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この旅行記の中では、仏教の真髄を何気なく説いている部分がある。
究極のところで仏の教えを試される場面が何回も出てくる。 宗教は生きていく上で必要条件である。
* 白巌窟尊者との大問答
尊者「いろいろな困難をしてまで何でラサにいかれるのですか」
慧海「仏道の修行をして一切衆生を済度しようというため来たのです」と実際的な問いをはずして
形而上の仏教的な答えをした。すると
尊者「あなたは何の原因で済度するのですか」
慧海「何も私には原因はない。衆生がいろいろ苦しみを受けているからです」
尊者「それではおまえは世の中の衆生というものを見ているのか」と言って、非常に理想的な問いを
発したので、私も理想的なオウム返しをしてやった。
慧海「我に我なくして、どうしてこの衆生を見ましょうか」と答えた。
次に尊者はあの賊に会った時の私の気持ちを尋ねて、
尊者「盗人を憎いと思ったか・・・・、盗人が去った後で彼等を憎み、呪法でも唱えて仇を帰すようなをやったか」
慧海「私に取られるべき原因があってあの盗人に取られたのですから、彼等を憎む必要はありません。
私がこのような不幸な目に会う原因を持っていることこそ、むしろ憎むべきです。私は借金返しを出来たことを
喜んでいます。だから呪術をかける必要はありません。どうかあの男も私のものを取ったのを因縁として
この世で出来ないとしても、あの世で真の道に入って、立派な人間とも菩薩ともなるように祈ったのです」と言うと、
尊者「それはもっともだが、これから賊に会うかもしれないから、ラサに行くのは止めておいた方がよい』と、言ったので、
慧海「私はそんな曖昧なことはできません。目的のためにはどんな方法を執るべしという事には、同意しかねます。
大日経には方便すなち究境なりといいます。誠実なる方法を実行することで、目的そのものとして
一切万事誠実なる事のみを行う。その結果として目的が達せられるということになるのです。」
尊者「どうも妙じゃ、必死の恐れがある道を選ぶより、安全なネパールへ帰るがよい。お前が必ず死ぬことが見えている」
慧海「しかし私は死ぬことを知りません。生まれてくることも知りません。ただ誠実な方法を行うことを知っているだけです。」
と答えると、尊者は俯いて考えていたが、たちまち話を変えた。・・・・・・・
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出立の時に、十分すぎるほどのお金と食料を尊者は慧海に与える。
この問答で尊者と慧海の底知れない大きさを感じ取ることが出来る。
事上練磨で仏の教えが深まっていく一例である。
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