだろう。
個体は遺伝子の乗り物にすぎない。生き残ろうとしているのは、個体ではなく遺伝子なのである。そこでドーキンス
遺伝子のことを、自己複製子と名付けている。  (以下、字数の関係で中間カット2,009年5月25日)
ー感想ー
要するに、「遺伝子が生き残る為に個体を維持させ、乗り換えている。個体を維持させることが目的でなく、
遺伝子そのものが生き延びていくことが目的でしかない」ということだ。これを読んでいたら、何か気が楽になって
きたことは確かである。神は遺伝子に宿るということか?! いや、エゴイズムのはずがないから違うか?
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2003年05月25日(日)
 781, 父が亡くなって30年
 父が亡くなってあと5日で、三十年になる。去年もこの時期書いたが、供養も含めて更に書く。
私が末っ子ということで、陰に陽に父親には愛情をそそがれた。子供に対して、非常に愛情の深い人であった。
母の愛情のかけ方があまり巧い人でなかった分を、父がカバーしていた。反面非常に厳しい人であった。
 年を重ねると供に性格も顔もそっくりになってきている。毒舌家で、卑しい人間を徹底的に嫌っていた。
非常にシャイな人で他人とは迎合をしない人であった。反面、非常に寂しがりやのところがあった。
こう書いていると自分の事を書いているようだ。過去に一番悲しかったことといえば、父が亡くなったことだ。
もの憶えがついた頃から大晦日に、子供全員が金庫の前に座って一人一人がお年玉を貰うのが恒例であった。
そして数日後、全額を預金させられた。 もっとも預金するかどうかは本人の意思を尊重していた。
 10万近くが高校に入る頃まで溜まっていた。高校に入ると同時に待っていたのだろう「株を買え!」という、
それも自分で銘柄を選べと。 必死に考えて「科研科学」という会社の株を選んで買った。
結果としては儲からなかったが、日経新聞の経済情報を毎日見るようになった。 時間をかけて種銭をつくり、
情報を自分で集め、投資をしろということを教えたかったのだろう。ー以前書いた文章をコピーしておきます。
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2002/06/01
父・堀井誠作のこと -1
(以下、字数の関係でカット2,008年5月25日)
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2002年05月25日(土)
 417,人生の負け組みと勝ち組み
だいたい20?が勝ちで、80?は負け組みである。何をもって勝ちで、何をもって負けというのか?というが。
一般的に自分の真にやりたかった事を見つけ、やりとおせたかどうかだ。 その意味でやはり、あるはずだ。
社会的な勝ち負けの話しではない。 負け組みの、負け惜しみで何かへ理屈が出てきそうだが。
・過去の蔵にそれ(やりたかった事をやってきた行為)が詰まっており、
・現在それを過去の計画どおり実行しており、 ・未来の計画をキッチリ立ててある人
そういう意味で大体私の周囲では、2対8の比率は間違いない。刑務所など99?だろう。
その共通点は目先しか見えない峡視の人だろう。80?の人も然り?ダイヤを入れれば、ダイヤが出てくる。
ゴミを入れいればゴミが出てくる、その分別ができなかった人だ。何か厳しい内容だが、見方を変えればいい。
「自分は社会的なことは別として、ずっとやりたいように生きてきた。
自分の大好きな○○をしてきた、それで充分だ」こう言える生き方が勝ち組だ。
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2001年05月25日(金)
「31]」写真日記コーナー開設! ウイークリーマンションの司の社長の写真日記
ーこれはノートにその日あった人のインスタント写真を張りつけていくものだが、
ーいつか実行したいと思っていた。そしてホームページで 是非実現してやろうと思いつき今日開設した。
ソフトが不備で思いどうりにならず、苦戦していたが何とか間に合った。 しかし途中挫折しなければよいが? 
慣れてくれば、習慣化してしまえばしめたものだが。どういう展開なるか自分でも解らない。小さな世界がますます
露呈されていくが、しかたあるまい。だんだんホームページに関わる時間を短縮していかなけれと思っているが