2007年02月05日(月)
2134, 時間についての一考察 −1
    b(^o^)dおっ W(^O^)Wはー♪

最近ますます哲学づいている。今日は「時間」について考えてみる。その中で「いま、ここ」−現在ーの意味が深い。
考えてみても解ったような解らないような難しい問題である。「いま、ここ」という永遠への控えの間?には
非常に深遠な光と陰を感じる。 感動した瞬間、感激した瞬間、そして心の奥底から感謝した瞬間、怒り心頭に達した瞬間、
人を殺してやりたい位に憎んだ瞬間、そのどれも自分を構成している骨組みである。その時々のことは、
ほぼリアルに記憶に残っている。その瞬間・瞬間は、過去・未来ではなく「その時点での今・現在」に経験したことである。
我々が経験することができるのは、この今・現在しかない。その時点の一秒前でも後でも絶対にありえないこと。
その「今・現在」を現に考えている間にボロボロと過去に過ぎ去っていく。
しかし未来はあるのかといえば、「それはあるだろう」という想像でしかない。
砂時計の落ちていく細い部分を「今・現在」という例えがあるが、それはあくまでも砂時計でしかない。
 時間に関しては、「哲学はこんなふうに」(スポンヴィル)の中の『第10章 時間』で次のように述べている。
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・・・抵抗も創造も行動も、現在においてしかー現在のほかには何もないのだからー
なされえず、現在の後にはまた別の現在が続くだけである。
ストア哲学者が言うように、いまに生きることは夢想でも理想でもユートピアでもない。
これこそが、生きるということのきわめて簡単であると同時に、はなはだ厄介な真理なのだ。
永遠はどうなるのか?アウグスティヌスが考えたように、永遠とは「永遠の今日」のことであるなら、
明日のために永遠を待つのは無意味になる。これも、アウグスティヌスの言葉だが、永遠とは「永遠の現在」
のことであるなら、それは現在そのものであるだろう。なにしろ実際、つねに現在であり、つねに顕在的であり、
常に活動していることこそが、時間の真理なのだから。
 スピノザは「エチカ」の中でこう述べていた。「我々は自分たちは永遠であると感じ、体験している」。これは、我々が
死なないという意味でも、我々が時間の中にいないという意味でもない。これが言わんとしていることは、死は我々から
何一つ奪い去るものではなく(死んだ我々から奪い取るのは、存在していない未来だけなのだから)、
時間も我々から何一つ奪い去るものではなく(現在がすべてなのだから)、最後に永遠を希望するのはばかげている
ー我々はすでにそこにいるのだからーということである。ウィゲンシュタインが彼なりの言い方でこう言っている。
「もし永遠ということで、終わりなき持続でなく無時間を考えるなら、
                 現在を生きるもの永遠の生を持っていることになるだろう」。
そうであるならば、我々は全員いつでも永遠の生をもっており、すでに救われているのだ。・・・
   ==
少し難しそうな話だが、常に現在しかないし、現在考えている過去も、未来も、それを現在考えているという意味で現在に含まれる。
永遠とは「永遠の現在」のことで、その永遠は常にその時点の現在の中にこそある、ということ。この辺りが時間を考える意味で
一番面白いところである。 いま・ここを、さらに次回に抜粋をしながら考えてみる。
                                         b(^o^)ノ バイ!
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