2005年11月04日(金)
1676, 「自薦エッセイ集 魂の光景」−2

深く考えさせられる内容である。 まずは、この文章を!
 ー「イルカは跳んだーある感触」−

男はイルカのことを考え続けている。イルカ一般のことではなく、1960年代の末ごろのハワイの海洋研究所に
飼われていた一頭のメスイルカのことを。このメスイルカは研究所の訓練者が呼子を吹くとある動作たとえば水面に跳び出て
尾びれで水面を叩くという芸をみせて、餌をもらうように仕込まれていた。その研究所に来る見学者にその芸をみせるのである。
ところがある日、その芸をしても餌はもらえない。 2時間休んで次のショーの時も餌をもらえない。 
当然イルカは当惑して混乱して苛立つ。そうして数日後14回の苛酷な、虚しい演技が終わったあと休憩時間に、
イルカは明らかに興奮した嬉しそうな顔をする。そして15回目の舞台で、いきなりこれまでみせたことのない
4種類の演技を含む8種類の違った演技を、次々とやってのけたのである。 そして、やっと餌をもらえたのである。

それまでの毎回同じ演技をすれば餌をもらえる、という条件反射的行動から、
一回ごとに違った動作をしなくては餌をもらえないという複雑な一段上のルールを認識したのだ。
このイルカの話を、男(日野)はグレゴリー・ペイトソンの本の中で読んだ。
「ここでイルカはひとつの跳躍を、論理階型間のギャップのとび越えをやってのけたである」とベイトソンは書いている。
このイルカのことを、男(日野)は考え続けている。14回までの彼女の苦悩と不安を、
14回目の後の休憩時間に起こった劇的なひらめきを、そして15回目に実現した彼女の論理階型の新生を。
 べトソンは
・初めのイルカの段階つまり単純な条件反射的行動を「学習?」となずける。
・それに対して、様々に起こる出来事、つぎつぎと置かれる事態の間に コンテクト(文脈・脈絡)を見出して、
 それに従って行動する(適宜修正しながら) 段階を「学習?」と名づける。
 人間の場合は、幼児教育を終えると原則的に「学習?」の段階に到着する。
 教育とか、しつけはすべてこの「学習?」の強化でしかない。
 家庭の躾、学校教育、社員教育、勤務時間が終了した後の先輩達の新人のしつけなど。
さらにベイトソンの学習理論の独自さは、バートランド・ラッセルの「論理階型」の考え方を導入して、
「学習?」のメタレベルとしての「学習?」の上に、そのまたメタレベルとしての「学習?」、
さらにそのメタレベルとして「学習?」まで想定したことだ。
ただし「学習?」は、論理的には要請できても、現在の進化レベルでは
「地球上に生きる生物がこのレベルの変化に生きつくことはないと思われる」としている。
 −ー
著者は、この後の文章で、自分人生を振り返ってみて、学習?と?の間のレベルの狭間に宙ぶらりんに
なっているだけの自分を振り返るのだ。

ーさらに男(日野)の文章がつづく。
いま男が透視できないもの。 男は一応社会生活を続けてきたのだから、
学習?のレベルのもろもろのルールを身につけているといっていいわけで、
従っていま男を苦しめているのは。学習?のレベルの見えないコンテクト(脈絡)に他ならない。
ベイトソンがよく使う比喩だと、地面(学習?レベル)に対する地図(学習?)、
そのまた上だと、「地図の地図」ということになる。もはや、それは地図とはいえない何かだろう。

ーこれからは私の評論になる。
「はたして自分は『学習?』にレベルアップできたのだろうか?」という自問自答が誰の中にもあるだろう。
イルカが到達した一段上のレベルへの飛躍はあったのだろうか?
ベイトソンは、イルカを人間の潜在能力の例えにして解りやすく学習?への飛躍と、学習?の可能性を説いている。
イルカが、それまでの指示通りの行為に何ら餌をもらえなくなって、大混乱をしたとき、新しい脈絡を見出した。
これは、ギリギリになって出てくる飛躍ー知恵である。 男(日野)は、はたして自分は飛躍をしていたのだろうかと、
自分の奥深くに問いただしている。 見方によっては、ベイトソンの問いかけも不自然といえる。
「イルカに対して、見世物としての飛躍を要求したに過ぎない」イルカの調教は全く不自然な行為でしかないという見方である。
『何が、イルカが跳んだ』か、である。 解りやすい事例として果たして人間の能力の例えになるだろうか?、と。
でも、イルカが混乱の中から飛躍した答えを見出したのだ。自分の中のイルカを想定して学習する(自己啓発)のも面白い。
自分は跳んだことがあるのだろうか?誰も突きつけられる人生の大問題である。そしてまた跳ぶ必要は果たしてあるのだろうか?

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