2006年12月16日(土)
2083, 哲学者がローマ法王の奇跡を切り捨てると!    
                 才八∋ウ_〆(∀`●)
   知ることよりも考えること−? ー読書日記
              
週刊新潮の連載コラムを集めたため、身辺の話題が解いやすい内容である。
先年亡くなったローマ法王ヨハネ・パウロ?を『聖人』として認定するかどうかの
審査会議などの低?次元の話題や、最近TVなどに出てくる胡散臭い江原啓之とかいう
男の超常現象?について、哲学者の視点から言及している。
どれをみても理路整然と、その矛盾をストレートに切り捨てているところが痛快である。。

「あたりまえのことばかり」「人生のほんとう」に続いてこの本を読んであまりに面白いので、
さらにアマゾンで中古本だが「14歳からの哲学」と41歳からの哲学」を買って、読んだ。第四章ー54項目の構成だが、
ランダムに面白そうなところから選んで要点の場所を抜粋しながら考えてみよう。
まずは次元の低い「教皇の聖人の認定か否か」の問題である。アホくさいが、まあ著者・池田の真骨頂が現れていて面白い!
 秋刀魚の骨も信心から」と思って読めば、これもよい。
 
ー奇跡大好きー

ローマ法王の選出選挙、コンクラーベの政治性も凄かったが、これも凄い話である。
何でも、この[聖人]とは、カトリック教会の最高位で、死後これに認定されるためには、厳しい審査がある。
[聖人]よりワンランク下の「福者」として、先般マザーテレサが承認されたが、法王といえ、これらの位には
なかなか昇格できないという。神の前に平等のはずの宗教界でも、階級化が[死んだ跡]にもついて回るのである。
生きているうちに政治的な動きをしていたのだろうか?が、凄いと思ったことは、その資格認定とされるものだ。
必須とされているのが、「聖人」の場合でも二回以上、「福者」でも一回の奇跡をおこしていなければならない。
[奇跡]の定義が、[科学的に説明不能」であること、それを審査するためにバチカンにも専門の科学者がいる。
そこで、説明不可能といわれたものが、[本物]の奇跡であるか否か、高僧達が判断を下すそうだ。

私はある種感嘆をおぼえた。科学的に不可能であるということが「すなわち」価値である世界があるとは、
盲点を突かれる思いであった。彼らが[奇跡]を価値とするのは、イエス・キリストが病人を癒したとか、
死人を生き返らせたとか、聖書に記載されているからだろう。
それで、そういう[奇跡的]力を有する人が宗教的に優れた人ということになるのだろう。
しかし、当のキリストは、この世の命を命と思うな、現世の価値に執着するなと、繰り返して説いている。
永遠なるものは、その価値は、あなたたち自身の内にあると。
宗教の本質とは、現世的価値に対して永遠的価値を提示することにあるのではなかろうか。

癒しや復活など現世的としての奇跡的出来事は、宗教の本来無関係のはずである。
ゆえに、宗教が奇跡それ自体を価値とするなら、すでに話は転倒している。
宗教など、早い話が、永遠のふりをしたしょせんは現世利益じゃないかと言われても、
仕方がないのである。第一、科学により説明不可能ということが、何で奇跡ということなのか。
逆に科学により説明可能なら、奇跡は奇跡でなくなるというのか。ここに根本的な勘違いがある。
科学というのは、そのとおり、説明のための一方法である。何を説明するかといえば、言うまでもなく、自然である。
自然の奇跡である。花が咲くこと、陽が昇ること、この宇宙がこのように存在することの奇跡である。
ゆえに、科学がいかに説明しても、このこと自体の奇跡が、軌跡でなくなるわけではないのである。
逆に、このこと自体の奇跡はいかにしても説明不可能だからこそ、人は[神]という発想をもったはずなのである。

したがって、科学により説明不可能なことのみを奇跡とするような宗教は、科学の優位に立っているいるつもりで、
じつは科学に従属しているのである。神の奇跡なんぞ、本当に感じているわけではないのである。
そういう人々が、現世利益、現世的ヒエラルキーの追求にかまけることになる。
本当に宗教的な人、本当に神の奇跡を感じている人は何もかも奇跡的なことのはずだが。
だから、とりたてて何かだけ奇跡的だ、価値なのだと、騒ぎ立てるはずがない。
  ーーー
以上であるが、[ゴッドファーザー]に教皇を暗殺する場面が出てくるが、教皇といえ、あの程度の男でしかない?
という裏面を辛辣に表現していた。「奇跡」の云々を信者が求めているのなら、それを演じて見せるのも必要である。
                         *** Ψ( `▽´ )Ψケケケケ♪
               (~Q~;) ネム〜〜
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