2007年11月09日(金)
2411, からだのままに
               (☆-v-)。o○《Gооd Мояйiиg》
 「からだのままに」 ー読書日記ー
               南木けいし著 文藝春秋
数年前、レンタルDVDでみた「阿弥陀堂だより」が非常に印象的であった。
図書館で見つけた本だが、その著者の随想なら読む価値は充分にある。
2004年から2006年にかけて種々の媒体に発表された随想である。
臨床医師として、文学界新人賞芥川賞と受賞した医師だが、終末医療に携わる中で
ストレス障害から体調を崩し38歳の時にパニック障害から欝病になる。
書くことも読むことも出来ない中で、生かされている自分を見つけ出し、医師として、また作家として復帰する。
映画も、この随想からも、何ともいえない人間としての深みを感じ取れる人である。
私よりも6歳も下の人とは驚きである。 本人が深い病気を経験したり、多くの患者を看取ってきた経験と教養の深さだろう。
こういう人を知るにつけて、己は何をしてきたのだろうか?と、・・・。
 ーまずは特に印象に残った部分を抜粋してみる。

 *業の深さ      pー106
末期がんの患者さんを常に数人担当していたから、こんな精神状態では、患者さんを楽にするためより、
自分が早く肩の荷を降ろしたくなってモルヒネを大量に使ってしまうのではないかと心底恐ろしくなり、
上司に懇願して、外来診療のみを担当して、16年経った。小説を書き始めたのは、医師になって二年目あたりで、
人の死を扱うこの仕事のとんでもない「あぶなさ」に気づいたからだった。
危険を外部に分散するために書いていたつもりだったが、それは内に向かって毒を凝縮する剣呑な作業でもあった。

 *病んで出合った『流れとよどみ』 p−110
その後、医学の教科書に不定愁訴として記されているすべての症状にみまわれ、
とりあえず死なないでいるのが精一杯の状況がかなり長く続いた。
書くことはもちろんできず、活字を読む気力もなかった。
不安、焦燥感にあおられる日々から逃れるためなら、と自裁を想いつく己の思考回路が恐ろしかったが、
その回路のスイッチを切るために向こう側の世界へと誘い、そっと背を押す見えない力のほうがあとで
冷静になってみればはるかに怖かった。こういう根源の恐怖を体験してしまうと、世俗の価値の調整などどうでもよくなって、
とにかく死なないでいることの大事さのみを考えるようになる。 九十歳をすぎた老人患者さんの、
「これでねえ、死なないでいるてのも大変な仕事だよ」とのため息に深くうなずく。
症状がいくらか軽くなってきたある朝、新聞で大森荘蔵のエッセイを読んだ。
人は大いなる自然の一点景でしかなく、人の感情も天地の有情に左右されるばかりのものにすぎない、
との一見ありふれた内容で、こういう説を押し付けがましい難文で読まされたら即座に反発していたところだが、
老いた哲学者の文章はどこまでも明晰で澄みわたっていた。書かれたものが身の奥にしみてくる実感があった。
心身ともに弱くなると、読む者を思考停止に陥れる安易な言い切り文に頼りたくなり、あとで大いに後悔するのが常だが、
大森荘蔵の文章は何度読み返しても新鮮さを失わない。 それはおそらく、永年積み重ねられた精緻な哲学的思考が、
分かりやすさを最終目的とした「試論」として提出されているからなのだろう。『流れとよどみ』(産業図書)は
一九八一年初版のエッセイ集だが、内容が古びて感じられるものは一篇もない。
なかでも「真実の百面相」と題された章は今日に至るまで最も多く読み返した達文である。
  ー以下は、その一部であるー
  「本当は」親切な男が働いた不親切な行為は嘘の行為だといえようか。
  その状況においてはそういう不親切を示すのも親切男の「本当の」人柄ではなかったか。
  人が状況によって、また相手によって、様々に振るまうことは当然である。
  部下には親切だが上役には不親切、男には嘘をつくが女にはつかない、会社では陽気だが家へ帰るとむっつりする、
  こういった斑模様の振る舞いかたが自然なのであって、親切一色や陽気一色の方が人間離れしていよう。
  もししいて「本当の人柄」を云々するのならば、こうして状況や相手次第で千変万化する行動様式が織りなす斑なパターンこそを
  「本当の人柄」というべきであろう。 そのそれぞれの行為のすべてがその人間の本当の人柄の表現なのである。
               
   ノヾィ♪ヾ(´_`●)ノ ノヾィ♪
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