2006年11月18日(土)
2055, あたりまえなことばかり −9
                  読書日記
            (~Q~;) おはよう〜〜            
     自分とは何、これは考えても考えても尽きぬ問である。
     孤独という実感の先にある「宇宙の真っ只中に浮いている意識」が真我であるのか?
     以前も書いたが、「禅」の字は「単を示す」と、新井石龍禅師が語っていた。
     「宇宙に誰もいない、ただ一つの生命」これを実感するのは死期を悟った時。
     これが苦しいのか、苦しくないのか経験したことが無いので今のところ解らない。
     恐らく、あのバンジージャンプの板の上に立った実感が近いのだろうが・・
     しかし、あの落ちていく瞬間の覚醒の意識が最後の見納めとして周囲を見渡す時の
     それなのであろうか。 私の場合の「私」は、このHPそのものである。
     このHPの先にいる得体の知らない「これ」である。デカルトのいう「考えている、『!』『?』」である。
     たしかコギトと表現していたが・・考えている、思っている、思い出している、想像している、これであるー> 
  ( ̄ω ̄;)!!エッ `s(・'・;)エ-トォ? .. (^┰^;)ゞオレ馬鹿 ?(゜_。)?(。_゜)? (>△<‖)ワカラネ〜
            (−◇ー;)!! ソウカ(・_・ゞ−☆ (/--)/ ドウデモ

ー孤独とは苦しいものなのか −?

 *自分とは何であろうか

たとえば、自分とは自我でなく、この肉体でもないとしたら、同じ理由によって、他者とは誰のことであろうか。
他者もまた、その自我でもその肉体でもないとしたら、孤独の癒しとして求められるような他者とは、自明なものだろうか。
孤独であることは、苦しいことと感じられるほど確かなものであり得るのだろうか。

    自分とは「何であるか」、他人や社会によって知ることができないと知ったとき、人は自我の向こうに自己をもとめて、
    船出することになる。実際に、対社会的形式もしくは機能としての自我など、それ以上のものでも、
    それ以下のものでもない。「私は誰の某です」そう言って挨拶する、そのようなもの。
    しかし、自分とはその姓名以上のものである、そう感じる時、人はそれとは知らず、魂としての自己、
    その内実に触れているのだ。このとき、これを観察し、探索するという「孤独な」作業、これをきらって、
    安直に他者をもとめに出向かわないことだろう。

魂としての自己、不可解であるという意味において豊かな内実は、それを知ろうという
態度にしか開かれないものである。その探索を「船出」と言いたくなるほど、なるほど魂としての自己は海に似ている。 
広い、深い、底が知れない。自我による「自分探し」の空虚さを、玉ねぎの皮むきにたとえる言い方があるが、それとは対照的に、
出合うもの全てが自己であると言いたくなるほど、また、じじつ言いえてしまうことの面白さがそこにはある。
孤独であるということは、隠棲して自己を見るということは、本来きわめて上等な楽しみ、一種の甘味な悦びであるはずだ。
    −−
  *性格とはそれ自体何であろうか?

    自分で好ましくない、そうありたくないと感じるにもかかわらず、そのようでしかあり得ないという
    当の事実によって、じつは性格とは、それ自体で自律した存在、自分からは独立した他者ではなかろうか?
    自分の性格とは、自分にとっての他者なのではなかろうか。
    あるいは、それぞれの性格が、それぞれの魂であるということも可能だろう。
    自己は複数の魂から成ると見る視点は、自分の性格がこれこれである、
    自分はこれこれの者であると自分で決めつけることから、自分を自由にしてくれるはずだ。
  −−
 *「好き嫌い」とは何であろうか

誰かや何かに対する「好き嫌い」、これもこれ自体で不思議である。
「なぜ」好きなのか、「なぜ」嫌いなのか、理屈による説明は、常にどこかしら後講釈の感じがする。
好き嫌いの感情もまた、自分から独立した他者ではあるまいか。にもかかわらず、好き嫌いの感情ほど自分に親密で、
自分を偽ることができないものはない。すると、この感情とは、いったい自分なのだろうか、自分でないのだろうか。
感情とはそもそも自分にとってなんだろうか。          
  ーー  
勘定!エンジン、ガソリン? ホンジャ(;^_^A また!
                ーつづく          
・・・・・・・・