2004年10月01日(金)
1277, [人生の目的]ー五木寛之著ー読書録

 数年前に話題になった本だが、当時あまり興味を示さなかった。
先日、たまたま図書館にあったので借りてきて読んでみた。
幼児期のころから、かなり厳しい生活体験をしている為、書いてあることは暗いが、しかし重い。
彼のーあとがきにかえてーの一文が、全てこの本を伝えている。

ーー「人生に決められた目的はない、と私は思う。
しかし、目的のない人生はさびしい。寂しいだけでなくて、むなしい。
むなしい人生は、なにか大きな困難にぶつかったときに、つづかない。
人生の目的は、「自分の人生の目的」をさがすことである。
自分ひとりの目的、世界中の誰ともちがう自分だけの「生きる意味」を見出すことである。
変な言いかたになるが、「自分の人生の目的を見つけるのが、人生の目的である」と言ってよい。
そのためには、生きなくてはならない。生きつづけてこそ、目的も明らかになるのである。
「我あり、ゆえにわれ求む」というのがわたしの立場だ。

 その目的はナカナカ見つからないものである。
 確実に見つかるのは目的でなく目標である。目標は達成されれば終わる。
 残るのは達成感だけである。それも直に薄れていく。

 人生の目的とは、おそらく最後まで見出すことのできないものだろう。
それがいやなら、もうひとつ、「自分でつくる」という道もある。
自分だけの人生の目的をつくりだす。それは、ひとつの物語をつくることだ。
自分で物語をつくり、それを信じて生きる。しかし、これはナカナカむずかしいことである。
<悟り>という物語、
<来世>という物語、
<浄土>という物語、
<来世>という物語、
<輪廻>という物語、
それぞれが、偉大な物語だ。 人が全身で信じた物語は、真実となる。
ーー
以上だが、深い人生を生きてきたからこそ、このような文章が書けるのだ。
最近、両親の生きざまが、いやに思い出される。私にとって両親を尊敬できるのが、本当に嬉しいとつくづく思う。
あと5年もしたら、どうしても過去を振り返りながら、ソフト・ランディング態勢に入らなくてはならない時期になる。
その時人生を振り返っテ「自分の人生の目的」とは何だったのだろうか、と総括をしなくてはならない。
苦しいが、しかし冷徹に自己評価をしなくてはなるまい。

この本に、前回借りた人が書いた、メモが挟んであった。
達筆な年配の人のような字だ。 それを書き写してみる。
「他力の信は義なきを義とす。生きている限り生老病死の影は、私たちにさしつづける。
 このことは、わがはからいにあらず 災難に会うときは会うがよろし 死ぬる時は死ぬがよろし 
 人生は暗夜の山中行である 人は彼方の灯火に勇気づけられる それを他力本願という」
 
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