「脳と日本人  松岡正剛 茂木健一郎」 −読書日記
   
 * 日本という方法
松岡: ぼくは、日本をヨーロッパ思想の規範の価値観だけで見るのじゃなくて、日本が日本を「方法としての日本」に
 しようとしてきたことに関心があるんです。それを見ることが好きなのです。たとえばインドに生まれたブッダの仏教は、
 中国をへて日本に伝来しましたね。中国の浄土教が日本に入ってくると、法然や親鶯らによって、かなり独創的な
 日本浄土教というものになっています。空海密教も、インドはむろん、中国にもあまりないものです。つまり、日本は、
 中国にあったものを変えて日本化させてしまっている。再編集するのですね。それは禅もそうだし、屏風や庭園もそうです。
 屏風は、中国ではほとんどが木です。日本は紙ですね。 日本という方法になっていくんですね。 たとえば、屏風は、
 閉じてまた開くとか、季節になったら蔵から出してきて、終わったらまた蔵に戻すとか。ぼくの家もそうしていました。
 掛け軸も、その場に合わせて掛け替える。ヨーロッパなどでは、いつ行っても同じ絵を飾っていますね。
 えんえん百年間も同じ絵を飾っているという家庭もありますからね。セザンヌの絵でもお爺さんの肖像画でも、三年ぶりに
 訪れたら掛け替えてあったということはほとんどないしね。 新しく購入した絵画を自慢したいというのは別ですけどね。
 ところが、日本では、僕くが育った環境では、少なくとも季節ごとに変えています。 みんな、お金持ちじゃないから
 繰り返して使いますけどね。そういうやり方をするわけです。また、禅宗は中国で生まれて発展しましたが、日本で広まり、
 五山の禅宗文化になった。そこにはいろいろ付属して芽生えたものもある。細長い掛軸もそのひとつ、座敷で酒を飲むのも
 そのひとつ。その代表的なものが、枯山水です。中国にもロックガーデンは沢山ありますが、枯山水はまったくありません。
 枯山水は、水を使わずに岩や石や砂を配置しただけで、そこに山や水をあらわしている。水を感じたいから、あえて水を
 抜いているんです。 枯山水の庭の前に、日本では池泉庭園というのをつくっています。毛越寺の庭園ですね。
 そういうのがあったにもかかわらず、枯山水の庭をつくって岩や石や砂があるだけなのに、そこに水の流れや大きな世界を
 観じようとした。つまり、感じたいものを方法論的にそこから抜いたのですね。 こういうことは、宗教改革のような
 既存価値の打倒や分割とはいえないかもしれないけれど、とはいえそこには宗教感覚が生成していないともいえないんです。
 水を感じたいがゆえに、あえて水をなくしてしまった。不在をもって、かえって存在感を表現する。
 ―
 松岡は、何らかの情報を得て受けとめる方法のすべてを「編集」であると見て史書の編纂から日記、短歌、連歌などに
 とどまらず政治・経済のシステムや、書くこと話すこと、生きることそのものまでを編集行為として捉え、
 長年考察し続けてきた成果をもとに日本を日本ならしめている「日本的編集方法」を探っている。
 ただ「主題」を求めようとするのではなく歴史に蓄積された「日本という方法」を発見している。
 極東の島国に流れ込んだ、あらゆる文化を島国に合わせて再編成を長年かけてしてきたのが日本である。
 21世紀こそ、このノウハウが世界に必要となるのではないか、という。分からないでもないが。

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2771, 女の一生
2008年11月05日(水)

ある随想を読んでいたら、次のような内容があった。一人ひとりの人生を見つめると、誰も彼もが波乱に富んでいる。
短い文章の中に、一人の人生が垣間見れるようだ。「言葉には魂が宿る」ということである。
 ーー
・・・十代の終わりには私は親もとをはなれ、働きながら自分で縫ったスーツを着て成人式に出席しました。
これが二十代のはじまりです。そして.「この人となら死んでもいい」と思える恋をしたものの、
「わしの目が黒いうちは、かまどの下の灰も、他人にはやりたくない」と彼の母親に言われ、
死ぬほど辛い失恋をしたのも二十代のことでした。
主人と知り合って妻になり、長男を授かって親となって、私の二十代は終わりました。
主人が交通事故のために、右足切断の身体障害者になったのは三十代のはじめでした。
しかし私は考えた末、身籠っていた長女を出産しました。
それからの月日は二人の子どもの養育と、後に自宅を改装して開いた喫茶店経営の忙しさに追われ、
いろいろなことはありましたが三十代、四十代は夢のように過ぎてしまいました。
子どもたちが成長して私の元から去っていき、五十五歳で喫茶店も閉じました。
先日、紀伊国屋書店で何げなくめくった本に、こんなことが書いてありました。
 女の一生
  二十代 美しく   三十代 強く      四十代 賢く    五十代 豊かに
  六十代 健康に   七十代 しなやかに   八十代 艶やかに  九十代 愛らしく
気がつけば私は六十歳の半ばも過ぎて、四人の孫の「ばあば」になっていました。
振り返り、私の「女の一生」は、どうだったでしょうか。
記憶にも残らない日々を、多く積み重ねただけのような気がします。
私に残されたこれからの人生は、自分のためにも、そして、友人や知人のためにも健康に気をつけて、
しなやかに、艶やかに、愛らしく生きていこうと考えています。
年賀状をポケットに、ポストに向かう私の背を北風が強く押してくれました。
 ーー
解)女の一生 を 男の一生に 私の実感から書いてみると、 
  二十代 七転八倒           三十代 激しく逞しく
  四十代 ゆるやかに、よろよろと    五十代 面白可笑しく、三十年分を
  六十代 静かに 穏やかに?      七十代 (やはり)しなやかに

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2007年11月05日(月)
2407, こころの旅 ー6
                  ○´ω`○)ノ**c⌒っ *・∀・)φ【才八∋ゥ♪】
   
   この本は、ところどころに見逃すことの出来ない「人生の道理」の内容で満ちている。
   それを知っているといないとでは、人生が全く違ってくるだろう。
   その意味では、この本は常に身近において読んで置いてよい本である。
   ・一歳半〜五歳位の間におきる脱中心化=自己客体として自分の身体を客観化する転換期、
   ・思春期におきる超時間的な抽象的時間の概念をもつようになる転換期、
   ・熟年時におこる宇宙時間の実感化への転換期、 と、人生に三回のコペルニクス的転回を指摘している。
    私は宇宙的時間の実感化はおこり始めているが・・・
  まずは、その部分を抜粋して考えてみる。
  −−−−−
*人生の三回のコペルニクス的転回

・第一の転換期については、ピアジュは子どもの研究において、一歳半ぐらいまでの幼児は
 すべてを自己中心に考えているけれども、一歳半ごろから自分の活動を自分のからだから
 「脱中心化」し、自分のからだをほかの客体の中の一つとして見ることを始める。
 これは四歳ごろから顕著となり、五、六歳ごろには本格的なものとなる。
 つまり、空間における自分のからだを客観的に見ることができるようになり、
 ものを抽象的に考えることができるようになる。これが第一の転換期という。
・さらに思春期ごろから第二の「コペルニクス的転回」が起こる。 青年は時計の「物理的時間」は便宜上のものに
 すぎないということがわかって来て、超時間的な、抽象的な時間概念をも持ちうるようになるという。
 つまり時間というものは極めて不思議な、哲学的な問題であって、青年期にこの問題に思いをひそめる人は必ずしも少なくない。
 この時期に充分に発達した意識を持って自己のからだと心に対面し、世界と社会の中における自己の位置と役割を
 シカと見定めるところにある。 自己と自己のと分化は人だけに見られることである。
・向老期の頃から、他人が自分をどう見るかは大した問題ではなくなる。 その他人もまた死んで行くのだから。
 それより自分こそ、自分の一生が決して完全無欠なものではないことを知っている。
 ましてや、もっと大きな眼からみれば、自分の一生などなんとおかしな、こっけいな、あわれむべきものであろうか。 
 それにもかかわらず今まで人間として生きることを許され、多くの力や人によって生かされてきた。
 生きる苦しみもあったが、また美しい自然やすぐれた人びとに出会う喜びも味わわされた。
 そしてこれからも死ぬときまで許され、支えられて行くのだろう。 ひとは眠っているときにも支えられているのだから、
 これからも自分が意識するとしないとにかかわりなく支えられて行くのだろう。 永遠の時間は自分の生まれる前にもあったように、
 自分が死んだあとにもあるのだ。 人類が死にたえても、地球がなくなっても、この「宇宙的時間」はつづくのだろう。
 自分は元々その「宇宙的時間」に属していた。だからその時間は自分の生きている間も自分の存在を貫き、これに浸透していたのだ。
 げんに一生のうち、その「永遠の今」を瞬間的にでも与えられた人もある。
 時間を川の流れにたとえるのは、岸辺にあってその流れ見ている観察者を想定しなければ成り立たない比喩だ、
 という意味のことをメルロー・ボンティーは言った。厳密な意味では人間は観察者なりえない。人間は流れそのものだから。
 だから観察しているとしたらそれは「神」か、何らかの超越者だろう。
 この観察者をペルソナとして考えがちなのは人間らしいことであり、同時に人間の精神の限界を示すものであると思われる。
 (ペルソナ=仮面)こういう宇宙的時間の永遠性に対する感覚が生まれてくるに従って「コペルニクス的転回」は深められ、
 ついには青年期に垣間みられた第二の転回よりはるかに徹底した第三の転回に行きつくのだろう。
 それに従って老いつつある人間にも死を越える未来が開け、全てはその永遠の時間に合一するための歩みと感じられてくるであろう。
 そのとき、人間はどれだけのしごとを果たしたか、ということよりも、
 おかれたところに素直に存在する「ありかた」のほうが重要性を帯びてくるだろう。
  ーーー
以上だが、「永遠の時間に合一するための歩み」に近い感覚は、遺跡にたった時に感じる奇妙な感覚に少し似ているだろう。
それと、南米のテーブル・マウンテンで感じた数千万年、数億年の時間感覚に。
                                        ☆ァディオス☆(`・ω・´)ノ
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2006年11月05日(日)
2042, 田舎に泊まろう!
     。^0^。)ノ オッ(*^○^*) ハ〜 ヨウ
田舎に泊まろう!」を見ながら、この文章を書いている。(11月4日9時半)
地上放送で土曜日の9時25分に、夜はBS/TVで、20時に放送しているが、最近はどちらかを必ず見ている。
(地上放送は二週遅れの内容である) 内容といえば行き先も何も知らされないまま、全国各地に飛ばされた芸能人が田舎を歩きながら
地元の人に声をかけ、『今晩泊めて!!』と頼む。そこで色いろなふれあいが生じる。だいたい7〜8軒は断わられるが、
面白いのは(*^ワ^*)i  バイバイ!
                (字数の関係でカット08年11月05日)
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2005年11月05日(土)
1677, うそつき−3

子供の頃、「うそはついてはいけない」と信じていた。当時の子供社会は、まだまだ純朴な時代背景があった。
中学生になってクラスの隣の席の男が平気でうそをつくのに驚いた。それまで、うそを平気でつく人間はほぼいなかったからだ。
それから年齢を重ねると同時に、うそを平気でつく人間を多く知るようになる。また裏切りも多く出会った。うそに対しては、
誰も一言も二言も言いたいことがあるはず。父が癌であと一年と宣告された時(本人には隠されていた)亡くなるまでの一年の間、
自宅で父と暮らした。私が26歳の時であった。死に病を隠すために時々父にうそをつかなくてはならない場面が多々あった。
そしてあと三ヶ月と宣言された時、父に隠れて葬式用の黒服を作りにいった。何かを察した父は、『何処に行ってきたのか』
と聞いた。その瞬間のうそほどつらいものはなかった。その時、「うそも訓練していなくては!」と、思い知った。
そして、私に思わぬ出来事があった。セミナーで、東京に泊まったときのことである。
ホテルの近くの居酒屋で会社の人と酒を飲んで、何処かのスナックに入った。そこで上機嫌で飲んだことは憶えているが、
その後のことは全く忘れてしまった。二日酔いの私に連れが翌日、「前日のことを忘れてしまったでしょう」と言われた。
「そういえば、全く記憶にない!」と答えると、思ってもない内容であった。人格豹変というのか、全く違う自分がそこにいた。
「自分は、数ヶ月前に離婚をして現在は、その心の傷でしょぼくれている」そして、悲しそうな顔をして肩を落としていたという。
恐らく、よった勢いで二度とくることはないのだから「しょぼくれた男を演じてやれ!」と、思ったのだろう。
酔いが醒めたこともあり、深い自己嫌悪に陥ってしまった。酒癖の悪い男の一場面でしかないが。
ところで知人に「うそつき」の典型的な男がいる。 本人は自覚してないようだが。
自分の行動や、その結果の責任に対して正当化して、その裏にある欲求や、能力といった真の姿を自分や他人から隠そうとする。
しかし、それがバレバレなのだ。その度合いが強いだけで、誰の中にも存在するものだが、それを自分のノウハウにしているから問題。
攻撃相手のある断片をとらえて、自分のつくった虚偽の事実を混ぜてストーリーをつくりあげて、あちこちで言いふらす癖の営業屋である。
女の腐ったような男という奴だ。 そういえば、流通革命を旗に掲げたコンサルタントも、その癖が強かったが。
うそは、真実の間にミックスするから効果があることは誰も経験があるだろう。[うそも方便]とは、よく言ったものだ。
以前書いたことがあるが、フランスで詐欺師の実際にあったと言いわれる話しがある。
まだ無知の田舎者がほとんどであった17世紀。 自分の年齢は2千歳、キリストも知っているとほらをついて
まわって詐欺をしていた男がいた。その従者に「本当にご主人は2千歳なのか?」と、こっそり聞いたら、
従者[私は3百年しか生きてないのでわかりません]

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2004年11月05日(金)
1312, まさか、地元で大地震!ー9

この地震シリーズを書くのも終りのはずであった。書くのも飽きてきたし、面白くない内容だ。
昨日は普通の生活パターンに戻る初日。ところが新幹線が長岡駅を発車して7分後に、再び余震があるとは思ってもいなかった。
震度は4で、ユサユサという感じの揺れであった。災害以後の、通勤初日の新幹線でまた余震にあうとは。
今年の台風と同じで、どこまでも続くのが不気味である。 地球規模の大気圏と地層で、何か起り始めているのではないのか?
と考えざるを得ない。 観光旅館は、県内は壊滅状態という。中越地区は、ほぼ100?がキャンセル。
他の地域でも80?がキャンセルをしているという。本当に深刻である。これは典型的な業種であるが、ほぼ全ての経済は
壊滅だろう。困ったものである。長岡駅新潟駅の専門街は殆どお客は見当たらない状態である。
旅行をしていると、この数年どこにいっても、「地球温暖化の影響で、この数年異常気象が起きている。
生態系のバランスが崩れて色いろの分野で大きな問題がおきています」という。神(大自然)が怒っているのだろうか。
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 昨日、出社の直後書いた「メルクマール」の日記の内容である。
 ー11月4日ー
「冗談じゃない!」 11日ぶりの新幹線、やっと平常に戻れたと思いながら外を見ていた。
ところが発車して7分ほどして、新幹線が急停車。その後10秒程度?揺れていた。
「これは地震で震度4~5位だが、もっと大きいかもしれない。当分、新幹線の車内から出ることが出来ない!下手すると、
数時間はかかるだろう。それにしても、危ない場面に出くわしてしまったのだ」と思い、自宅に携帯電話をするが不通である。
そこで新潟に電話をして状況を聞くと、中越地区が震度5強地震という。
しかし30分後に発車、長岡を出発して1時間後に新潟に着いたことになる。 これで当分警戒期間が延びることになる。
災害地は、昨日の大雨で地盤が緩んでいたはず、二次三次災害がないといいが。 先週の水曜日の余震5の時も、
やはり三条と長岡の中間地点にいた。 今回の地震では、一回目の地震の三時間前に震源地に近い小千谷
スー・パー・センターに行っていた。何か巡り合わせが悪い。 少し、それを意識しなくてはなるまい。
帰りの新幹線は長岡まで果して開通するのだろうか。
                
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2003年11月05日(水)
945, 瀬戸内寂聴

 先日たまたまBS・11にチャンネルをまわしたら、瀬戸内寂聴の講演で「四苦八苦」の仏話を面白おかしく話していた。
その時の概要が「笑うこと、合掌すること、そして鏡を見ること」であった。 
後半の滝田栄と寂聴の対談が面白い内容であった。「人の命は甘美なものだ!」と釈迦が言ったという寂聴の言葉が印象的。
 そして「慈悲が真髄だ」というのが彼女の実感として迫ってきた。「笑わすことが重要だ」「渇愛こそ最も大事な愛だ」
「自分を慎め!」「51歳で出家して、一つだけ守っているのはセックスだけだ。あとは守ってない」
「出家といっても、カタチからキチンと入ることが大事である。もし髪を下ろさなかったら、煩悩に負けてしまっていただろう」
「髪を下ろすことを絶対に勧めます」「仏像を彫りなさい!」等々、印象的な言葉がドンドン出てきた。
 作家である為か、難しい仏教の真理を簡単にしてしまうのが彼女の特性と自覚しているのがよい。
「笑うこと、合掌すること、そして鏡を見ること」という言葉もよいが「書くこと、与えること、夢をみること」もよい。
 
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571、ひしょひしょ話
 −2002年11月05日(火)

  • 組織づくりのポイントー

会社を始めるにしても、組織を創るとき一番大事なのはまず秘書を採用すべき事だ。
次に経理そしてその次にオペレーションー運営責任者のマネジャーになる。
これは逆に考えてしまいがちだが、冷静に考えれば当たり前の事だ。
これが意外と盲点である。これを読んでハッとする人が多いはずだ。 最近は日本もスカウトなどで会社を移動する場合、
秘書を連れて行くケースが多くなった。 それだけ秘書の役割は大きい。
秘書は大学教授の助手の役割と同じである。的確に指示を出す手助けとー雑務の代行だ。
アメリカの映画を見ていると、会社の大小に関係なく会社といえば先ず秘書が出てくることを考えれば解ることだ。
その次に大事なのが経理課長だ。 ラインのマネジャーは最も大事だが、まず充実すべきは秘書の機能である。
一人の部下を持つ場合まず秘書としての訓練をしてその機能を入れることだ。
次にお金の管理ー経理課長を訓練をする。運営は最後だ、運営はまずトップの自分がしなくてはならない。
家業で奥さんと一緒に仕事をする場合は、自分がトップと運営責任者のマネジャーを兼ねるケースが多い。 
最近はこの逆のケースの場合も多いが。 出来たら奥さんと仕事をしない方が良い。
一番大事な秘書機能が逆にはたらく?!更にトップの舵取りを奥さんが口出しをする。それだけでなく変化を嫌う。
女の社長が少ないのはこの為だ。この見極めがお互いしっかり分けてないと大きい失敗に繋がる。
家業でも職能を明確にしておかなければならない。 もう遅いか??!!

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[216] クルージング

  • 2001年11月05日(月)

10数年前になるが、3分の1の値段でいいから、クルージングのツアーに参加しないかと、当時のある大手の旅行代理店の
支店長から話があった。 定員を大きく割っているので、得意客を優先的にディスカウントをするという。
もちろん二つ返事でOK!当時第二新館の土地の買収先のオナー夫妻と参加した。クルージングが4泊5日で香港2泊の一週間で
10万円だった。こういうレジャーもあるものかと感激した。毎食がバイキングで、これ以上おいしい料理がないくらいの美味しさ。
かつ夜10時から朝6時くらいの睡眠以外、船内のあちこちをブラブラしている。
それがまた楽しい。船上で甲羅干しで寝ているか、ウオーキングをしたり、ライフルを撃ったりする。 
船内ではヨガ教室に参加したり、英会話、ダンスの講習、などイロイロあり、その好きなやつをして過ごす。
それが気ままにどれに参加してもいいのが楽しい。金持ちはイロイロな楽しみ考えるものだ。贅沢な遊びの最高に属するものだ。
三ヶ月で数百万するものがたまに見ることがある。 ここで面白い社会構造を見た。船会社と船員がイギリス人、
コックが中国人、メイドや下働きがフィリッピン人であった。それに客が日本人であった。
夜がカラオケにパーテーやカジノの時間だ。これが毎日続く。気分的に最高であった。
そして飽きた頃にフィリッピンに上陸である。 マニラとミンダナオ島であった。
正式な上陸でなく警察つきの仮上陸の為、パトカーのサイレンを鳴らしながらのビップ待遇である。
えらい?代議士がその気になるのが解かった。60歳を過ぎて余裕ができたら、地中海のクルージングに参加したと思うが。