2003年01月14日(火)
646, 教育を考えてみた

昨日は成人式だった。少し硬い教育を考えてみよう。過疎の学校の生徒の成績は普通の学校の生徒よりかなり落ちるという。
学校の統合や廃校で父兄が反対運動をするが、これは生徒の側から見たらマイナス。
常識的に考えれば、一人当たりの先生の比率が圧倒的に多い過疎の方が成績が良くなってよいはずだ。
それが反対に悪くなるのはどういうことだろうか? いろいろな問題が含まれている。
あまり管理が行届いて、子供の遊びや工夫の目を摘んでしまう事や子供同士の動物的刺激が最小に済んでしまうからだ。
小学校高学年から中学にかけての虐めや、ライバルとの闘いが意外と人間性の基礎をつくっているのかもしれない。
多くの人間との接点の中より人間の基礎がつくられるのが真実ということだろう。
小学校5年までにその人の能力の基礎は確定してしまっている。そこのベースより抜け出せないともいう。
小学校や中学を見渡しても、大化けした同級生は全くいない。逆はいくらでもいるが。
これからの時代は、今までのような学業の成績だけでは判断されないから難しい。
自分で自分の特性を早く見つけて、自己育成を早い段階で積み上げなくてはならない。
昨日の成人式でノーベル賞をもらった小柴さんが「やりたいことを見極めて」と言っていた。
「自分のやりたいことを見極めることは、そう簡単なことでない。
食わず嫌いせず、いろいろな事を自分で試してください」と。もう遅いのか?最後のチャンスなのか?
「あなた何がしたいの?」とある若い人に聞いた。「何にもない!ただ流されるまま生きていければよい。
この時代何をしても上手くいくはずがない。時代が悪いのだ。」
開いた口が塞がらなかった!でもこれが若い人の半分以上を占めている感覚である。
大学を卒業しても就職口ない時代、自棄になるのは解らないでもないが。
そういえば地元の?? 問屋の??2代目が同じことを言っていたのを母から聞いた事を思い出した。
親父が「俺なら幾らでも創業のネタがあるが、ああなっては人生終わりだ」という内容。
「人生どんな時でも前向きに切り開いていく能力」が教育の基本だが。
今の日本の中途半端の挫折がこういう雰囲気をつくっている。最後は悲観的になったが、教育はすべての基本だ。

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