2007年11月05日(月)
2407, こころの旅 ー6
                  ○´ω`○)ノ**c⌒っ *・∀・)φ【才八∋ゥ♪】
   
   この本は、ところどころに見逃すことの出来ない「人生の道理」の内容で満ちている。
   それを知っているといないとでは、人生が全く違ってくるだろう。
   その意味では、この本は常に身近において読んで置いてよい本である。
   ・一歳半〜五歳位の間におきる脱中心化=自己客体として自分の身体を客観化する転換期、
   ・思春期におきる超時間的な抽象的時間の概念をもつようになる転換期、
   ・熟年時におこる宇宙時間の実感化への転換期、 と、人生に三回のコペルニクス的転回を指摘している。
    私は宇宙的時間の実感化はおこり始めているが・・・
  まずは、その部分を抜粋して考えてみる。
  −−−−−
*人生の三回のコペルニクス的転回

・第一の転換期については、ピアジュは子どもの研究において、一歳半ぐらいまでの幼児は
 すべてを自己中心に考えているけれども、一歳半ごろから自分の活動を自分のからだから
 「脱中心化」し、自分のからだをほかの客体の中の一つとして見ることを始める。
 これは四歳ごろから顕著となり、五、六歳ごろには本格的なものとなる。
 つまり、空間における自分のからだを客観的に見ることができるようになり、
 ものを抽象的に考えることができるようになる。これが第一の転換期という。

・さらに思春期ごろから第二の「コペルニクス的転回」が起こる。 青年は時計の「物理的時間」は便宜上のものに
 すぎないということがわかって来て、超時間的な、抽象的な時間概念をも持ちうるようになるという。
 つまり時間というものは極めて不思議な、哲学的な問題であって、青年期にこの問題に思いをひそめる人は必ずしも少なくない。
 この時期に充分に発達した意識を持って自己のからだと心に対面し、世界と社会の中における自己の位置と役割を
 シカと見定めるところにある。 自己と自己のと分化は人だけに見られることである。

・向老期の頃から、他人が自分をどう見るかは大した問題ではなくなる。 その他人もまた死んで行くのだから。
 それより自分こそ、自分の一生が決して完全無欠なものではないことを知っている。
 ましてや、もっと大きな眼からみれば、自分の一生などなんとおかしな、こっけいな、あわれむべきものであろうか。 
 それにもかかわらず今まで人間として生きることを許され、多くの力や人によって生かされてきた。
 生きる苦しみもあったが、また美しい自然やすぐれた人びとに出会う喜びも味わわされた。
 そしてこれからも死ぬときまで許され、支えられて行くのだろう。 ひとは眠っているときにも支えられているのだから、
 これからも自分が意識するとしないとにかかわりなく支えられて行くのだろう。 永遠の時間は自分の生まれる前にもあったように、
 自分が死んだあとにもあるのだ。 人類が死にたえても、地球がなくなっても、この「宇宙的時間」はつづくのだろう。
 自分は元々その「宇宙的時間」に属していた。だからその時間は自分の生きている間も自分の存在を貫き、これに浸透していたのだ。
 げんに一生のうち、その「永遠の今」を瞬間的にでも与えられた人もある。
 時間を川の流れにたとえるのは、岸辺にあってその流れ見ている観察者を想定しなければ成り立たない比喩だ、
 という意味のことをメルロー・ボンティーは言った。厳密な意味では人間は観察者なりえない。人間は流れそのものだから。
 だから観察しているとしたらそれは「神」か、何らかの超越者だろう。
 この観察者をペルソナとして考えがちなのは人間らしいことであり、同時に人間の精神の限界を示すものであると思われる。
 (ペルソナ=仮面)こういう宇宙的時間の永遠性に対する感覚が生まれてくるに従って「コペルニクス的転回」は深められ、
 ついには青年期に垣間みられた第二の転回よりはるかに徹底した第三の転回に行きつくのだろう。
 それに従って老いつつある人間にも死を越える未来が開け、全てはその永遠の時間に合一するための歩みと感じられてくるであろう。
 そのとき、人間はどれだけのしごとを果たしたか、ということよりも、
 おかれたところに素直に存在する「ありかた」のほうが重要性を帯びてくるだろう。
  ーーー
以上だが、「永遠の時間に合一するための歩み」に近い感覚は、遺跡にたった時に感じる奇妙な感覚に少し似ているだろう。
それと、南米のテーブル・マウンテンで感じた数千万年、数億年の時間感覚に。
                                        ☆ァディオス☆(`・ω・´)ノ
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