2003年11月14日(金)
954, 「意味」の意味を考える

 言葉や言語を考える時、重要な事として、すぐに「意味」が出てくる。
「人生の意味」とか、「意味がないよ」とか、「このことにどういう意味があるか」とか、言葉と意味は一体である。
 考えるとは、言葉の羅列の繰り返しをしているといってよいが、それは羅列によって意味を幾とおりも置き返している。
 といって「意味」の意味を考えると何が何だか解らなくなってしまう。「意味」の意味を考えるとは、半分ジョークみたいな話だ。
 言語学者西江雅之氏の本に、「意味は『価値』である」に注目をした。
「意味がない!」などと1人で解ったような気になるのは、「自分の価値観とは違う」とっていることでしかないのだ。
「人生の意味」も「人生の価値観を何処においておくか」の問題でしかないことになる。
 言語学者西江雅之の「『言葉』の課外授業」という本の中(p78)に「意味」の意味を簡潔にまとめてあった。

・一つ目は「意味」とは「価値」である。世界のほとんどの言語では「意味」というのは、「価値」のことを言っている。
「あの人の話は意味深い」とか「あの人の話は意味がない」とか、「面白い」とか
「つまらない」とかは、受けての「価値判断」のあり方を「意味」と呼んでいるのだ。
・二つ目は、「意味」というのは、出された例の、別の表現への「置き換え」なんです。
 たとえば「『椅子』とは何か」と言ったら「それは『人が座る道具』である」と。
 この置き換えが、ある種の「意味」になる。「置き換え」の二番目は、別の言葉に置き換えると言うことです。
「‘desk’の意味は何だ」というと、辞書に「机」と書いてある。
「あ、意味がわかった。この単語の意味は‘机’なんだ」となるような、別の言葉への置き換えである。
・三つ目は、「世界の創り変え」である。 現状から出発して新たに見出そうとする意味である。
 現状を否定して、いっそう本物を求めようという場合の、「求めるもの」と言ってよい。
 日常生活で「意味を問う」などというのは、現状を疑い、現状を変革させることなんです。
   意味には「分析的」なものと、「連想的」なものがある。「分析的」は欧州風科学で考えるもので、
  「連想的」は「ひらめき」や「インスピュレーション」などの科学で扱わない部分である。

ー以上が抜粋であるー
・ 一つ目の ー「意味」とは「価値」であるーについて考えてみよう。
 ある出来事を、結果として意味付けをしたがるが、それは「自分の価値観に対して無意識的に押し込もうという働き」
 と見ると理解ができる。 そうすると、意味を考えることは価値を考えることなる。 そういう知識のない人が、
 必死になって「意味づけの演説?」をしているのを聞いたことがある。
 その時「この男、馬鹿じゃないか?」と聞いていて思ったことがある。
「結局は、自分の価値観、意味づけを言っているだけじゃないか」と聞いていた
 ことを思い出して納得をした。まあ、同じことを自分もしているのだろうが。
・ 二つ目の「置き換え」は、少し解りづらい。意味というのは、同じことを置き換えているに過ぎないというと解りやすい。
「deskは机だ」という言葉の置き換えがよい例だ。もっとわかりやすい場面が夏休みにNHKの「子供ラジオ電話質問コーナー」
 がある。こどもの単純な質問に窮した回答者が苦し紛れに、ただ言葉の置き換えで説明をしてしまうことがある。
「死ぬってどういうことですか?」という哲学者でも答えられない問題を一言で片付けなくてはならない時に、
 言葉の置き換えで誤魔化すケースだ。
・ 三つ目は「世界の創りかえ」である。
 良い意味でも悪い意味でも、宗教家が使う手法である。 経営も政治も、考えてみれば「世界の創りかえ」である。
 その時、背後には大きな意味がなくてはならない。 その点では、「意味」や「価値」は最重要事項である。
「ところで、このホームページって何の意味があるの?」と問われたらと、考えてみた。
 何回も書いているが、「公開の日記と魂の記録」といってよいが。

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