2006年12月26日(火)
2093, 哲学者が皇室の意味を考えると!  b(^o^)dおっW(^O^)Wはー♪
 「知ることよりも考えること 」池田晶子著−?  読書日記
        
現在の日本の皇室はあまりにも金をかけすぎであり仰々しい。
幕末に国家をつくるときの御旗として仰々しくする必要があったのだろうが、時の権力者が如何に「あの家の方々」
を利用して御旗の陰で何をしてきたか?外務省と同じように「無用の用」なのだろうが、あまりに金ピカ過ぎる。
京都御所に皇居を移されて、江戸城跡は公式の外国の来賓が来たときの迎賓館としての機能のみを残すべきである。
本来の城跡としての史跡公園にして、災害が起こった時の避難場所として整理すべきである。
    
まず皇室の質素化こそ日本再生モデルとして、国家システムの合理化の範を示すべき。
これをきちっとしておかない限り「神社のお賽銭=神への賄賂レベル」から日本の官僚と国民の意識は変わらない。
著者は言葉は選んであるが、「皇室問題」に対して本質をキッチリと論じているところはさすがである。   
島国は土着の王様という「中空」=ガス抜き、としての天皇制も必要だろうが、金のかけすぎということ!
その不自然さが「皇太子妃の重度のノイローゼとして逆の立場でも爆発している」ことからみても解ることだ。
早々、より象徴的な天皇制をうちだして「質素な親しまれる天皇」として再出発。
直接選挙の「大統領制」に切り替えて明確な権限と責任を与えなくてはならない。
     
ーまずは要点を抜粋してみる。
  ー楽しいお祭りー 
「知ることより考えること」より まあ、あの家の方々は大変である。あちらも大変だが、「こちらの側の」
盛り上がりも並大抵ではない。まさにそのことが、大変な理由である。そうでなければ、所詮は他人の家の騒動でしかない。
こちら側は、たまたまこの国に生まれたその理由だけで、興味をもつだけ。我われにとって、あの方がたは何なのか、
このことを考えてみたい。 古来、天皇家の仕事は、生産に関する祭祀をおこなうことであった。
四季折々、神に代わって暦を司り、農事の開始を告げる。したがって、人々はその人の語ることに耳を傾け聞き耳を立てていた。
その振る舞いに注目するのは当然のことである。 天皇家にたいする我われの考え方の原型はそこにある。
ところで、神に代わって神の言葉を告げる人とは、神主である。あの家の方々は、古い古い神主の家である。
神主の仕事を長きに亘り世襲しつつ現代までこられたわけである。そして「世襲」に対して、我われは深い関心をよせる。
ところが、今回このお世継ぎが誰になるかの問題が起こっている。血統もしくは男系ということが問題らしい。

しかし、古いところ、天皇家の仕事の始まりということまで遡ると、それはあまり問題ではないのではなかろか。
天皇は、天皇霊という霊魂を受け継ぐことで天皇になる。受け継ぐのは霊魂であって、必ずしも血統ではないらしい。
名を受け継ぐことによって霊魂を継ぐ。それなら歌舞伎役者の「襲名」と同じである。
継ぐに相応しいなら誰でも良いのである。「世継ぎ」は「代継ぎ」、代が変わるごとに新しい時代の始まりを継げる。
それが神主としての天皇ということで、問題はないのではなかろうか。
紀子様の御懐妊は、なんとプリミティブな。あの方々は、生産すなわち生殖の祭紀を司るという、
天皇本来のお仕事に励んでおられたのである。男女の行為をさして「お祭り」と呼ぶらしいが、
まさにそれこそがあの方々の「お仕事」だったのだ。なるほど、お目出度いという感情の源である。
皇室典範などしょせん法律、近代になって整備されたものに過ぎない。
天皇家の歴史は遥かに古く、我われの心の癖も、それと同じくらい古いもの。
だからそんなもの気にすることはない。法律など、その時に適当に変えればよい。
我われがあの家に関心を寄せるのは、そこに変わらないものをみるからだ。
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 まあ、これ以上、私のコメントは要らないでしょう!
              (*^○^*)ノ バイ!
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