2007年12月19日(水)
2450, 手帳は予定、日記は過去を書くもの!
                          (σ・з・)σオハYO!!
そろそろ来年度の日記と手帳の準備に入る時期である。 最近では手帳と日記が兼用になっているものも目立つ。
書いたこと自体忘れていた学生時代の日記を倉庫で見つけ読み返し、その当時の記憶が鮮明に思い出されて、
気持ちを書き残す重要性を実感した。当時、何故書き残していたのか?当時の日記からすると、
自己コントロールとして書いていたようだ。それが結果として行動記録になったのである。
現在はブログと随想日記に日々行動と心情を書いているが、見られることが前提である。
学生時代の日記に39年ぶりに出会って懐かしく感じるのは、本心を書いていたからだ。
公開していたら、赤裸々な気持ちをそのまま書けなかっただろう。
昨日、毎日新聞の読書欄に東大教授が日記と手帳について解りやすく書いていた。 ズバリである。
下手に心情など書こうとするから書けなくなる。 身近なことを簡潔にメモを刷ればよい、それも自分の言葉で!
ーまずは、その内容から

ーーー
日記をつけない人はいう。いったい何を書いたらいいのかと。何も書く必要はないのだ。
何かを書こうと思う時点で拘束され、負担に。やがて挫折。日記は提出の必要なし。
文章表現に凝ることはない。自由きままに、その人の「いちばん楽なごとば」でつければいい。
感情表現を加えると重くなる。寝る前に一日を振り返り、「晴。午後から講義。夜、必殺仕事人、見る」。
ぼくはこんな感じ。田山花袋は、いう。事実を書くだけでいいと。
<こう思ったとか、ああ思ったとかいうことよりも、こういうことをした、
ああいうことをしたという行為を書いておく方が「日記」という本来の性質にかなっている>。
高見順はこれをうけて「若いうちはなかなかそれができない。そのきびしさにたえられない」(高見順『敗戦日記』中公文庫)。

日記をつける「ひととき」は、自分が自分の呼吸に返るとき。ちょこっとつける。
ほんの一、二分だが、自分を感じとる瞬間は、日記でもないと、なかなか得られない。
日記をつける人はそのときのよろこびを知る人、なのだと思う。日記は内容ではない。
そこにその人がいればいい。というようなことも、日記の習慣をもたない人にはわかわ腹づらいかもしれない。
事実だけをつけることには意味もある。会合などは時間をこまかく。 何時までか、そのあとどうしたか。
次の年に役立つ。王朝時代から日記の古典は、行事の記録でもある。でも役立つことを最初から考えると、
つづかない。また、こまかい字ではじめると、翌日には乱れて「やめたあ」。
最初は少し乱雑に。途中から、締める。一月一日始動の日記も危険。
十二月二十日ころから助走を。ありふれたことばがベスト。こんなところで詩人や小説家になることもない。
すごかった、よかった、楽しかったでいい。自分の息に合えぱ疲れない。決まった時刻につけると健康にもよい。

いまはやりのプログ、ネットでの日記公開は、他人を意識したもの。 それは他人においかけられること。
人に見せたら日記ではない。別のものだ。日記公開は、不安からくる自己表現に過剰な期待をかける人たちの、
あやしげな熱気から生まれる。 ・・書きたいことなどなくていい。個人のひとときがあるほうが、よほどだいじ。
ネット時代はもう古い、と考えたい。 てもとでできることがいっぱいあるからだ。
一日の日記がただひとことでも、人は輝く。世界は新しくなる。

手帳を兼ねる日記も登場したが、日記は別にもちたい。日記は「過去」の事実を記す。
手帳は「予定」。二つはまじわらない。 人間の活動や意識はひとまとめにせず切り離しておきたい。
日記はその人の工夫で、生きたものに。新年の日記帳を吟味するときのよろこびもそこにある。
来年こそつけようと思う人もいることだろう。「いつかできることはすべて、今日でもできる」(モンテーニュ)。
『懐中日記』のなかのことばだ。
  荒川洋治、東大教授(日本政治思想史)日記の「新年」 (._.〃)ゝ…バイバイ

ーーーーーーーー
私のように読書の要約を残すため公開するコーナーや、日々の社会の感想を何気なく
書き続けることで、より周囲や社会を深く広くみることを動機にしている輩にとって、
誰にも見せない日記も必要になる。それでも、いつか誰かに見られる前提で書くしかない。
そうだとしても独り自分に対峙する日記は、必ず習慣として持つべきである。

・・・・・・・・