2003年12月05日(金)
975, 「それぞれの輝ける日々」

 スペインの「パンプローナ牛追い祭り」の再放送を見ていたら、「それぞれの輝ける日々」という言葉が、
ナレーションで流れていた。 この言葉には「それぞれの人の、輝ける日々」とか、「それぞれの、人の輝ける日々」
と分けることができる。 その反面「それぞれのどん底の日々」もある。
この話になってくると、いろいろあるので内容は「・・輝ける日々」に絞る。
人生には「それぞれの人にとっての輝ける日々」がある。
現在書いている「学生時代の日記」は、私にとっての「輝ける日々」の、ある時期の、記録である。
「輝き」という言葉の背後には暗黒がある。暗黒があるから、輝くのだ。
偶然の賜物として倉庫の奥から出てきた「22歳の日記」を読んでみると、私にとっての「輝ける日々」である。
誰もが記憶の彼方に持っている青春の日々である。 そして現在進行中の人もいる。
青春とは、決して素晴らしいとはいえない。むしろ見っともなくボロボロの状態である。
しかし、それが輝きになっている。「輝き」は、光っていることである。
人間が光っていることは、燃え狂っている状態である。 そして背後には暗黒が大きく口開いている。
そこで思い出したのが、「 一期は夢 ただ狂え 」である。
 
  世の中はチロルにすぐる チロリチロリ
 何ともなやなう 何ともなやなう  浮世は風波の一葉よ
 何ともなやなう 何ともなやなう  人生70古代稀なリ
 ただ何事もかごとも  夢幻や水の泡
 笹の葉に置く露の間に あじきなの世や
  夢幻や南無三宝
 燻む人は見られぬ 夢の夢の夢の世を 現がおして
 何しょうぞ くずんで 一期は夢よ ただ狂へ     (閑吟抄)
 
470〜480年位前、富士山の近くに庵を開いていた名も知らぬ男が古今集をまねてつくった歌の一つである。
‘人生など一瞬でしかない。 なら狂ったようにしたいことをして生きたいものだ’という内容である。
「一度しかない人生だからこそ、ひかり輝いて生きるべきである」という人生観。
人生を顧みたときに「光輝いていた時」は、何かに狂っていた時である。
人は、それをパラノイヤー偏執狂という。

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