「心に残るとっておきの話ー第九集」 

    ー終わりなき旅ーより

 これを読んで、深い何かに覆い包まれたような気になった。 頭に残ったまま私の言葉で、その内容を書いてみる。
≪ ツアーに参加しようと飛行場に向かったが交通渋滞でギリギリに飛行機に乗ることになった。
 殆どの同行の人の顔も知らないまま飛行機の席に座ったところ、近くの席の60代の初老の夫婦が赤ちゃんの
 世話をしていた。孫にしては両親がいないのでオカシイとは気になりだした。スチュワーデスが声を掛けたが、
 赤ちゃんを見たところ、変な顔をして行ってしまう。 周りの人も何か変な雰囲気。そして飛行機を降りたところで、
 その赤ちゃんをみたら、何と人形だった。そのツアーの人たちは気持ちが悪かったのだろう、誰も近くに寄らない。
 ところが食事のおりに同席したところ、その初老の男の人が「変だと思うんでしょうね」と、その事情を話し始めた。
 「二人とも教師だったが、なかなか出来なかった赤ちゃんが、やっとのことで授かった。ところが直ぐに亡くなってしまい、
 そのショックで妻は自殺を図ったりした上に、精神を病んでしまった。 その精神治療のために医師と相談した上に、
 せめての慰みにと人形を身代わりにして、10年、衣服を替えたり、食事をしているふりをしたり、生きているように
 扱ってきました。 何で、こういう話をするかというと、あなたが初めて食事で同じ席についてくれたからです」という。
 それを聞いて、返す言葉がなかった。 ≫ 大筋は、こういう内容である。
  何か、その二人の姿が目に浮かぶようである。 今でも何処かに三人で旅行しているのだろうか。
 ツアー、それも秘境ツアーには、色いろな人と出会う。 人生の甘いも辛いも味わいつくし、さて、あの世に行く前に
 チョッコラ世界の果てでも行ってみるか、みたいな人とか、博識の人とか、色いろな人生を背負ってくる人が多い。
  この二人の背負った運命と、ツアー舞台の組み合わせが、何とも悲しみが深く伝わってくる話である。
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2738, フォードが4ドル、GMが9ドルだと!
2008年10月03日(金)

 アメリカ株式市場で史上最大の暴落で金融恐慌の様相を示してきた。この影響で世界中の株価が暴落を始めている。
それにしても、火の手のまわりが早いのに驚かされる。 今回のサブプライム問題は1〜2年で収束するほど生易しくない。
火の手が早まれば銀行閉鎖など何が起こるか分からなくなる。アメリカは、この火消しにドルの輪転機をフル回転すしかない。
その結果、金融破綻というハイパーインフレが待っている。欧州では、次から次へと銀行の国有化が始ったというし、
取り付けが静かに進んでいる。金融システムの崩壊は、まず弱者に皺寄せがくる。 一波として大量の倒産が数ヶ月後に始る。
身一つで山の上に逃げなくてはならない具体的な行動とは、金を買うぐらいのことしか思いつかない。
情報化社会は以前のような情報コントロールが不可能になる。今年に入って、悲観的な本を何冊か読み、資産防衛セミナーで
知ったことは、あまりに危ない世界経済の実態。この半月だけでも、劇的な世界の銀行の破綻と、再編成が生じている。 
これは既に金融恐慌である。世界恐慌に入ってしまったと仮説をたてて、現在の動きをみると、一連の動きが違って見えてくる。
これまでは金融機関の破綻に眼が行っているが、アメリカの大企業を見てみると、GM の株価が9ドル、フォードにいたっては
4ドルである。一時期の1割の株価である。そして9月の全米の車販売数が、去年の25%オフである。
目先、米政府が資金援助をするようだが、焼け石に水。更に数年前まで、世界の企業の最優良企業と言われていたGEが
次の危ない会社と見られ、急遽増資を発表した。こういうニュースが、今後とも休憩を入れて続いていくのである。 
歴史の残る出来事を連日、目撃することになる。そして、ある日、その火の手が、自分達の世界にも押し寄せる。 
戦争でも、家に赤紙が届いたり、爆撃がくるまでは、普段の静かな生活は変わらないという。
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*大相撲の場外乱闘が面白い!

 本場所が終わったと同時に、ロシア三人組の騒動が再開した。
特に若の鵬が「旅の恥は掻き捨てとばかりに八百長大麻疑惑の暴露を始めた。ここで俄然面白くなってきた。
脅しをかければ屈するだろうと、必死になればなるほどエスカレートしてくる。
朝青龍八百長事件が報じられてから、勝率が80?台から50?台に落ちたと週刊誌の見出しに出ていた。
若の鵬に対して、「直接話があり、金を強引に渡された」と記者会見で言っていた。あの男ならやりかねない。
玉春日が、まだ引退をするほど負けこんでないのに、千秋楽直前に引退届けを出した。
少し穿った見方をすると、これも? その親方の巨砲も親方を辞めてしまったが、これまた不自然。
所詮は、芸能スポーツの世界のこと、これも見世物と割り切ったほうがよい。
白鵬アメリカ巡業でのリファナ疑惑が出てきた。 何でもあり!ということである。
それより若の鵬が変な事故か、自殺のようなカタチで抹殺されはしないかと・・
その筋の関係者がタニマチが多いからだ。それより国外退去ということか。
共同幻想」は、あまり壊さない方がよい。

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2007年10月03日(水)
2374, 人は60歳で何をしたか −3                 
                 ー読書日記
  「人は60歳で何をしたか」藤原治・著

著者・藤原が60歳の時に「人は60歳で何をしたか」の本の準備をしてことになり、それ自体がユーモアに聞こえてくるし、
本人が一番勉強になったはずである。それにしても、選りすぐった人たちとはいえ、そのエネルギーは強い。
彼らに一致しているのは、この時期は「起承転結」の「結」の時期ではなく、起承転々の「転」である。 
最後まで転げまわるのも良いものである。この本では、古今東西の大家の「60歳の時点」の創作を具体的に提示して、
そのプロセスで、その人となりの精神を現わそうとしている。 著者は私と同じ年齢になるが、比べようもない
知識の広さと深さに大きく溜息をつきながら読んでいる。 それよりも紹介されている人たちに驚かされる。
比較しようということ自体が、おこがましいのは解っているが、それでもである。
殆どの本がそうだが、「まえがき」に多くの著者が言わんとすることが凝縮してある。
その中に「定年退職する人には、職探しの前に自分探しをする人が多いという。
企業を離れたとたん、個人としてのアイデンティティの確認に苦しむという話をよく耳にする」とあったが、
何か解るような気がする。会社という制服を着てきた人間が、それを脱いだ時に初めて自分に直面する。
自分=「私」は哲学的にいうと、過去のトータルの「・・」である。
それが制服を脱いだと同時に自己喪失感にとらわれ、個人としてのアイデンティティの確認を求めざるを
得ないのは当然のことである。 その辺のことを、この本の中では解りやすく説明している。
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P・7
それまでの自分は、会社の規範の中で生きてきた。異動や転勤があり、人生の生き甲斐も家庭の悲喜も、
会社の意思で決定された。そのような企業組織に対する依存度が高い人ほど、人生が変わってしまうのが定年。
会社の出世コースを外れた人ほど、第二の人生を生き生きしているという。 そこで生き甲斐を見出せないためか、
会社以外に自分探しをしているためである。還暦とは、稀有な長生きの先に、僥倖として新しい人生が開けたという考え方だ。
60歳まで無事生きれたのだか、これを契機に新しい人生を生き直してやれというから、哲学的な概念である。
定年はそれまでの縛りがなくなることだが、還暦は新しい人生を生き直すことである。
なら積極的に新しい人生を探してみて、第二の人生を深くしていって方が良いに決まっている。
ーP・8
精神科医の中沢正夫は、その著書『人生が二度ある』の中で、
第二の人生計画を練るにあたっての原則を次のようにまとめでいる。
1、第一の人生のなかでの自分とは、自分にとって何であったのか、見きわめること
2、何をしたいのかは徹底的に個人主義的に考えること、配偶者にもそうしてもらうこと
3、計画は終了・完成を目標としないこと  4、道草・浮気の旅を心がけよう
5、働くこと、社会参加することを中心に  6、世にはばかるパワフル・シルバーに
7、挑戦を一つ入れること         8、記録をのこそう
9、早めに計画をたてる         10、もう遅いという人へ
これに加えて自分探しの要諦について、評論家の佐高信は「会社への『離塁感覚』を持て」といっている。 
作家の堺屋太一も「職縁から離れる時だ」といっている。 
この離塁感覚というのは、以前の組織にいた時の自分を引きずるなということだろう。
あくまで自分の頭で自由に決めることを前提に、自分探しをすべしということであろう。
考えてみれば会社を去るわけだから、束縛されるものはもう何もない。 時間の過ごし方も、考え方も、
自己を規制するルールもまったくないのである。ある意味で、こんな幸せなことはない。
とはいえ、具体的にどうすれば自分探しができるのか。初めての経験だから、途方に暮れる人も多かろう。
僕は気に入っている作家の60歳の著作を書斎で探してみた。文豪といわれた人たちが、60歳という人生の切れ目で
なにをしたかを調べたくなったのである。通常、著作の是非は内容で諭じるもので、60歳という視点で各分野の作品を
斬ることは、おそらく誰も試みたことがないように思う。その還暦調査を手掛ける前に、実はふたつの予感があった。
一つは、巨匠たちが節目ということを意識して、 自分の代表作をものにしているのではないかという予感。
二つ目は、この調査が新しく第二の人生を模索する人たちの、参考資料になるのでは
 という予感。そして、調べていくうちに、二つの予感が正しかったことを確信した。
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 以上だが、過去に何回も書いてきたが、座卓犬が突然、首輪をとられ家の外に放り出されるようなもの。 
 家の外は、誰も見向きもしないし、何処の犬だったなど通用しない。そうすると放り出された野犬の群れに入るか、
 他の家の屋外犬として軒先に入るしかない。それともさっさと一匹狼として、街の外に出て自然の中の餌を探すか。
 逆に考えれば、そのまま老いた座卓犬でいるより、余程よいかも?

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2006年10月03日(火)
2009, ドイツ病に学べ
    (。^0^。)ノ オッ(*^○^*) ハ〜 ヨウ

毎日新聞」の日曜日(10月01日)の、ー本と出会う=批評と評論ー の「ドイツ病に学べ 」の評論がよい。
「日本に次いでGDP世界第三位を誇ったドイツが、EUのお荷物となっている」
 というニュースは何度か目にしてきた。その詳細が現地に住んでいた著者の眼で書かかれている。
*その惨状といえば、19?の消費税、実質16?という高失業率、リストラ、旧東独の苦闘、
 高い給料と強すぎる労働組合、旧東欧諸国に逃げ出す企業、年金制度、等々 問題が山積みである。
「まだまだ日本は、ドイツに比べたら恵まれている?」とさえ思えてくる。
しかし、現在の日本に酷似しているから驚きである。それにしても、東西冷戦時代の優等生だった
ドイツと日本の凋落は激しい! ソ連アメリカの冷戦の一番の恩恵を受けていた日独が、
終戦と同時に凋落するのは当然だが、共産圏の垣根が掃われた直撃の影響は想像を遥かに超えている。
さらに、これからはアメリカの凋落が待っているから先行きは楽観できない。
これに対して、中国とインドは紆余曲折があろうとも強大になっていく。
さらにロシアも社会基盤ができてくればその後に続くのは明らかである。
地球上の繁栄の軸は欧州から米国へ移動したが、これからはアジア・シベリア大陸に移動していく。
ドイツ車が本国で人気失墜をしたことを、まだ日本人が知ってない?
ホンダと、トヨタ車があるのに、まだベンツ神話の人が多いときている・・
フォード、ゼネラル・モーターにつづいて、次はベンツの危機か?
ー記事全文 ー
伊東光晴・評 『ドイツ病に学べ』=熊谷徹・著(新潮選書)
 ◇ユーロ圏拡大と裏腹の閉塞感
 ヨーロッパの経済の優等生を長く続けたドイツ経済がゆらいでいることは、日本でもよく知られている。
失業率が一〇%程度という高さを続け、いっこう改善されないのが第一である。第二は、EU統合にさいして、
ドイツが強く主張した「ユーロ安定基準」−その核ともいえる「各国はその財政赤字をGDP(国内総生産
の三%未満に抑えねばならない」という財政赤字比率を実現できなくなったことである。
なぜこのようなことになったのか。この本は元NHK記者で、一九九〇年からドイツに在住している
ジャーナリストの目で、その答えを具体的に示してくれる。 第一の答えは、経済のグローバル化にともなう、
製造工業の空洞化である。賃金の安い発展途上国に工場が移り、産業の空洞化と失業者が増大する−
−この先進国一様の問題だけではない。当初、政府は賃金の安い旧東ドイツへの工場立地が進むと予想した。
だがこの期待ははずれた。より賃金の安い国へ、である。日本などとの違いは、それが中国、アジアだけでなく、
ユーロに加わる隣国だったことである。著者によるとチェコの賃金はドイツの四分の一、ポーランドは八分の一である。
空洞化が、ユーロ圏拡大とともに、ドイツで拡大したことがよくわかる。 第二の点について、この本で重要なのは、
東ドイツとの統一は政治的には成功であったが、経済政策のうえでは失敗だったことである。 
統一後の政府による旧東ドイツへの集中的投資が、日本の八〇年代末のようなバブルを生み、
しかもそれが企業誘致に失敗し、建設バブルの崩壊となる。不況と財政の破綻はそこからはじまっていく。
 ドイツ産業の競争力の低下も進んでいる。著者はドイツでの乗用車の顧客満足度調査を引いている。
一位はトヨタ、以下七位までが日本車、ドイツ車はBMWが一〇位、フォルクスワーゲンは三一位、
ベンツは三二位にすぎない。ドイツ車は電気系統が弱い。 二十数年前の私の経験でも、
来日したドイツ人教師のベンツの調子が悪く、また、友人ももてあましたドイツ車を日本車に変えた。
一時代を画したフォルクスワーゲンも、すでに時代おくれになっていた。
(以下は字数の関係でカット08年10月3日)

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2004年10月03日(日)
1279、イチロウの大記録

それにしても、イチロウの記録には驚いた。絶対無理といわれていた257本のヒットの記録をついに破った。
これで、歴史に残るスーパー・スターになった。相手チームの選手も祝福してくれるのだから、
それだけ凄い記録ということだ。これほどの歴史の残る大記録を、日本からの輸出品(完成品)で通用したことは、
驚くべきことである。生のドラマを、劇場的雰囲気で見れるのだから素晴らしい。昨日は、この試合を初めから
終わりまで見た。野球の試合をフルに見たのは、数年来初めてである。イチロウが初めて打率を日本でトップを
とった20歳の頃、森・元監督が、あるセミナーで「王や長島より数段上の天才バッター」といっていたことが頭によぎる。
しかし、ここまでの大選手とは思ってもいなかった。以前にも書いたが、彼のある言葉に注目をした。
ートップクラスの投手の一番得意の決め玉を待つ、他の選手は得意球を避けて甘い玉の来るのを待っているが、自分は違うー
超一流の投手なら、驚くだろう。「奴は俺の得意玉を待っている、挑戦をしようというのか?」
「それなら、受けて立とう!」といかないのが、人間である。今だかって、その経験がないからだ。
相手が、得意の玉以外を待っているから、得意球が効果を上がるのだ。マジックショーのネタを相手が知っているのだから。
見ている方からしたら、こんな面白いショーはない。彼は、手持ち時間は常にストレッチをしている。
超一流選手は、どういう訳か怪我が少ない。常に鍛え、集中しているからだ。
ー以前書いた内容をコピーしておきます。
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2001/12/21 [233] イチロウ
「将棋、囲碁など今の天才と言われる新人類は、みんなコンピューター付きマシーンを使っている」
と、美輪明宏がTVで言っていた。 何か練習に工夫をしているのではないかとは思っていたが、
昨日のBS・NHKのイチロウ特集で、その秘密の一部を知る事が出来た。それは何か!「
テニスボールを投げ込むマシーン」であった。それで230?のテニスボールを投げ込み、
スピードに対し、目を作ることと、反射の訓練をしていたのだ。これが彼の秘密のかなり本質の部分と直感した。
実際に球がきた時に、緩く見えるまで訓練するのである。そこに赤と黒で数字が書いてあった。それが見えるまで
訓練するのだろう。バッテングと守備の捕球に対して、球の見極めができるようになるまで訓練をしている。
子供の時から、そのマシーンを使っていたのではなかろうか。脳と身体のサイボーグ化をしていたのだ。
もちろんそれだけでは、あれだけのプレーはできない!その上に努力を人一倍重ねたのだろう。
努力は誰もできる、要は、人と違った手法を如何見つけるかだ。イチロウは自分の練習を人に見られるのを
極端に嫌っていた。他にも彼なりの科学的方法を積み重ねていたのだろう。 数年前に森監督の講演を聞いた時、
「イチロウは王・長島とは格違いのレベル」と言っていた。 そのとうりになってきた。

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2003年10月03日(金)
912, 開発部門ーベンチャー

 人間も組織も、自然に任せておけば、「最良」を避けて「良」だけをする。いや良だけでなく、悪をする。
そこで「組織にとって最良とは何かを考え実行する部隊」となる職種とはなんだろうと考えたら、開発部隊であろう。
それも3年〜10年後の新しい事業の開発行為を専門に動く職種である。
これを組織的に創るとしたら、「経営・戦略開発室」いや「経営企画室」である。
ラインやサービスとは独立をして「情報と経営・戦略の立案」に専従する職種だ。組織的ベンチャー部門ということ。
この激変の時代、常にその変化に対して自己革新を続けなければ、すぐに陳腐化をしてしまう。
そのこと自体も判らなくなるのが組織いや人間というものである。
 ところで、8月21日から開発専門を一人独立をさせた。毎日、情報とりを開始をした。勿論、ラインの仕事を一切なし。
新プロジェクトの開始である。 二年前と三年前に一ヶ月間だけ期限を切って、二人に開発休暇を与えた。
期限を切れば、ラインの視点を超えることができないことに当時は全く気がつかなかった。
悪く言えば、本気にはなれなかったのも当然である。開発の必要性に気づきだしたのに、あと一歩であった。
問題の大部分は組織図にあるというが、その通りだ。
人間そのものの素質という面もあるが、システムー仕組みの問題点として問題点を捉えてみるべきだということだ。
 開発行為は『外』に対する働きかけて新しい事業チャンスを模索することだ。
自分の庭の中には地表深く掘り下げれば多くの金塊があるかもしれない。それに気づくためにも、一度外に働きかけなければ。
少なくとも事業に関しては、庭の中にいては何も見えてこない。 小さい会社は社長そのものが一番の仕事になるのだが。
 金物屋はホームセンターには変身不可能である。それまでの常識がバカの壁になってしまうからである。

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[170] 忘れられないお店ー2    2001/10/03
 
その店(池津屋)で10年生活した事になる。すざましい日々だっだ。
その後長岡駅裏の台町の今の‘父ちゃんラーメン’のところに、高校を卒業するまでの8年住むことになるが。
衣料のデスカウントハウスのはしりで、全国的にも有名な店であった。‘1Fが店’‘2Fが荷捌きと倉庫と事務所’
‘3Fが住居’‘4Fが直しと女子寮’になっており、全宇宙が圧縮されているようであった。
ネコのタマとサルのタローと犬のコロが同居していた。 そのビルと大手通りが私の遊び場であった。
かなりマセタ餓鬼だったと思うが、誰にも可愛がってもらった。 特に綺麗な女社員が入ってくると、
ぴったしくっついていた。競合店が出来ると子供心に心配で一人偵察に行った。毎日の売り上げが気になり、
必ずレジを覗いていた。 両親が従業員の評価をしていると聞き耳を立てて聞いていた。
倒産夜逃げはごく当たり前の日常の話題であった。今でも年に2〜3回はその頃の夢をみる。
でもクリスマスといえば皆でツリーを作ったり、正月は家族と従業員全員集まりご馳走を食べたりして年越しをしていた。