2007年10月29日(月)

2400, こころの旅 ー4
                (* ̄0 ̄)ノ 才八∃一 gozaimasu!
 *まわり道*
   神谷八重子の「こころの旅」ー第六章の中に青年期の「まわり道」について書いてあった。
    同じようなことが、立花隆の文章にあった。
   「青年期の10年は潜伏期間、そこで何を蓄積するかで人生が決まってくる」と。
   誰もが直線的な人生より、まわり道をする。 が、問題はその道で如何に自分を培養するかである。 
   行ったきりの人生もあるが・・・  精神喪失(精神病)や自殺は、その極端な事例。 
   一つや二つは、迷路の迷い込み七転八倒した経験は人知れず持つのが人生である。
   お伽噺や神話は、その理想の物語として我々に提示される。 まわり道こそ、物語なのである。 
   その時は辛く、激しく、情けなく、悲しいが、しかし真実と夢があった!
   
    逆にまわり道のない人生は、そこに何の味わいがないだろう。 中学校の担任が定年の祝いの同級会の二次会で、
   「オレの人生はなかった!両親が先生で、今も90歳近いのに矍鑠としている。そして二人のコントロール下にある」 
    という言葉が重く聞こえた。   
   ーp.121ー
  ・・・しかし人生はまだ長い。これですべてが決定されてしまったわけではない。
 「運命」と当面のしごとが要求することを忠実にはたしているうちに、意外にもそこから本来の道へ行く糸口が
 あらわれてくることもある。あるいはまったく思いがけない人がみていて、本道へとつれ出してくれることもある。
 けなげに目前の仕事に励んでいる者は長い間見捨てられているわけではない。
 いずれにせよ、青年期にまわり道をすることは一生のこころの旅の内容にとって必ずしも損失ではなく、
 たとえもし青年期を病の中ですごしたとしても、それが後半生で充分生かされることが少なくない。
 人間は「ただではころばない」という芸当もできるのである。 落伍者のようにみえた青年の中から、のちにどれだけ
 個性豊かな人生を送る人がうまれたことであろう。それは彼のこころの道中で、順調に行った人よりも多くの風景にせっし、
 多くの思いに心が肥沃にされ、深くたがやされたためであろう。 そのためにやっと「わが道」にたどりついたとき、
 すらすらと一直線でそこに来た人よりも独特なふくらみを持った、人のこころにせまる仕事をすることができるだろう。・・・」
   ーー
   人生60年余生きてきて、無駄なことは無かった!と実感する。 それも順境の時より、逆境の時の方が有益だった。
  「順境は枝を張れ、逆境は(枝葉を切って)根を張れ」というが。佐藤優の文章が心を打つのは、
   決して奇麗事を書いているからではない、留置所の中で差し入れられた本を読み、考え、言葉を練りまわしていたからである。   
   そこを「勉強の場」として、割り切ったからである。 まわり道の中でこそ、個性ができるのである。
                                       honnja ヾ(・ω・`)ノバイ
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