2007年12月09日(日)
2440, 哲学の効用とは?

        ○( ̄ ̄ ̄ ̄o ̄ ̄ ̄ ̄)○ おっ W( ̄ ̄ ̄ ̄∇ ̄ ̄ ̄ ̄)W は〜♪
最近、コペルニクス的に世界の見方が変わってきたのは、情報化による情報の質量のレベルアップと、
還暦を過ぎた為と思っていた。 しかし哲学書をこの数年間読んできたことも大きく影響していた!
中島義道の「哲学の教科書」を読んで気づかされた。
世の中の価値観や、常識を自分の頭で根底から疑ってみる習慣が少しずつ付いた結果である。
考えるということは、驚き、感動し、根こそぎ新鮮な感覚で周囲を見直すこと。
元々、その傾向は強いつもりだったが、それがマスマス強くなった結果である。
 
 まずは、その部分を抜粋してみる。
 −−−
 (P・228)     −中島義道「哲学の教科書」
メルロ"ポンティは「哲学とは世界を見なおすことである」と言っております。
この言葉は、先に挙げた(第2章第3節)プルーストの言葉
「芸術家がわれわれに与える喜びは、われわれがもっている宇宙の上にもう一つの宇宙を教えてくれるところに
あるのではないだろうか」に比べると、やはり哲学の特性を表している。ここに「見なおすこと」と言って、
「思索しなおす」とか「解釈しなおす」とか言っているのでないことがミソです。
次章でゆっくり話しますが、私が法学をやめて哲学をしようと思いたち、大森荘蔵先生のお宅に伺ったとき
「哲学にとって一番重要なことは何ですか」と新聞記者のようなことを聞いたことがあります。
その答えは、やはり「よく見ることです」というものでした。
前章で考察したような哲学の問い「時間」「因果律」「私」「他人」「意志」「存在」などは、われわれが
ちょっと注意して「よく見れば」足元にころがっているものです。私は「哲学の小道」という類のものを信じません。
それは、じっと腕を組んで「善とは?」とか「自由とは〜」とか瞑想に耽リながら散歩するのによい静かな小道なのでしょう。
哲学とは何よりもまず「よーく見る」ことですから、必ずしも、こうした浮世離れした環境は必要としない。
とくに、「今」とか「よい」とか「ある」とか「私」とか「意志」といった
卑近な言葉のうちに謎のすべてが詰まっておりますので、ホームドラマやスポーツ解説や、天気予報からも
いろいろヒントを受けることができます。さきほど申しましたように、哲学は何の役にもたたないのですが、
こうした言葉を使うとき前提されている底を打ち破ってみせることは、間接的にでも何らかの役にだつのかもしれません。
つまり、哲学はすべてのことを徹底的に疑うところから出発します。 普通の人々が前提している善悪の骨格を揺さぶります。
したがって、例えば、戦争が悪であるのは第一に戦争は人を殺すからですが、哲学者は「聖戦はあるのか」とか
「原爆投下は正しかったか」といったレベルの議論にではなく「なぜ人を殺すことが悪なのか」といった
レベルの議論に照準を合わせます。もちろん哲学者とて、その社会に適応した人間ですから「人を殺してよい」と思っている
わけではなく、殺人犯をえらいとは思いませんが、ありとあらゆる論調が殺人を当然のごとく
非難する現状を見ますと、そこに思考の停止を認めて揺さぶりをかけたくなるのです。
 ーー
 
世界の見方が変わってくると、過去の自分が恥ずかしくなる。 「おい、お前、何を考えていたんだ!」
「あの時の、あの人は、こういう考えではなかった」とか、違う視点で己を振り返ることになり、
ある意味では辛いことになる。 それだけ自分が拡がったと言い換えることもできる。
情報の溢れかえる時代に、逆に独りジックリと考える時間こそ求められる。
                                    w(′┏▽┓`●)w バイバイ!
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