2006年12月19日(火)
2086, 哲学者が霊能者を一刀両断すると!−2
           オッ(*^○^*)ハ〜ヨウサン!   
  「知ることよりも考えること 」−?  読書日記
             
「生きていること自体が、神秘体験である。生前、死後の世界と何を取り繕っているのか、馬鹿も休み休み言いなさい。
 それなら、現に生きている神秘を説明してみたら!」と問われたら江原某はどう答えるのだろうか?
「見えるものは見える」と言うしかないか。それとも「それじゃ心が見えますか?」と言うか?
 ばっさり切り捨てている部分が更に面白い。             
   
   ー生きていること自体が神秘体験だろう!−
  ーー
 前世を語る者たちの、オーラとカルマの「物語」なのだ。物語とは、文字通り物語なのだから、本当でも嘘でもない。
 知り得ないことについて、本当とも嘘とも言えないのは決まっている。
 あれらの物語を求める人はおそらく、あれらの物語を「本当のことだ」と思っている。
 それを信じることによって、人生の意味と理由が与えられたように思うのである。
 しかし、そのような仕方で与えられるような人生の意味と理由は、それ自体が物語である。
 本当か嘘かさだけではない。 そんなもので本当に救われるのだろうか。
 人が何らかの神秘的なもの、「神秘体験」に惹かれるのも、恐らく同じ理由である。
 オーラやカルマや臨死体験を神秘というなら、自分が存在しているということは、どうして神秘ではないのか。
 ほとんどの人は、自分が存在していることを神秘だとは感じていない。そんなことは当たり前だと思っている。
 だから、生まれる前とか死んだ後とか、どこか別のところに神秘を探しに行くのだ。

 神秘を見つけて、神秘だと騒ぐ。そんなことができるのも、自分が存在しているからこそという神秘には、
 どういうわけか騒がないのである。自分が存在していることは、科学的には説明できず、理性によっても理解できない。
 なんでこんなものが存在し、これが毎日生きているなんて、とんでもないことである。
 驚くべきことである。私には毎日が神秘体験である。
 じっさい、「存在する」ということは、それ自体で生死を超越しているのだから、「生前」「死後」は眼中になくなる。
 逆に、存在の神秘の前には、そういうものは全て物語だということが、ハッキリ見えてくる。
 「毎日を生きている」と、とりあえず言ったが、その意味で毎日が死に瀕している。
 毎日が臨死体験である。生きているという神秘を知れば、死後の神秘には用は無い。

 なるほどこの世には、霊能者、霊媒、魔法使い、「常人」が所有しない能力を所有する人は存在する。
 普通の人が見えないものが見える。できないことができる。物語が語れる。単にそれだけのことである。
 だからたとえば、非常な有能な霊能者が現れ、宇宙開闢以来の全歴史が見えると言っても、
 私はその人が何を理解しているとも思わない。 人生が存在する。存在が存在するということの神秘は、
 いかなる仕方によっても理解できないということを、私は理解しているからである
  ーーーーー
  ところで、ビッグバンが爆発して、この宇宙ができたというが、元のラグビー大?の素粒子は、無から生じるわけがない。
  それがどうして発生したのか?この根本が解るわけがないのに「生まれ変わり」など論じても何の意味もないはず。
  そして「私が存在する不思議」もしかり!「生まれ変わりの存在」を仮説することにより、天使の役割をもたらすのかもしれない。
  エホバの商人とかいうカルト的宗教団体の「物見の塔」の視線に似ている?か。
  生まれ変わると確信して死んでいけるなら、これほど幸せなことはない。           
              ‖┓  ((  
             (_)   匚P  バイバイ!
              ━┻     
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