* さすらう者たち

 「さすらい」という言葉は、何か深い何かを感じ取ることが出来る。
それは、青年期になると、親から一歩はなれて、自分の世界を探し求める者の姿に二重写しにもなる。
産まれて、育ち、生きていく人間のありようが、さすらいなのかもしれない。
その言葉に、「ニヒリズム」の響きを感じるとるのは、人間の存在は死すべき存在であるかだ。
さすらいといえば、船乗りと遊牧民である。 彼らは、「住まうこととさすらうこと」を同時にしている。
彼等の方向性は、目的とする港であり、商業の街である。 彼らは、港や商業地で住む人たちとは本質を別とする。
男はつらいよ」の寅ちゃんではないが、自分の帰属するところがあってこそ、さすらいが出来る。
 古来、未知なるものへの憧れが、人間をさすらいへと駆り立ててきた。
欧州ではユダヤキリスト教の影響が顕著になると、さすらいは原罪を背負い呪われた者たちの宿命であり、
彼岸という最終目的に至るための受難の道に過ぎないと、考えられるようになった。
 今日でも、何らかの最終目的に到着することが、旅の目的とみなされてきた。
しかし、著者は到着のためにさすらうのではなく、「さすらいのためのさすらい」、「さすたいのうちに住まうこと」
「住まいながらさすらうこと」すなわち「旅を枕とすること」を主張している。
我われが住まう空間を個々の物質的に限定された家の枠を越え、天と地のあいだの空間、
すなわち世界という家と解釈するならば、そこは我われがさまよう空間でもある。
 さすらいの人生、そういえば哲学的だが、元々人類は一万年前までは、さすらってきたのである。
それが天変地異があり、採取では生きていけなくなり、実のなる木を植え、動物を囲い込んで飼うことで
生き延びてきた。そして、それまでの移動生活から、固定した家をつくる切っ掛けになったのである。
だから、さすらいという言葉に人間は本能的に憧れを持つのである。
 既に亡くなった両親や、兄や姉、そして親戚の人たちを思い出すたびに、彼らは、娑婆でさすらい住んで、
そして無に帰っていったことがわかる。この歳になると友人が多く亡くなっている。
彼らを思うたびに、天の下、地の上に住まいさまよってきたことが合わせ鏡のように理解できる。
先日、小林旭の「さすらい」と、渡哲也「東京流れ者」をカラオケスナックで唄ってきたが、
「落ちこぼれ者」の哀愁の歌でしかない。 全ての人は、生まれ、住まいさすらい、落ちこぼれていく?