2006年11月08日(水)
2045, あたりまえなことばかり −2
   「 あたりまえなことばかり」 池田晶子著  ー 読書日記 
                 (。^0^。)オッハ〜
                 
 この本の面白そうな項目から取りあげてみると「考えるとはどういうことか」になる。
「考える」とは、実際のところなんだろうか? 言葉の羅列?それとも、思いつき?、
 それともそれらを対比し、その差異と同定をしながら掘り下げること? 
 まずは、この本の面白そうなところを抜粋しながら「考えて」みる。我慢して最後まで読んでください。それも何度も!
 当たり前のことに何の疑問を感じなくなってしまっている、自分の感覚を呼び戻すためにも・・
  ーー
? 考えるとはどういうことか ー?ー

 *私が日がな何を考えているかといえば、考え始めたはじまりにまで遡ってみると、一言で言えば人生についてです。
  人生というと一言で敢えて具体的にいえば「生まれてきて、死ぬことです」あるいは「誰もが自分である」ということ。
  この当たり前のことが、不思議ではないですか? そんなのは当たり前といいますが、本当に当たり前と言われるが、
  それでは如何いうことか、解るのですか?生きることも、死ぬことも誰も知らないのに、どういうわけか皆知ったふりをして、
  毎日を生きているわけ。
 *キリストの言葉というものをよく読んでみると、私を信じろとはいってませんね。
  あなたの内なる神を信じよ、といっているのです。ところが、生命とか宇宙とかの不思議が本来もうどうしようもない謎を
  忘れた人たちにとっては、キリストそのものが信仰の対象になってしまうのです。 キリストだって分りませんよ、そんなこと。
  ところが自分がわからないといことを忘れているから、ただの権力闘争になってしまう。本末転倒なわけです。
 *どう考えるかという問いにあえて答えるとしたら、一言「驚け!」です。
  驚くしかない、驚けばそこから必ず考え始める。 なぜなら、知りたいからです。
  アリストレスも最初から言っている。哲学は驚きから始まるうる、と。驚きの無いところから、知りたいという
  動きは始まらない。考えることで、誤解されていることは、何かを悩むことだと思われているが、これは正反対のことです。
  考えることは、決して悩むことではありません。きちっと考えてないので、ぐずぐず悩むのです。
  そもそも考えることの始まりは、自分があることや生命の不思議を知りたいということであって、
  それをどうこうしたいということではありません。考えてわかったところで何も変わりません。
  自分が生きて死ぬことも、自分が自分であることも何も変わっていません。
  だから考えてどうなるかと言われても、どうにもならないということです。けれども、ひとつ決定的に違うことがあります。   
  {自分が生きて死ぬということがどういうことか、ということがハッキリ自覚できるということです。
   この日常の不思議さを自覚しながら生きるということは、納得と確信を手に入れることができるのです。
   そうすると、生きる姿勢が全く変わります。 当たり前の日常を自覚的に生きるのとそうでないのとでは、
   全く構えが逆になります。つまり、強く生きられる。そのことが、考えて何の得になるのかと問われれば、
   あえて得の部分だという答えです。 無用の用という言い方における、用ですね。}
   ーー
 「考えるとはどういうことか 」の抜粋は次回も続くが、字数の関係上、まずは以上のことから考察してみよう
 「日常の当たり前のこと、すなわち生死など人生のことや、宇宙の不思議さを自覚しながら生きると、
  納得と確信を手に入れることができる。  そうすると生きる姿勢が変わり、構えが変わってくる。
  決して、考えることは無用の用ではない」という論は説得力がある。
 「よく考えることは、よく生きることと同じである」のは、よく考えるということは、人生の構え(姿勢)
  が変わってくるということになる。先日、ネアンデルタール人と、クロマニョン人の混血人の骨が発見された
  という ニュースの中に、なぜクロマニョン人が取って代わったかのか?という疑問に、言葉系ー考えが上だった
  という研究結果だった、とあった。
                                   \(^▽^*)バイ!
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