2006年11月19日(日)
2056, あたりまえなことばかり −10
      (。^0^。)ノ オッ(*^○^*) ハ〜 ヨウ

   内語は、声を出すと独り言になるが、独り旅で内語というカタチでブツブツ言っている自分に気づくことがある。
   毎朝のウォーキングも内語が活発化している。内語といえば、この随想日記の同月同日の数年分を読み直しているとき、
   そうか、そうか、と読みながら独り発語しているのは内語の究極と思える。まあ、このHPも内語そのものと言えよう。
   そう、今年の3月から始めたモーニング・ページ(起きざまに白紙のノートに思いつくまま書き出す)も、
   自己対話の形式の内語である。この良さは、頭で考えていることは、ほぼ些細な事と鳥瞰できることだ。
   まあ、砂金がたまに見つかるのが・・・ この自己対話で質問者と回答者の対立が深まると、分裂症状になるが。
   近くの居酒屋の親父、厨房で頭に浮かんだまま声に出している。 私のことを一度「あいつ、俺には合わないんだよな〜」と、
   言っていたか・・ ブログなど、内語だった地声?を、そのまま公開することである。内語は考えるほど面白い形式だが・・

ー孤独とは苦しいものなのか −?
*「内語」と「孤独」について

「思う」とはどういうことだろうか。 何かを思うとき、思っているのは自分だが、思われているのは自分ではない。
これは、よくよく不思議なことでなかろうか。「思う」というこれだけの出来事で、自他の区別はまったく不明瞭なのである。
あるいは逆に、「思う」ことによって、自他がそこで出合うのである。
孤独なもの思いにおいてこそ、人は世界へと開かれることができるという逆説、孤独な思索者の内なる饗宴である。

   「内語」という現象にそれは極まるだろう。自分が自分に語りかけると、普通にわれわれは思っている。
    しかし、自分が自分に語りかけるとは、一体どういうことであろうか。
    もしも自分が自分として完結しているば、そこに語りかけるという行為は発生しないはずである。語りかけるとは、
    問い尋ねる、確認する、疑念を発する、同意を求める等、本来的に他者へと向けられる行為である。

しかし、語りかけているそこには、目に見える他者など、存在していない。
すると、そこに語りかけているのは誰だろうか。なるほど「自分に」だと言うしかない。
だからこそ、他者として、語りかけ語りかけられている自分とは、自分にとって自分なのだろうか、
他者なのだろうかという問いが、いよいよ悩ましいものとして立ち上がることになる。
自分である、他者であるということは、自分であるという正にそのことにおいて、
いかにしても自明のことではあり得ないのだが、この場面において人は、目に見えるもののみ信じすぎる。

    他者とは目に見えるその個人であり、自分もまた目に見えるこの個人であると思い込んでいるのである。
    そして、個人と個人はしょせん個人である。ここで個人は孤独であると嘆くことにもなるが、じつは人は
    孤独であることなどできはしないのだ。厳密をきするほど、自他の境は溶解し、何が自分であり、
    何が他者であるとは言えなくなるのである。この奇妙で当たり前の事実に気づくのに、内省する、
    自己観察するという習慣以外ないだろう。個人主義は科学的世界観なしにはあり得なかった。
    しかし、それとてこの数百年のことである。それ以前は、われわれにとって自分はそれほど自明のことでなかった。
    自分であるということは、そのことだけで、何か神々や霊魂めいたものと重なっていたことを知っていたからである。
    
 われわれ日常とは、心の日常である。あらためて思うと、何と当たり前のことである。
 そして、心は「人間」ではない。愛着や憎悪や嫉妬、それ自体が「人間である」とは
 無意味であろう。「心のはたらき」は、人間ではない。それは「何」の働きなのだろうか。
 
 目に見える「人間」を認めないとき、逆に関係性そのものとしてとしかあり得ない世界の
 ありようが見えてくる。そのことによって、各人の個性が個性でなくなるわけではない。
 個性すなわち、性格の現れとか感情の訪れなどは、そもそもが「個人」の出来事ではない。
 いや、個人などというものは、この世界のどこにもない。
  まずは、そう思ってみてみたらどうか、世界の相貌は劇的に変わるはずである。
 そうすると、関係性としてしかあり得ないそのような世界で、孤独はどのようにして可能だろうか。
 
     言葉は個人の発明ではなく、個人の所有でもない。言葉は個人のものではない。
     しかし、人は多く言葉は個人のものであり、言葉を話すのが自分であると思っている。
     しかし、もしも言葉を話すのが自分であるなら、なぜ他者と話す言葉との間に、
     「会話」が成立するのだろうか。あの人は話が合わないというためには、あらかじめ話の意味が
     理解されていなければならない。理解されている言葉の意味は、自他の区別より先に存在するのである。
     ある言葉を選択し、そのように使用する、そこに各人の個性が現れるのであって、
     その逆ではない。「人間の側」こそが、言葉の個性のために使われる「口」なのだ。
 
 論理に孤独の影はない。それは、すべての人に理解され、また理解されるべきものとして、思考の光源に輝くものだ。
 論理から離れ、遠ざかるにつれて、言葉の影は濃く長くなる。それは各人の心の陰影として、さまざまな角度から
 理解されることを拒まないものだ。  あるいは、そもそも理解されることを拒むものだ。
 理解している、そう言われれば、いや理解などされたくない、そう感じる部分はあるのはどういうわけか。
 他人には理解できない秘めたる部分が自分にはあるのだ、そう思うことによって心のどこかで悦ぶのは、
 心は日の光に広く暴かれることを必ずしも望まない、心はじつは自分の影を好むからである。
 心は、その孤独が自分自身にとっての一種の滋養であることを知っている。
 心は孤独を味わい食べながら、その陰影をさらに深くする。
 ヒダのひとつひとつには、そのように味わわれた世界がそのつど織り込まれてゆく。
 
     友情が、魂にとって必要なのは、お互いに相手を信頼しているからである。
     信頼するとは、相手の孤独を尊重することに他ならない。 孤独は尊重されるべき価値だということを、
     成熟した魂は知っているのだ。そうでなくては、言外の含みへと互いに想像を巡らす、そのことで信頼を
     深める友情が、どうして可能になるのだろうか。深く孤独であるほどに、さらに関係しあえるのだから、魂は。
     魂は、自分であるほど他者になれるのだ。
 
 じっさい、われわれは誰も、その見た目やその言葉の背後に、それよりはるかに広大で複雑な領域を所有している。
 この当たり前の事実を、他人にも自分にも認めるとき、孤独であるということは、それ自体で非常に豊かであると知るはず。
 ある意味で、魂は、想像力そのものとして世界に関わり、世界そのものの宇宙の内実と化すことのできる魔法である。
 魂の孤独こそが、この喧騒の地上における、唯一の楽土としてあり得るものだが。
                                   (*^○^*)ノ ホンジャ!また

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