2006年11月09日(木)
2046, 教養について −2
     (+>∀<+)ノ おぁはは〜ようさん!

数ヶ月前に、同じテーマで書いたが、再び書く。
<前回の要旨>は、
・「教養」の概念は、英語では「文化」を意味するculture、ドイツ語では「形成」を意味する
  Bildungに対応していていて、豊かな人間性の形成のための素養としての知識・経験をいう。
・「いかに生きるか」という問いが教養の始まりであった。
  古代ギリシア人にとって教育の目的とは、一人一人が教養を身につけることであり、
   市民としてよりよく生きるための知恵の獲得を意味した。
・「世間」とは、建前の無教養に重なり、世間には、当然と思われる価値観が厳然としてある。
  しかし、それは地域差別のコントローラーとして機能しており、そのことを客観視できる素材が教養である。
・なぜ人生の後半になってから、そのことに気づくかというと、
 「何が大切で、何が大切でないかが、経験を通して見えてくるからある。
  
 * 私にとっての教養とは、
「感動すること、感激すること、感謝すること、 その響きを可能な限り大きくするための知識・経験を蓄積すること」
「知ること、愛すること、創造すること、それらを楽しむこと、 このために必要な知識・経験」である。
 『親や、育った環境から与えられた先入観から自由になるための知識・経験』 というのが、結論である。
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先日の朝日新聞の紙面のトークショーの内容が、「今、教養とは」であった。
なかなか納得しやすい言葉で、各自が語っていた。 印象的な発言を集約してみる。
日本画家の千住博の講演がユニークである。 {サルにとって、進化するための教養が壁画だった}という説が面白い。

西欧州の300ある洞窟の壁画のうち、新しいものの一つにアリタミラの壁画がある。
約1万5千年前、時代は氷河期であった。その時期、氷河を前に旧石器人は洞窟に引きこもるしかなかった。
そこでやることはなく、絵を描いたのです。絵は洞窟の奥ほど古く、出口ほど新しく次第にリアルになっていった。
(数千年かけて書き継がれていた)これはなかなか良いとか、こう描けば良いとかといったコミュニケーションが生まれていった。
彼らは絵を描くという行為によって一歩ずつ人間に近づいていった。
その過程で、イマジネーションや観察力、知識、理解力、コミュニケーションが、当時の旧石器人に芽生えた。
つまり芸術がサルをヒトにした。それがアルタミラの壁画の持っている意味です。サルにとって、進化するための教養が壁画だった。

芸術を料理にたとえてみる。つくり手が材料から、美味しい料理を作ろうというイマジネーションが、
他人に食べてもらおうという、コミュニケーションになります。
芸術とは作り手が、自分のイマジネーションを、何とかして他人に伝えたいと思う心です。
「俺の叫びを聞いてくれ」「私の歌を聴いてくれ」と思うのが芸術なのです。
私はこの芸術的発想が人類の発生と同時に存在していながら、こうした考えが弱まる時代は非常に危険だと思います。 
だからこそ、芸術がサルを人間に引っ張り出したという歴史を考えてみる必要があります。
相手が伝えようとしていることに対して、まずは相手の話を聞く。こんなことをしたらどうなるのだろう、と考えてみる。
たったこれだけのことがこの時代にどれだけ大切なことか。この発想が、教養という考え方の柱になると思っている。
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以上だが、現代の教養は書物はさることながら、インターネットとブログという手段を使いきれるかどうかが、
その人の教養度を大きく左右するだろう。
                      \(^▽^*)バイ! 
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