「厭世」とは、まず自己を厭うがゆえに世界を厭う心の習性をいう。
楽天」とは、幼児の頃から両親を初め周囲から愛され、それ故に自分を愛する心の習性をいう。
人生を振り返ると、悲しいこと、苦しいこと、不安、恐怖心など、多くの精神的苦痛があったが、
なぜノイローゼや自殺に追い込まれなかったかというと、それ以上に楽しいこと、面白いこと、
明るい展望があったからである。 いや、それを見守ってくれる家族・友人があったからである。
そのもとは幼児体験、そう両親の絶対的な愛情が基本。楽天性は、まずは親子関係の中でジックリと育てられる。
基本的に親は子どもに絶対的な愛情を降り注がなければならない。しかし家庭内にも色いろの事情がある。
幼児期に親父が事業に失敗してしまったり、両親の不仲もある。 最近では離婚確率が家庭内離婚を含めると過半数
その中で自分を楽天的性格にするためには、教養を自ら積むしかない。

 最近になって「楽天は意思」とつくづく思う。人間は誰でも心の底は楽天でないと生きていけない。
「自分だけは大丈夫!」と思っているからこそ、エネルギーが、生命力が、発露してくるのである。
いずれにしても、誰もが直ぐに死んでしまうのだから、生きている間は、面白可笑しく生きること。
ただし、将来の見通しだけはシッカリと立てた上だが。 だから楽天には長期的な生存確保が前提になる。
毎日、安心して日々を過ごせる生活力があり、時代の変化に堪えられる力を持ち、それ故に互いの信頼を
維持できることが基本になくてはならない。その前提がないと心が不安定になり、厭世家になるのである。
楽天家過ぎてホームレスになった人はいても、楽天的なホームレスは、ごく一部を除けばいない。

 このブログをみていると悲観論者と思われるかも知れないが、振り返ると楽観主義者である。
その場その場を何とか切り抜けてきたが、「最後は命までは失わないだろう」という開きなおりがあった。
問題に対して「正中心一点無」と、中心点に気持ちを集中するように勤めてはきたが・・・
それを心がけていると一時的にマイナスになっても、何時の間にかプラスに転換している。
「ベストを尽くして駄目なら仕方がないじゃないかい、皆の衆」の心である。 
再び書くが、幼児期の親の絶対的なシャワーのような愛情こそ、人間のエネルギーの溜池である。
その溜池が無い人は分からないだろうが、有る方は無い人を直ぐに見抜いてしまう。
 親を見ろ、特に母親を。 家庭を持ったら連れ合いを見ろ。 次は、子供を見ろ。 ほぼ見える!
愛情が満ちているかどうか、品性が備わっているかどうか、その部分だけを見れば良い。
 言えた(品)柄でもないが・・
最悪を想定して、その時の備えを常に整えていること。 それを受け入れる心の想定をしておくこと。
これが、「厭世的時勢に、楽天であること」の結論。「悲観の線路の上を楽観という電車で走ること」  
地道に生きていれば、何があっても、何とことはない? そうもいかないのが人生だから辛いところだが。

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